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最近観たお芝居~「えーるーる」大谷高等学校

「いい試合とかいらない。ボコボコにするぞ。」

いきなりお芝居と関係ないマクラで恐縮です。
情熱大陸(TBS)2夜連続SP イチロー(2024/12/22,23)を録画・視聴しました。「鈴木一朗」の名前を、オリックスブルーウェーブ2軍の情報を伝えるラジオから聴いていた僕としては当然HDDにプロテクトをかけています。その2夜目。高校野球女子選抜vsイチロー選抜KOBE CHIBEN 
https://www.womenbaseball-ichiro.jp/2024/
の試合に密着していました。初回、先発イチロー投手が高校生に打ち込まれ、松井秀喜外野手のアクシデントもあって3失点。イチローさんのスイッチが入った。その直後の円陣で。
「いい試合とかいらない。ボコボコにするぞ。」
イチローさんが吐き出した言葉。
この大人げなさ。観ていて堪らなくなるほどワクワクする。
言うまでもないですが、この試合はイチローさんの女子高校野球へのリスペクトから実現した企画です。50を越えた大の大人が、プロ野球で頂点を極めた元選手を3人も擁して、高校生を相手に、本気で試合をする。相手が高校生であろうが同じ野球人として手加減しない。「教える」「指導」と同じくらい価値があって、観てるだけのこちらもワクワクしてしまう。その価値は試合後インタビューでの、本来の主役でありながら全力でボコボコにされる羽目になった高校生たちの受け答えと満面の笑みが全て証明しています。

2024/12/26,1420~
和歌山県民文化会館 大ホール。
時間の都合でこの1作品しか拝見できなかったのですが。
第59回近畿高等学校演劇研究大会
大谷高等学校 えーるーる(山本心・高杉学:作/山本心:演出)

「高校生らしく」というフレーズをよく耳にします。最近は耳にする機会は減ったような気もします。いい傾向だと思います。おそらくは僕と同世代のオッサン連中が好んで使う言葉。僕が大嫌いなフレーズです。「純粋」「純真」であるべき、という、極めて単純化された「大人から見た『高校生はこうあって欲しい』という願望」でしょう。これと似て非なる概念に触れる必要があると思うので、今回大谷高等学校の作品を扱うにあたっては「高校生の等身大」という言葉を用意することにします。
決して純粋じゃないとか老けてるとか老獪とかキラキラしてないとかって意味ではなく、大谷高等学校の役者にも演出にも書き手にも、単純化された「高校生らしさ」を感じなかった。
でも、扱われる題材は「高校生の等身大」に満ちている。
言うなれば「キラキラした老獪さ」。
この二つは全く矛盾することなく共存します。
「等身大」をもう少し詳述する必要があるでしょう。その時々に、自分に見えている、自分を取り巻く環境を、人間関係を、社会を、世界を、どう見て、感じるか。さらに、(演劇に限定していえば)それらを、相手=観客にどう伝えるかも含めて試行錯誤を重ねて初めて「らしさ」を「等身大」に昇華することができるのだと思うのです。

「テンポが早く声も大きい。良い意味で女子校らしからぬ演劇」(ココロコミュ2023.03.29https://cocorocom.com/school/article/51より引用、高杉学顧問のコメント)。さらに付け加えるなら、過剰なほどデフォルメされたトリッキーな役者の言動、唐突に挿入されるイメージの飛躍。結果として、観客はストーリーと思えるようなものから取り残され、強烈なイメージの断片(ネタ的なものも含めて)に拘束され、むろんその全てに驚嘆し圧倒され、終幕ではそれら全ての事象が一点に収束してストーリーとして完結していたことに気づかされる。「ネタやん(笑)」と思っていたエピソードも全てひっくるめてストーリーに不可欠な要素だったと。
「劇団大谷」とも呼ばれる所以が、大谷高等学校の強みが、僕の知る限りではあるけれどこういうところなのだろうと理解しています。

