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ストⅡザンギエフの名を冠したソ連のプロレスラー、ビクトル・ザンギエフ

1991年3月に登場した初代ストリートファイターIIの衝撃は当時を知るゲーム少年なら皆ご存じだと思います。ゲーセンは瞬く間にストⅡに占拠され、後に登場した対戦台は更なる熱狂を生み出しました。
登場キャラの一人であるザンギエフは一撃必殺スクリューパイルドライバーの魅力も相まって一躍人気者に。しかしこのザンギエフの名前の元ネタになった人物をご存じでしょうか?
今回はザンギエフと同じ名前を持つ実在のプロレスラー、ヴィクトル・ザンテミロヴィチ・ザンギエフの伝説を語ります。


日本初登場時のザンギエフ。当時27歳でした。

❶2025年のザンギエフ・ことの発端とは

今回この投稿を書くきっかけは、2025年のお正月に何げなく投稿したTwitterへのポストが発端でした。僕が相変わらずMSXのソ連ネタを探しにネットの大海を彷徨っていると、かつて日本で活躍していた旧ソ連のプロレスラー、ビクトル・ザンギエフ選手の映像が見つかったのです。懐かしさのあまりXに投稿すると何と僅か数日間で60万回も再生されることになりました。

驚いたのは僕はプロレスマニアだったこともあり、実在のプロレスラーであるザンギエフ選手を知らない人が多かったことです。またストⅡのザンギエフのウイキペディアにも

「ザンギエフという名前は実在するソ連のプロレスラーから付けられた 」出展『月刊ゲーメスト増刊 ストリートファイターII』新声社

とあるように、名前の元ネタであることは結構有名なことだと思っていました。
またストⅡのザンギエフはモヒカンで筋骨隆々な肉体に赤いショートタイツといういで立ち。使用する技も派手なアメリカンプロレスといったキャラクターデザインです。一方実在のザンギエフ選手は波平頭に口ひげ、レスリング競技者らしい引き締まった肉体とブルーのレスリングタイツ。使う技も地味で、外見の共通点は「とにかく胸毛が濃い」ぐらいしかありません。


初代ストリートファイターIIのザンギエフのイラスト。もはやおなじみですね。


まだキャラ設定が明確ではないような気がします。


新日本プロレス登場時のザンギエフ選手、全くストⅡザンギの面影はありません。

このことは常識だと思って僕のXのポストでは「ストリートファイターⅡのザンギエフのモデルとなった」と書いてしましました。あくまで名前の元ネタと言う意味だったのですがこれは軽率でした。少なくない人が「ザンギエフのキャラクターそのもののモデルとなったプロレスラー」と勘違いしてしまったのです。そのためかストリートファイターIIの生みの親である西谷亮氏が直々に「(キャラクターの)モデルではない」とXでポストするという事態にまで発展することになってしまいました。


僕は後に訂正文を追加し、改めて改変ポストをした上で西谷亮氏に先日「ストリートファイターⅡのザンギエフのモデルとなった」という誤った投稿をしてしまいました、申し訳ありません🙇とお詫びしました。西谷亮氏は「いいね」を押してくれたので一安心しましたが、本当に申し訳ないことをしたなと思っています。


しかし新年早々のこの炎上に忸怩たる思いがあり、今年の初めのnote投稿はこのネタにしようと心に決めたのでした。

❷ストⅡザンギエフとザンギエフ選手の関連性


初代ストリートファイターIIの攻略本。みんな持ってました。


8人の登場キャラはどれも個性的でした。

西谷亮氏は今回のポストでこう述べています。

モデルではないですね。順番が逆です。
・巨漢系のキャラが欲しかったのでいくつかあったデザイン候補から選んだ。
・仮の名前で私が勝手にウォッカゴバルスキーとした。(スーパーパンチアウトが好きだったのでw)
・そのだいぶ後に、このキャラのドッターに名前を相談して名前をザンギエフとした。
※ちなみにこのキャラのドッターの方にはダルシムの名前も助言いただいています。


504(レトロゲーム)さん提供

このことは当時のゲーメストなどにも経緯が掲載され、504(レトロゲーム)さんが纏めてくれました。
つまりデザインやキャラクターが独自に創られていき、最後に名前だけが付けられたということになるようです。こうなると名付け親になったドッターの方の証言が気になるところですね。

