「それは僕らも見るはずの景色」
いつか見える景色
これは悲しい話しになりそうだけれど、人間の強さについて。
終末期医療に携わりだして、患者さんから「もう死んでもいい」とか「こけたら死んじゃうかも」という言葉に出会うようになりました。
そんな言葉・患者さんに出会うたびに、僕はそからどう世界が見えているのか気になっている。
同じ部屋にいるときによく言われるのだけど、そこから見えるモノが患者さんと一緒だとは思えない。
窓から空が見えたり
部屋のテレビが埃を被っていたり
だいたいは高齢の一人暮らしか、身体の不自由な方だったりするのだけど。(そういった方と関わる仕事です)
とりあえずその方たちが弱音を吐くのはメンタルが弱いからではない。それだけは断言できる。こんな僕でもそれくらいは分かる。
むしろいつかは僕もそれに触れると思っていて。それに備えないといけない。
それでは、
前置きが長くなりましたが「それはいつか僕らも見るはずの景色」
始まり。
まずは意識しだしたキッカケが9年前のことです。
患者さんからの言葉。
「私はこけたら死んでしまうかもしれない」
それは確かに事実なことでした。
よく教科書にも載っている、(老年医学会から転倒のリスクについての啓発がよくあります。)
知識として持っているのだけど、目の前で患者さんから言われると、ハッとさせられるものだった。
患者さんがすべての話しをし終えて帰るとき、ふと
「私はこけたら死んでしまうかもしれないのだ」と言われたのだ。
なんでもないことのように。アッサリ。
えっ、なんでいきなりそんなことを言ったのだ?と思っていると、本当にゆっくりと歩いていった。誇張なしに、毎秒20cmくらいのペース。
慌てて、サポートをしにそばに駆け寄りました。
そのとき、人によって見ている世界は違うモノだと理解しました。
そんな出かけて歩くときに死と隣り合わせの世界観ってどんななのだろうと思った。
そこから。
街中で
杖をつきながらゆっくり歩いているお婆さんを見ると、そこに死を意識しているのかと思ったり
医療現場で
末期癌になって娘にトイレの世話もしてもらうようになった父親がどう考えているのかと考えるようになった。
そしていつか、僕も世界が違って見えるのだと思った。
なぜなら体は老いていくのだから。
そして、、、悲しい世界に飲まれたくないなと思ったのです。(対峙したときのために備えておきたいと)
そんなとき、在宅医療で旦那さんが先に亡くなった奥さんがいて、「私はもう生きたくもないのだけどね」と言われた。
やっぱりその方が見ている景色ってどんなのだろうと気になった。
(その方は我が儘な性格で、すぐにアレコレ仰られていた。ちょっとモンスターペイシェントに近い
。そんな患者さんでさえ、隣にいた人が消えると、やっぱり寂しくなるようです。)
どんな景色が見えているのか?
その部屋から見ている街並みは寂しいのか?
夜一人でいるときはぐっすり眠れているのか?
そんなことが気になっていた11月。
ふと寒くなった夕暮れに分かった気がした。
それはたぶん、影が夕暮れに沈んでいく中で、信号待ちをしているときに近いのです。
とにかく理由もなく寂しかった。そしてここではなんの対策も持てない。そう思った。
ただただじーっと暮れていく景色を見ていた。
しかし人間は強いものです。ここで話しは終わりません。
その夜、帰り道にコンビニによると、そのときにはもう寂しさなんて消えて、なんとも思わなかった。
きっと人間って変化を受け入れるときだけ辛いのだと思う。
老後のことも一緒。乗り越えてしまえば立ち直ることはできる。
その証拠に。
旦那さんに先立たれたあの奥さんも、いまでは「早く薬を持ってこい」「痛み止めはまだかー」と以前の我が儘さを発揮して非常に強く暮らしておられます。笑
それを見ると、やっぱり人間は強いのだなとも思うのでした。