見出し画像

僕の中に路瑠がいる

あらすじ

僕は路瑠ははに恋してる。
部屋を整理していると偶然見つけた日記帳、
僕の知らない母の姿が綴られている。

「わたし怖いんです」
「形が全てじゃない、でも、わたしは自分の想いを大切にしたい。」

成長する路瑠の姿を僕はいつの間にか日記の中で追いかける。
綴られる路瑠の想いが僕をとらえて離さない。
そして病に倒れた父のこと。
ページをめくる度に、路瑠に覆い被さる責任の大きさ、不安、怖さを抱え
何を手掛かりに過ごして来たのか。僕の未来はどうなるかなんて分からない。けれどその時が来たら僕は探すだろう。路瑠が残してくれた言葉から。だから今はまだもう少しこのままでいたい。明かりの付かない路瑠ははの部屋で…。


プロローグ

「一緒に暮らそう」

気が付かなかった。久しぶりに会う母は小さくそして大きく背中が曲がっている。それでもひょこひょこと家の掃除や洗濯物などを手際よくこなす姿に僕は少しホッとした。
僕からのお願いに母は「やっとお父さんの世話から解放されたのに」と笑う
「心配なんだ、お母さんがひとりで…。」
『ひとりで何に?』と僕の顔を覗き込んで来た。
『母が独りで逝ってしまったら』とは言えず
「その身体じゃ好きな所に遠出も出来ないだろう、だから今度家族旅行に
一緒に連れていくよ。それに仕事帰りには顔を出すから。」と言うと
母は「もう若者と一緒の旅行はごめんです…足手纏いになりたくないの」と優しく返してきた。

台所の小窓に白詰め草とハルジオンの花が可愛らしく空き瓶に生けてある。
アパートの隅の雑草を「わたしみたいでしょ」と飾る母が愛おしい。

「それじゃあ、せめて僕の家の近くに越せないかな…」と提案すると
「ここでいいの、お父さんとの思い出がいっぱい詰まっているから、
それに、独りで逝ってもいいの…お父さんが先に待っているからね」
父の話をする母は幸せそうだ。

「わかりました、母さん長生きしてください。約束です。」
頭を下げると母も同じ仕草をしていて、ふたり同時に微笑んだ。

『僕はあなたの子どもでよかった』と心からそう思えたんだ。


母さんの日記帳

立冬、色づいていた色彩が彩度を落とし冬の準備をするころ
僕は母さんの部屋を整理している。

部屋にはほとんど物がない。何から始めれば良いかと、
おもむろに押入れの襖を開けるが、こちらにも荷物がない。
まるで誰かのために先に整理をしてくれた様に。

よく見ると暗い押入れの奥の隅に綺麗な葛籠(つづら)の箱がある。
箱の表面を漆や柿渋で塗り防虫防腐加工をしている葛籠は大事な物を入れるのにちょうどいい。
ホコリを落としてから丁寧に開けると日記帳が入っていた。
僕は数行読み進める。
成る程、母さんは自分のことを路瑠と言う自分の名前で書いているのか。
日記には僕の産まれる前の母の姿が書いてある。

******************************

9月○日
ひと雨ごとにやわらぐ暑さ、感じる風も心地いい。
夏の頃とは違った艶やかな時間が好き。
今日の日もまた忘れられない思い出。

居酒屋でツーリングの企画を練ると言うのでみんなも一緒に付いて来た。
かくいう路瑠もそのひとり。

真剣に企画を練っている二人。
オススメをつまみながらバイクの話題に熱心な仲間。
そうこうしている間にもイベントの企画は決まっていく。
賑やかな金曜日の夜。さて、そろそろお開きの時間
「また明日」と挨拶を交わし、みんなで店を出る。

路瑠は「家まで送くるよ」という言葉に甘えている。
楽しかった時間を味わいながらふたり歩く帰り道。

彼はアマチュアレースをやっている人、
レース終わりにはツナギを着てバイク店に顔を出す3人組。
初めて見かけた時から、ちょっと近寄りがたい彼と仲良くなりたいと
思っていた。

商店街のシャッターは閉まり、店内は薄明るく、街灯は夜道を照らし、
ゆっくりとふたりを導いている。もうすぐ路瑠のマンションの前、
もう少し話したかったなぁと思いながら
「ここでさよならね」と路瑠が言う。