『ザンギエフの名前の元になった実在のレスラーがビクトル・ザンギエフ選手かどうかは、相談したドッターさんにしかわからないということでしょうか。』

という問いに対して西谷亮氏は

「おっしゃる通りですね。名前の助言を聞いて決定しただけなので、ビクトル・ザンギエフさんかどうかまでは私の方ではわかりません。」

と回答されています。


これに関しては僕の方から推測と考察していきたいと思います。初代ストリートファイターIIの開発時期はソビエト連邦はまだ健在で、またソ連国内にはプロレスというものは存在しませんでした。ソ連では国家の援助のもとに養成された実質的なプロ集団である「ステート・アマ」と呼ばれる選手たちが多くのスポーツで活躍していました。しかしそれはあくまで国威掲揚のためであり、オリンピックや世界選手権などの大会の公式競技に限られていたのです。


レッドブル軍団のメンバー達

もちろんアマチュアレスリングもその一つでしたが、ペレストロイカ政策の一環でソ連の国家スポーツ委員会が新日本プロレスと提携したことを機にソ連のアマレス選手がプロに転向。1989年2月22日にレッドブル軍団として初来日を果たすことになります。この時のメンバーは

サルマン・ハシミコフ 
ビクトル・ザンギエフ 
ワッハ・エブロエフ
ウラジミール・ベルコビッチ 
チムール・ザラソフ 
アンドレ・スルサエフ
エフゲーニ・アルチューヒン

当時ソ連のプロレスラーはこの7人のみに限られたことになります。ネットもない時代でしたからこの名前の一致はほぼ間違いないと思ってよいと思うのですがどうでしょうか。
また長期にわたりソ連との仕事を経験した父によると「ザンギエフという名前は私の知る限り聞いたことがない。ロシアでもそんなにメジャーな名前ではないと思う。」とのことです。
またストⅡのザンギエフは「ペレストロイカの成功のためのレスリングによる国際交流を依頼されての参戦」という設定なので、この点もレットブル軍団と酷似していますね。

折角なので初代ストリートファイターIIの開発秘話です。









❸ザンギエフ選手、かく闘えり・新日本時代


日ソプロレス調印式。1985年ロッキー4炎の友情のプロレス版という趣でした。

ビクトル・ザンギエフ選手はレッドブル軍団の副将格という存在でした。これは大将のサルマン・ハシミコフがレスリングフリースタイル世界選手権で4回優勝という実績面で抜きに出ていたからだと思います。
言うまでもありませんがアマチュアレスリングとプロレスは全く違うジャンルです。アマチュア野球とプロ野球が基本同じルールであるのと違い、競技の性質が根本的に違っています。アマレスは純粋たる格闘スポーツ競技であることに対してプロレスは観客に「魅せる」ことを主体としたエンターテイメントだからです。かつて村松友視はプロレスを「比類なきジャンル」と表現しましたが、言い得て妙と感じました。
プロレスというジャンルが存在したなったソ連の国家スポーツ委員会の幹部に対し、モスクワに飛んだアントニオ猪木はこう熱弁し、猪木流プロレス定義「四つの柱」を語ったと言います。

一.受け身は己を守るだけではない。優れた受け身の技術はかけられた技をより美しく見せられる。

二.攻撃は見る者に力強さと勇気を与える。攻撃した相手にケガをさせないのもまたプロの技術だ。

三.プロレスの持つ最大の魅力は、人間が本来持っている怒り、苦しみという感情を直接、人に訴えることができることである。

四.人とは、漢字では二つの棒が支え合っているという意味だ。感動的な試合、激しい試合はレスラー同士の信頼から生まれる。

これはプロレスの本質を見事に表現し、また詩的にも美しい猪木ならではのプロレス哲学とも言えます。この言葉に幹部だけでなく選手らも感銘を受け、猪木は自らの技術と技を披露したと言います。最後はウォッカの飲みあいをして信用を勝ち取り、国家体育スポーツ局は交流の正式文書に調印、提携を結ぶこととなるのでした。これがソ連のアマレスラーが新日本のリングに上がることとなった経緯です。


猪木はモスクワでのプロレス大会を衛星中継で世界中に配信する構想だったそうです。

余談ですがこの猪木のソ連とのスポーツ交流は国家的な事業として極めて大規模なものでした。プロレスだけでなくソ連のアマチュアボクサーをプロボクシングに転向させるプランも実行されています。その一人が芸術的な右クロスカウンターを武器にボクシング世界チャンピオンとなる勇利アルバチャコフなのでした。僕の一番好きなボクサーです。