「えーるーる」に特定した記述をせずにここまで来てしまいました。
あに図らんや僕が理解したとおり、僕も上述のトリックに嵌まってしまった結果、詳細なやり取りを正確に記憶していないのですが、その中から印象に残った事象を。
ある生徒の机に、「がんばれ」とだけ書かれた手紙が入っている。手紙を入れるところも誰が入れたのかも観客には見えている。入れられた方は素直に受け取ることをしない。「がんばれ」の表記は少しだけ変わりながら何度か同様のやり取りが繰り返され、その間に生徒たち(手紙を入れた方も入れられた方もそれ以外も)の置かれた状況、抱えている何かが語られ、最後の手紙には。
「がんばろう」。
主体と客体の位置関係が変化した。
「がんばれ」と「がんばろう」の前にそれぞれ「いっしょに」を挿入して成立するかどうか。
息を呑んだ。
最初の「がんばれ」を見て聴いた時点で「いい友達に囲まれてるなあ」などと呑気に微笑んでた僕は。
他人事だった。「がんばれ」と励まして「あげる」上位者という傍観者だった。たぶん普段の僕も知らず傍観者になってるんだろう。
彼女たちは。そのとき役者として舞台上にいた、裏方として支えた、彼女たちは。
傍観者になる危うさに気づいていた。それを言葉にした。
言葉にして、客席にいた僕をぶん殴った。

「少ししか変化できないものなのよね。でもその変化に至るまでが大変な思春期なのよね。 そこを話しながら、みなで作りました。」
終演後に小川コーチと少しだけメッセンジャーでやり取りをしました。
「みなで」という言葉が出てきます。
上記の、僕がぶん殴られたエピソードは、小川コーチの言葉の中ではいうまでもなく「変化」にまつわる部分です。でもその「変化」を舞台上の言葉に昇華させるためには「みなで」が必要不可欠だったのだと思います。
その「みな」の中には、現役だけでなく、サポートに駆けつけた卒業生、顧問、コーチ、いわゆる「大人」の存在も大きな割合を占めている。想像ですが大きく外れてはいないでしょう。
「大人」と「高校生」について語るときに、「教える」「指導」と「全力で立ち向かう」のふた通り(あるいはそれ以上)ある、それぞれ等価値である、と冒頭に書きました。高杉顧問や小川コーチがふだん大谷高等学校でどのように稽古に立ち会っていらっしゃるのか現認しているわけではありません。おそらくどちらも同じように大切にされているんだろうと、あくまで想像ですが。
その上で。
「みなで作りました」から想像されることは。
その部分に関する限り、全力で立ち向かったんだろうと。
基礎の部分は「教え」たのだろうし「指導」もしたのだろうし。そこができた上であれば、「大人対高校生が、同じ演劇人として真っ向から立ち向かえる」。
「みなで」=「高校生も大人も、それぞれひとりの演劇人が複数名集まった集団として」持てる知識や経験を惜しげもなく出し合い対峙して「『変化』を『みなで』作りました」に結実した。
あくまで想像です。より正確には「そうであって欲しい」という僕の願望です。大きく間違っていないとも思ってます。
「いい試合とかいらない。ボコボコにするぞ。」
イチローさんをしてそう言わしめた高校選抜。
言葉こそ違え、小川コーチをして「みなで」と言わしめた大谷高等学校。
終演後、全員ではないけれど出演者たちの写真を見せてもらいました。
ええ顔してる。試合後インタビューに答える高校選抜の選手の笑顔と同じものを感じます。
「こうありたい」「こうであってほしい」僕自身の願望でもありますが、大谷高等学校では「高校生」と「大人」の対等な関係ができている。「高校生らしさ」などが介入する余地はない。そこが強みなんだろうと、そんなことを思います。

「高校生(現役部員)」と「大人」が対等であるかについて、少し補足を。
厳密に言えば、一般論ですが、知識や経験で対等であるとは言えないはずです。現役が「こんなことを思っている」「こんなことがやりたい」と考えていたとして、それらを観客に過不足なく伝える術は、間違いなく大人の方がたくさん持っています。「じゃあこうしてみたらどうだろう」という提案は明らかに「教える」という側面を持っています。その意味で「対等」ではない。
でも、大人は、「こんなことを思っている」を教えることはできません。どこまでいっても現役のポテンシャルです。
現役は「こんなことを思っている」を提示する。それを受けて初めて大人は「じゃあこうしてみたら」を提示できる。必然的に大人は、提示できる「じゃあこうしてみたら」のストックをたくさん抱えていなければならない。大人が提示したものを現役が盗んでくれれば、それはその瞬間に現役たちのものになる。同時に大人は「高校生はこんなことを思ってるんだ」を盗むことができる。あくまでそういった意味で「対等」であるとご理解いただければ。

