ソ連MSX物語⑥MSXを愛したダビデの星・遥かなる祖国へ
「俺は祖国へ帰るよ」
久しぶりに再会した旧友は父にそう告げました。彼の名はゲンナデ、ソ連滞在期間中の父の右腕とも言える相棒でした。
時は1990年、ベルリンの壁崩壊直後のアゼルバイジャン・バクーでのことで、世界情勢は風雲急を告げようとしていました。
今回はあるユダヤ人技術者との20年に渡る友情の物語です。
ゲンナデとの出会いは1971年まで遡ります。父は旧ソ連アゼルバイジャンの冷蔵庫工場の立ち上げ事業に抜擢されました。入社5年目26歳の父はやる気に満ち溢れていましたが、すぐさまソ連共産主義の現実にぶち当たります。
父「これをお願いします。」
「Нет (ニェット) 嫌です」
「Я не согласен 私は同意しません」
「Я против 私は反対です」
「Не могу согласиться 同意できません」
父「これは・・・とんでもない所に来てしまったな。」
一事が万事この調子なのでした。そんな中で唯一仕事を任せられる頼れる男がゲンナデだったのです。しかし彼の工場での立場は何故か不遇でした。父はそれを不思議がっていましたが、ある日その原因を知ってしまうことになります。モスクワから派遣されたロシア人の副工場長がゲンナデに向かってこう吐き捨てていたのです。
「我々がナチスを滅ぼさなければ、お前は今頃ガス室でくたばっていただろう。感謝するんだな」
こうしてゲンナデは人の嫌がる仕事ばかりを押し付けられていました。表向き平等を謳うソ連でも、このような差別は平然と横行していたのです。
二人きりの際ゲンナデは「俺はユダヤ人なんだ」と告白します。彼の両親はポーランド系ユダヤ人で、ナチスの迫害から逃れてウクライナ経由でアゼルバイジャンに辿り着いたのでした。
「しかしソ連は宗教が禁止されているはずだ。何故そのような差別が…」
「ロシアにおける反ユダヤ主義は根深い、まるで呪いの様だ。」
父は1944年生まれだったのですが、同世代のゲンナデがどれだけの辛酸をなめてきたのか…彼の凄絶な体験談に父は大きな衝撃を受けました。
「私にとって君は優秀で信頼できる相棒だ。人種は関係ない。」
この日以来父とゲンナデは意気投合し、強い絆で結ばれるのでした。
ユダヤ人は数学に強いと言いますが、ゲンナデも数学の天賦の才能を持っていました。しかしモスクワ工科大学への進学への希望は差別により果たすことが出来ずに断念。結局地元の工場の閑職に甘んじていたのでした。彼は酒をあおりながら、こうくだを巻きます。
「マルクスは『能力に応じて働き、必要に応じて受け取る』と言った。俺は自分の能力に応じた仕事をしたいだけなんだ!」
それから15年の月日が経った1985年、父は日本から教育用パソコンとしてMSXをソ連に持ち込みました。この貴重なマシンを父は迷わずゲンナデに託します。当時のソ連ではパソコンは殆ど知られていない存在でしたが、優秀なゲンナデはMSXの限りない潜在能力を即座に見抜きました。
「友よ、俺はこれに自分の人生を賭けることに決めたぞ!」
ゲンナデは工場の品質管理にMSXを応用することを発案。そして優秀な技術者を選抜したMSXチームを編成し、その責任者として辣腕を振るうようになります。彼らの活躍でアゼルバイジャンの工場が生産台数で首位になったお話は前回お話した通りです。
「ゲンナデが居なければ私のソ連プラント事業は全て失敗しただろう」
父は彼に全幅の信頼を置いていたのでした。
更に時は流れ1990年。ソ連はベルリンの壁崩壊により政権不信が頂点に達し、急速に解体に進んでいました。ゲンナデはこの混乱に乗じて、まだ見ぬ祖国イスラエルへの脱出を計画していたのです。しかし父は反対しました。
「君の家族は高齢の父母含め10人だろう?危険すぎる」
しかしゲンナデの意思は決まっていました。
「俺は差別のない祖国にどうしても帰りたいんだ。」
「金はどうする、西側ではルーブルなど何の約にも立たんぞ。」
「・・・・」
「仕方がないMSXを売れ。闇市で売ればドルに換金できるだろう」「あのMSXは私の魂だ。それに君との友情の証でもある」
父はゲンナデの目をじっと見つめると
「友情の証だからこそ最後まで君の役に立てて欲しいのだ。」
そう答え、黙って一万円札を渡しました。
「貰えない、それに俺は警察にマークされている。君に迷惑を掛けたくない。」
「いいんだ。その時は飲み込んでくれ。」
とめどなく溢れる涙を拭おうともせず、ゲンナデは父の手を握りしめました。
「スパシーバ、ありがとう友よ…」
その時の力強いグリップを父は生涯忘れないと僕に語るのでした。
ゲンナデの脱出劇がどのような結末を迎えたのか、それはこの物語の最後で語ることが出来ればと思っています。
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