専門誌の特集

当時ソ連という国は冷戦時代の仮想敵国であり、得体の知れない畏怖を感じる国家でした。無表情にリングに上がる彼らは冷徹な不気味さと共に本物が纏うオーラを漂わせていました。プロレスとしては最高のアングルです。
更にテーマ曲の「The Red Spectacles」がまた秀逸でした。元は押井守監督の映画サントラなのですが、ソ連の凍てつく大地を思わせる旋律は、未知のレッドブル軍団のテーマとしてどハマりしていましたね。その後PRIDEに参戦した総合格闘家イゴール・ボブチャンチンの入場曲として引き継がれています。

1989年4月24日の新日本プロレスの東京ドーム初興行でレッドブル軍団は大活躍し、大きなインパクトを残しました。しかしその後「魅せる」技術に欠けた彼らはキャリアの浅さを露呈、メッキが剥がれたかのように輝きが薄れ始めていきます。
結局1年後の1990年2月10日の新日本'90スーパーファイトin闘強導夢を最後にレッドブル軍団は新日本プロレスを去ることになります。
ちなみにこの興業は元・横綱の北尾光司の伝説のデビュー戦、団体対抗戦で全日本のジャンボ鶴田&天龍源一郎&タイガーマスク(三沢光晴)の新日本初登場、ビッグバン・ベイダーとスタン・ハンセンの最強外国人対決と盛りだくさんの神興業でした。
そしてメインイベントは橋本真也の名台詞「時は来た。それだけだ」や猪木の「出る前に負けること考えるバカいるかよ!」の闘魂ビンタが飛び出しボルテージは最高潮に。ラストは猪木初の「1、2、3、ダーッ!!」唱和で〆る伝説の東京ドーム大会になったのでした。


週刊プロレスの表紙を飾り、アサヒのワンダモーニングショットのプロレス缶にも選ばれるなど話題に。

僕はこのTV中継を生で見ていましたし、週刊プロレスも買っていました。しかしこの興業のレッドブル軍団の試合は殆ど記憶に残っていません。この時期の日本プロレス界は天龍革命や新生UWFなどの登場もあって大きな転換期にありました。プロレスの攻防技術が一気に高度化し、日本人同士の激しい試合が主体になっていったのです。その中で生き残れた外国人レスラーは魅力的なキャラクターとプロレスの技術を併せ持った一部の選手に限られており、レッドブル軍団がフェードアウトしていくことも仕方なかったのかもしれません。
更にその一年後1991年3月に登場した初代ストリートファイターIIが稼働した時、僕を含むプロレスファンは「ザンギエフ?そういえばそんな奴もいたなあ。」という感覚でした。この頃はゲームもプロレスも強烈な進化の過程にあったことを思い出します。
ちなみに1991年12月25日にソビエト連邦はあっけなく崩壊し、ストⅡのザンギエフの「ソ連出身のプロレスラーという設定はどうなるんだ?」と友達と話題になったのも懐かしいですね。


1991年のAOUショーに出展されたストⅡのレポート。まだ正確な情報が伝わっていなかったためか、僕はこの「ザンギエフはファイナルファイトのハガーの弟子」という話をかなり長いこと信じていました😁

ではザンギエフ選手にやる気がなかったのかといえばそういう訳ではありません。彼はアスリートとして素晴らしい才能を持っており、まだそれを維持するためのトレーニングも欠かしていませんでした。
当時の映像を見返してみると彼は頻繁にシングル・レッグ・ダイブ、通称片足タックルという技を繰り出しています。これはフリースタイルのアマチュアレスリングの基本で、現在では総合格闘技でも多用されるテクニックです。この技の入りのスピードが重量級として尋常ではなく、現在でもトップクラスと断言できます。
レスリングで最も重要なブリッジも素晴らしく、しなやかさとスピード、力感と三拍子そろった各種スープレックスはザンギエフ選手の代名詞でした。


高度なテクニックは雑誌でも特集されました

また肉体のコンディションもアスリートらしく常に最高の状態でリングに上がっていました。それはレッドブル軍団の体型や試合中動きが全く落ちず、キレていたことからも伺えます。「そんなのプロならあたりまえじゃないか」という人もいると思うのですが、日本のプロレスの歴史において他の競技者がリングに上がる場合「とんだ一杯食わせもの」だったケースも多かったのです。