順不同で、あといくつか印象的なエピソードを。
目の前の人間関係に、自身を含めた家庭にのしかかる不安要素に、対処法が判らず悶々とする。これは高校生に限ったことではありませんが、大人の方が少なくとも「どうすれば直視せずに済むか」くらいの処世術を持ってることが多い。で、「高校生らしさ」という視点で高校演劇の作品を眺めると、「悶々」に対しての周囲の対応が、処世術よりも抽象的な優しさに偏重することが多い気がします。
大谷は、といえば。
どういうわけか「しりとり」を仕掛ける。負けたら尻キック。
しかも。
仕掛ける方はどういうわけか「歴史上の人物」縛り。
尻キックする方もされる方も、なんだかわけがわからないうちに、いつの間にか笑っている。
もちろん笑ってみたところで根本的に何かが解決するわけではない。
問題から適切な距離が取れる、それだけのことだけれど、距離をとらせてくれたのは間違いなく目の前にいる仲間であって。
「歴史上の人物」縛りという問答無用の唐突なルールで攻めてくるトリッキーな仲間であって。
負けたら尻キックという力業で攻めてくる仲間であって。
結果、全員が全員をこの問答無用で唐突で力業のしりとりに巻き込んで巻き込まれて。
気づいたら客席もその雰囲気に巻き込まれて。
高校演劇ではなかなかお目にかかれない、「高校生らしくない」強引な解決。でもこの解決法が、ただ客席にいただけの僕にこれだけ刺さったというのは。
自身なりのルールを決めて自身の等身大の問題を解決しようとしている高校生個人が、自身のルールに従って、周囲の別の個人の問題解決のため相手にエールを送る、という非常に理路整然とした対処法を見せてくれたから、ということなのだろうと(その手段がいかにトリッキーであったとしても)。このことが「等身大」を余さず物語っている、といっても過言ではない気がします。

もうひとつ。
登場人物が巻き込まれる困難の一つとして示されたのが、「お父さんが逮捕されるかもしれない」。
(これ実は思い込みで観てしまったシーンなので、ひょっとしたら盛大に思い違いをしているかもしれない)(※2025/01/03追記。ウラをとったら案の定思い違いだったみたいです。大谷は凄い、というフィルタをかけて観てしまっていた僕の誤読です。そこも含めて「どう捉え楽しむかは観客の裁量範囲」と肯定的に受け取っていただけたので、敢えて削除せずそのまま記述します。示された「事件・事案」そのものは違うものでしたが、大意に影響しないと判断しています。)
嫌疑が「お父さんが会社で『選挙での投票依頼』だったか『教科書採択に係るアンケート記入への恣意的な要請』だったかを他の従業員に強要してしまった」(こんな重要なところをごっちゃにしてしまう僕の記憶力よ)。
ひとつめなら兵庫県知事選、ふたつめならフジ住宅ヘイトハラスメント(こちらは上告棄却により控訴審での有罪判決が確定してるから実名出してもいいだろう)、まあいずれにしても、だ。
実名こそ出していないものの、こんなリアリティあふれる実在の犯罪行為を出してくるのか、と、あまりの生々しさにむしろ呆気にとられて笑ってしまった。
これを、こんなリアルな問題を、題材として取り込もうというのは、彼女たちに立ってるアンテナはどこを指向してるんだろう?社会を、世界を見る、見ようとするその感度に戦慄する。いうまでもなくそれ(この作品のイメージからすると大袈裟とも映るが、そのギャップも確信犯的な所業と考えれば笑いに昇華できる)を題材として落とし込み使い切る手管にも。
大人の入れ知恵だな、と想像してます。少なくともヒントくらいは出したのだろう。とても好ましい意味で、大人げない。ワクワクさせられる。そんな大人げない大人たちの挑戦を真っ向から受け止めた現役たちに、心からの賞賛を贈ります。

「高校演劇の作品」としての「えーるーる」評というには総論的なところに言葉を割きすぎた。そのことは自覚しています。言い訳ですが、高校演劇とか小劇場とか商業演劇とかジャンル分けに囚われることなく、1本の演劇作品として、これほどに愉しめた。考えることができた。ゆえに、単なる「いち作品の感想」に止めるのは惜しい。そう思わせてもらった。
そして、これだけ愉しめた、考えることができた、その要因は、現役の力と大人の力が拮抗して共振した、あるいは、大人たちの大人げなさを全力で受け止めて利用し切った現役のポテンシャルにあったと、キラキラした老獪さにあったと、いまこれを書きながらあらためて理解しています。
更に言えば、この大人と現役の関係性が続く限り、「劇団大谷」は面白くあり続けるんだろうと、そんな風にも思います。

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