彼は空を見上げ「また明日」の代わりに
「僕たち付き合いませんか」と告白してくれた。

それは少し意外で、でも嬉しい。
嬉しい気持ちとうらはらに『伝えておかなきゃ』と悩む路瑠。

素直に言葉が出ない唇に勇気を籠めた

「わたし怖いんです」

言いながらガタガタと震えていた、からだも強張っている。

路瑠は人の顔色を伺うところがある。自分の気持ちを出さずに
相手に合わせようと一生懸命に好きになる。これはもう癖のようなもの。
よく言うと『相手に合わせる人』悪く言えば『自分がない人』

路瑠が初めて付き合った元彼は、甘えん坊だった。
ふたりで子猫のように恋をした。
彼の甘くささやく言葉も心地よかった。
ゆっくりと解ける氷菓子のような静かな時間
ただそれだけでよかった。
路瑠はこれ以上の行為を好きではなかった。
だけどそれ以上を求める彼に『嫌』とは言えなかった。
彼のなすがままになっていく。

だんだんと心と身体がすれ違い、互いの気持ちも少しづず離れていく。
結局、捨てられる様に振られてしまった。
一方から流されるだけの曖昧な恋愛。恋することが怖くなった。

今、自分を守るために本音を貫かないとダメなんだ。

「付き合うなら結婚を前提で付き合いたい。
形が全てじゃないけれど、でも、わたしは自分の想いを大切にしたい。」

路瑠はまるでケンカを売っている様に彼の顔を睨んでいる。
そんな路瑠の瞳を真っすぐに見つめ優しく彼は言う。

「路瑠さん、告白の日にそんなことを言う人をはじめて見ました。
路瑠さんは‥何でそんなに焦っているの?」

「あ、あ、焦っていませんわたし。
わたしのことをあなた目線じゃなくて『路瑠自身』をしっかり見て付き合って欲しい。それに、あなたは結婚を意識することはないんですか?
楽しい時間を過ごすだけなら子どもだって出来るけど、
わたし達はもう子どもではないし、互いの人生に責任を取っていく場面もある、責任をはっきりしないままでお付き合いすることは、わたしにはもう怖くて出来ません。心と身体が傷つくのは、いつだってわたしなんです。」
熱くなる路瑠とは反対に彼は冷静に答えを返した。

「もしも路瑠さんの方が、やっぱり僕と別れたいと思ったら?」そんな質問に路瑠も言い返す。

「別れることを前提に付き合うなんて…そう思っているから別れるんです。元々夫婦は赤の他人じゃないですか、合わなくて当然です。それに少しの間ですが友達として付き合う内に、あなたは変な人じゃない。変というのは、暴力を振るうとか、家に給料を入れない甲斐性がない人とかですよ。それに家族って築いていくものでしょ。初めから上手くいっている方がおかしい。それに…あとは…わたしからはあなたを振ったりしません。誓えませんが…でも…。」
「でも?…」とあなたが聞くから路瑠は小さな声で
「あなたの方からわたしを振ることがあるかもしれません…」そう言うと
なんだか幼い子どもの様に駄々を捏ねて頑なになってしまった。

「わかりましたよ路瑠さん、結婚を前提に付き合いましょう。
それにしても路瑠さんって面白い人だな…君はきっと僕にとって特別な人だ。いつまでも君に付いていきます。」ニコッと笑うあなたの笑顔に釘付けになる。
でもちょっと待って「付いていきます」って言うのはわたしのセリフ。
「よろしくお願いします。」と頭を下げながら。

そう言えば、彼はいつもわたしの想いを大事にしている。
「今日は何をする?」「どこへいく?」「なに食べる?」と路瑠の問いに「路瑠さんのしたいこと、行きたいところ、食べたいものを食べよう。」と言ってくれた。

彼となら路瑠は生き生きと恋していける。
飛んだり跳ねたりする自分を、彼は優しく受け留める。
路瑠は彼の3歩も4歩も前を歩き、彼はその後ろを嬉しそうに着いてくる。
恋することはこんなに楽しいことなのかぁ。

あなたは不意に路瑠の手を引き、そっと優しく抱き寄せた。
わたしはあなたが温かく包み込んでくれるから呼吸を合わせて安心する。
うつむいていた顔をあげると、あなたはそっと優しくキスをした。
路瑠24歳の秋でした。