メガネスーパがバラまいていたタダ券で行ったのですが、それでも腹が立ちました。

僕が実際に見たケースですと、同じ時期の1992年4月19日に東京体育館で行われた藤原組の1周年記念興行でのロベルト・デュランVS船木誠勝戦がそうでした。
デュランは石の拳の異名を持つ世界4階級制覇の大物で、ボクシングファンでもあった僕は期待していたのですが、ブヨブヨな肉体に最悪のコンディションで幻滅させられました。試合内容どうこうというという以前にアスリートとして失格だったと思います。
僕はこの試合をプロレスファンの空手の先輩と見に行っていたのですが「レッドブル軍団は真面目にプロレスやってたなんだなあ」という言葉が忘れられません。

❹復活のレッドブル軍団・Uインター時代

当時UWFインターは新日本と険悪な関係だったので、元IWGP王者のハシミコフをやられ役にした感じでした。

僕がもう「レッドブル軍団を見ることはないだろうな。」と思っていた矢先の1993年、突如としてUWFインターで復活することになります。大将のサルマン・ハシミコフがいきなりエースの高田延彦の持つ世界ヘビー級選手権試合という大抜擢。しかしハシミコフはコンディションは悪くなかったものの、やはり新世代のUWFスタイルに順応できず蹴りまくられて完敗を喫します。
僕はこの試合をビデオで見て「これならザンギエフの方が面白い試合をやるんじゃないかなあ。」と思ったりしました。新日本時代、レッドブル軍団で一番プロレスに適応した選手がザンギエフ選手と言うのがプロレスファンの一致した意見だったからです。何しろ1989年12月31日のモスクワ大会での大一番では、長州力選手に見様見真似のトップロープからのフライングボディプレスまで敢行したぐらいですから!(壮絶な自爆でしたが😅)


Uインター参戦時のザンギエフ選手

そして翌1994年、満を持してビクトル・ザンギエフ選手がUWFインターのリングに上がることになりました。トレードマークの口髭と青いレスリングタイツはあの頃のままに、波平カットをスキンヘッドにそり上げる気合の入り様。しかし結果は当時中堅レスラーだった安生洋二選手に完敗と、扱いはハシミコフよりかなり格下という印象でした。
しかしザンギエフ選手は新日本時代よりかなりファイトスタイルを進化させていました。素晴らしいスープレックスはそのままに、サソリ固めや鎌固めなどアマレスにないテクニックを独自に習得していたのです。何よりその動きの良さはザンギエフ選手が数年の空白の期間トレーニングを一切怠けていなかったことの証明でした。


美しいブリッジは練習の賜物

そのザンギエフ選手の心意気にUWFインターも感じる物があったのか、タッグマッチながら安生洋二選手とのリベンジマッチを組んでいます。僕の見た中でこの試合がザンギエフ選手のベストバウトだと思います。
特にフィニッシュが圧巻で、チキンウイング固定した安生選手を得意のブリッジを活かしてグルグル回りながら締め込んでいき、突然、脇固めへ移行するというムーブです。
この動きはブリッジが相当強くないと不可能なうえ、試合終盤に高速で繰り出すには相当な心肺能力が必須です。ザンギエフ選手の完全なオリジナルホールドで是非皆さんに見て貰いたい必殺技です。きっとロシアで一生懸命練習したんでしょうね。
また宮戸成夫選手との一騎打ちでは飛びつき腕十字を決め技にしています。この動きもアマレスにないテクニックですがキレがありました。次の動画では久しぶりにハシミコフとタッグを組んだレッドブル軍団の雄姿を見ることが出来ます。

これらのUインターの試合はBUSHIDO(武士道)の名で海外でテレビ放映されて、ソ連圏内でもロシア語の実況で放送されていたようです。僕がYOUTUBEで見たのもロシア語版の動画でしたがコメントで

「私はまるで自分の家族のように、ヴィクトル・ザンギエフを心から応援しました。」

「子供の頃夜の12時まで待って応援していました」

「週末は父と一緒にTVで観ていた、ザンギエフは英雄だ」

と熱いコメントが並んでいました。また178万回も再生されていたように、旧ソ連ではザンギエフ選手は伝説のプロレスラーとして尊敬されていたことを窺い知ることが出来ます。最後に僕が編集したザンギエフ選手の名シーンです、短いので是非見てください。おまけでサルマン・ハシミコフの強烈なサソリ固めも😁

❺雄々しく闘った伝説のプロレスラーとして


2022年のロシアプロレス20周年興行のレジェンドとして登場

しかし残念ながらザンギエフ選手は僅か8ヶ月の出場期間で体の限界を感じ、1995年ごろに引退してしまいます。最後のほうは1試合5万ドル(当時のレートで500万円)ほどのオファーを貰えるほどの評価を受けていたとのことなので、金銭面や待遇の不満というわけではないようです。
コンディションが明らかに悪化してもギャラ目当てでリングに上がる選手も多いですが、自分本来としての動きが出来ないというアスリートの矜持がそうさせたのかもしれません。その後はモスクワ郊外の都市でレスリングのコーチとして少年たちを指導していると伝え聞いたのがザンギエフ選手の最後の情報でした。
その後57歳になった2019年に東京スポーツの取材を受けています。プロレスまとめサイトに全文が転載されていたので是非お読みください。