*****************************

僕の顔はきっとニコニコしながら日記を読んでいる。
母の人懐っこくって愛らしいところは昔も今も変わらない。

若い日の、母の一途で真面目な恋愛にも『幼さと可愛らしさ』を感じ
ますます母が好きになってしまった。

息子である僕が言うのも何だけど『頑張れ路瑠』と応援している。
母は父と出会えて本当によかった。母には父じゃないとダメだった。
僕も生まれてこなかった。

僕は、この時代の路瑠に会いたいと思っている。
僕は路瑠に恋していく。



君はもうそのままで大丈夫


10月○日
ひとり暮らしの高山くんの家にお邪魔する。
「あぁ、彼女欲しいー」と寝っ転がりながら叫ぶ高山に
「それ、わたしには「やりてー」に聞こえます!!」と突っ込む路瑠
「わかった、わかった、いつも直球だなぁ」と澤田ちゃんが諭し
「相変わらだね」と彼が言う。

ポテトチップスをつまみながら、ジュースやサワーの缶をプシュッと開ける『今夜はお泊まりになっても構わない…。』と決めている。

彼は頬杖をつきながら
「告白しないの?傍から見てもすごくいい感じだけど」と穏やかに聞き、「わたしも高山の気持ちが絵里ちゃんとすれ違っていて、なんで踏み込んだ関係にならないのかなぁと思っているんだよね」と畳み掛けたのは路瑠。
「う〜ん…」と集中する3人の視線に、高山がすかさず状況を説明する。
長く結んだ髪、濃い眉毛、厚い唇、どっしりとした体格に似合わないほどの繊細さ。
「絵里のことを本当は襲っちゃった?」と突っ込んで聞くと
「心ここにあらずの彼女を襲えない」と素直に答えてくれた。

「友達以上だけど、それ以上でもない、難しいね。」と彼
「もう友達でいいんじゃない?」と路瑠
「それじゃ今日の相談会終わっちゃうよ」と澤田ちゃん
「はあー」ため息に高山の悩みが伝わってくる、
何だか恋愛相談から人生相談までになってきた。

「普通に働けば普通に暮らせる社会は来ないのか?結婚して家庭をもって、
子どもを育ててさぁ。ついでに自分の家も欲しい…。」
残業代が出なくても『バイクが好きだぁ』という気持ちで仕事を続けている。本当によくやっている。誰か疲れきった高山の気持ちを救って欲しい。

「何かいい方法ないのかなぁ?」と澤田ちゃんにふると
「わたしの何を聞きたいのさ…職場の事務所がブラックで、辛くて1ヶ月で辞めたヘタレ人間ですよ。」と言いながら左隣に座る高山に姿勢を正して話し始めた。
「高山くん、わたし達は、普通に暮らしたいし、お金に苦労もしたくない…
格差社会、潜在的貧困、確かに色々あるんだよ…そしてこの格差は簡単には縮まらない。だけどわたし達が住んでいるこの街は、結局肉体労働者が汗水流して創っている街なんだ。高山くんだって油にまみれてバイクを整備し、それに対して代価をもらっている、その代価には消費税が入っていて国に
税を納めている。
その税金を使ってリアルに隣のおじいちゃんを助けたり、
路地裏の子ども達が育ちやすい国づくりの一役も買っている。
高山くんの仕事ぶりは経済を回している…人もお金も国も動かしているんだよ、もっと自信を持っていいよ。ほんと君はいい奴なんだから。」

澤田ちゃんは優しい。特に高山に関しては誰よりも優しい。
この愛おしい澤田ちゃんに抱き付かずにはいられなかった。

「路瑠、酔っているの?路瑠は酔うとキス魔になるのか〜!!」
澤田ちゃん、路瑠は酔っ払うと確かにキス魔ですが、彼氏以外は女の子にしかキスしたことがありません。

『どこの学校を出た』とか、
『あそこの学校を出た人にはかなわない』なんて気にしない。

『君はもうそのままで大丈夫』やり抜く力も意欲も社会性も持っている。

もう絵里でなくてもいいんじゃない?
君の隣に君以上に君を理解している友がいるよ。
そんな風に思いながら今日は言わずにひっこめた。

飲もうよ高山。
出し切ろうよ。
自分の思いや心に溜めている感情を言葉に出さなきゃ、やってられない。
そうだよ、出せて良かった、出さなきゃ前に進めない。

若者達の尽きない悩み、長い夜はまだまだ明けない。
やがて日の光がさし部屋を明るく照らしてはじめても
若者達の愛しい空間6畳の部屋から離れたくない。

****************************

僕は読み進めながら、
母の口癖を日記の中に見つけて嬉しくなった

『君はもうそのままで大丈夫』

僕が何度つまずこうと、いつもそう言って励ましてくれた。
母は子どもにあまり怒らない人だった。
それは放任とは違っている、なんて言ったらいいのだろう、

そうだ『待っている』この表現がぴったりだ。

僕が傷ついて疲れ果てて自暴自棄になっている時にも
きっと心配で、何か声をかけたかった時にも、
言葉を言葉で覆い被せるような言葉を僕に向けることはしなかった。
心の扉を開けるまで『待っている』