60歳となったザンギエフさん

ベール脱いだ!ソ連レスラー 来日30年、ザンギエフさん…長州に敗戦は「モスクワの客が泣いたよ」

「日本の文化も食べ物も、何もかも大好きだった。また行ってみたいな」
「プロレスは決して『ショー』ではない。すごくハードな仕事だった」
「ファンの反応は正直。いい試合をしたら盛り上がってくれる。やりがいがあった」

これらのザンギエフ選手の言葉から、彼が日本とプロレスを愛し真摯に取り組んでくれたことが知れて凄く嬉しかったことを覚えています。トレードマークのスキンヘッドと口髭は変わりませんが、柔和な笑顔は彼の現在が充実していることを物語っている様でした。そして変形したレスリング耳は、たゆまぬ研鑽の証でもあります。


ロシアのプロレスラーと。まだまだ風格十分

ストリートファイターⅡのキャラクター「ザンギエフ」の名前の元ネタになっていることもご存じのようで
「日本のプロレスに行ったおかげで、どの国でも俺の名前を知ってくれている。そういう意味じゃ良かったかな」
と好意的な解釈をされています。恐らく無許可での名前の使用だったでしょうから、金目当てで肖像権を力説することもない純朴な彼の人柄が伺えました。インタビューの最後に
「俺も毎日トレーニングしているし体形は維持している。日本に呼んでくれれば、いつだって闘える準備はできてるよ」

この言葉は決してリップサービスではありませんでした。齢60を超えた2022年11月19日、モスクワで開催されたロシアプロレス20周年興行に特別ゲストで参加したザンギエフ選手はレジェンドレスラーとして大歓声を受けます。
そのメイン試合のチャンピオンシップで反則介入を繰り返す悪徳マネージャーに突如立ちふさがり、得意の豪快なフロントスープレックスを炸裂させたのでした。このサプライズに観客ばかりか実況の二人も大感激!思わず「ザンギエフ!」のチャント(掛け声)の大合唱に会場が包まれたのです。蒼きサイクロンは健在でした。
この時の様子をレポートしたロシアプロレス団体のHPと僕が1分に編集した動画です。

ロシアの現状のプロレスは初期のFMWを彷彿させる、男女混合のかなりエンタメ色の強い物です。その大会でプロレス愛をマイクパフォーマンスするザンギエフ選手の姿は、プロレスを心から愛する偉大なレジェンドレスラーとして輝いていたのでした。

❻最後に…プロレスについて語ってみました


僕の手持ちのストリートファイター関係、多分もっとあると思います😅
ストⅡをプレイしたことがない人は殆どいないのでは。

ストリートファイターシリーズは対戦格闘ゲームを確立させた人気作として現在も続いています。そのレギュラーメンバーであるザンギエフはもっとも有名なソ連のゲームキャラクターと言っていいでしょう。しかしその名前の源流になったビクトル・ザンギエフ選手はプロレスラーとしてそれほど名を残したわけではないかもしれません。
しかし彼がまぎれもないトップアスリートとして真剣にプロレスに取り組み、そして何より日本を愛してくれたことを皆さんにお伝えしたかったのでした。


僕の格闘家時代😁


木口先生のおかげで鍛え上げられました。

今回の投稿にあたって久しぶりにプロレスマニアの血が騒ぎ、いつも以上にしつこい文章になってしまいました。スイマセン。
というのも僕は小学生の頃からのプロレスファンでしたが、体が小さかったために格闘技に没頭し、若気の至りで学生プロレスをやっていたこともあるんです😅
最終的には総合格闘家として活動することになるのですが、その際アマレスの名伯楽であった故木口宣昭先生の指導も受けていました。そんなわけでザンギエフ選手に強い思い入れがあるんですよ。また機会があればゲームとプロレスや格闘技の関係性について語れたらと思っています。長文最後までお付き合い頂きありがとうございました🙇


学生プロレス時代は空手ギミックでした。
スキンヘッドに口髭で、よく職質受けてましたよ🤣


プロレスはいわゆるUWF系。そのくせトペとかやったり🤣


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