いつものような何気ない会話、ホッとする時間
黒糖をひとつ加えた自然な甘さのホットミルクティー
カップを両手にはさんで温もりを感じている。
ミルクティーを飲み終わるころには少し心も落ち着くだろう。

『君はもうそのままで大丈夫』…。

ほんの小さな励ましが、僕の身体を包みこむ。
今でも支えている、ミルクティーの香りとともに。



愚かな道化師


母さんの日記は物語調になっていた。
学生時代には演劇部で脚本も書いていたと聞いた。
家の仕事をしながら踊ったり、歌ったり、飛び跳ねて楽しそうだった。
「母さん忘れっぽいからメモ取るの、でもただのメモじゃつまらないでしょ。」といつもノートに向かって書いていた。
そうかあれはこの日記だったのか。
そう思うと納得がいく。
葛籠に入っている数十冊の母の日記は
誰かに読まれたいと待っているようにさえ思えてきた。

母の紡いだ折々の言葉達は、僕が見つけるのを待っていた。


******************************

11月○日

人のためにと思って行うことは、その都度、その都度、立ち止まる。
祈るような気持ちで行い決して調子にのらないこと。


仲良くなった郁代は一人暮らしで、タイヤ専門店に勤めている。
肉体労働で体が疲れている時も「今日は仕事が早めに終わったから」と
バイク屋に時々顔を出す。
いつも穏やかで、細い目を更に細くして笑う笑顔は、みんなホッと癒してくれる。郁代が来るとみんなで一緒に夕飯でも食べようと、10分もない距離の洋食屋に向かう。何かあるとよく行くお店。

食べて喋って和んだ後に郁代が路瑠を家に誘ってくれた。
まだ時刻も20時を回ったばかりだし、郁代に誘われるのも初めてなので
「いいよ」と言って、郁代の家を目指して尻手黒川道路を宮前方面に向けてバイクを走らせた。

古いアパートの外階段をトントンと登り2階の奥の部屋へ
「お邪魔します」と入ってみる、余計なものは無くよく整理された部屋。
「ヘルメットはそこに置いていいからね。」と通してくれた。
6畳一間とキッチンとお風呂だけの部屋は、
「電子レンジを使っている時にうっかりドライヤーを使うとね、
ポンとブレーカーが上がっちゃうんだよね。」と
お茶をすすめながら笑って教えてくれた。

そして何気ない雑談から話題を変える。
「路瑠…わたしバツイチなんだ、しかもね…妊娠できないの…って言うか、
妊娠して一度流れてから…出来なくなっちゃった。子どもも産めないわたしにね…元旦那のお父さんお母さんは勧めるの…『あなたも辛いでしょ?』って。わたし遠回しに『用はありません』って言われたんだね」アハハと郁代は笑う。
「わたしは旦那と一緒にいられたらそれだけでよかったし、子どもがいなくったって幸せだった、けれど旦那の方が段々辛そうに暗くなっちゃって、
『実家に呼ばれているから』と言って泊まってきたり、独りがいいってふさぎ込んだり。両親と板挟みになっていたのかな。」

「だから『別れましょう』って持ちかけたの…『ひとりでも生きていけますから』ってね。」一気に話終わり路瑠に笑顔を向ける。

郁代は笑い話にして路瑠に打ち明けてくれた。
笑い話にしたかったのは路瑠が傷つかない様にと気を遣ってくれたから。
 
「だからわたしは神谷先輩とは一緒になれないの…ごめんね路瑠。」
 
路瑠は身に覚えのある自分の行動を思い出し消え入りたい気持ちでいっぱいになった。
神谷先輩が郁代のことを好きだと言うことは誰からともなく聞ていた
みんながふたりはお似合いだねっと言って縁を結ぼうと思っていた。


「僕は結婚したら野球チームが出来るぐらい子供が欲しい」と
冗談ぽく話す神谷先輩は、高齢で産み育ててくれた両親に沢山の孫の顔を見せてやりたい親孝行と、路地裏で子ども達と一緒にいつの間にか遊ぶほど、子どものことが好きだから。

路瑠も神谷先輩なら郁代にお似合いだと思い、ふたりが一緒にイベントに参加する時には、わざわざ席を隣になるようにセッティングし、会話が弾むようにとふたりを囃し立てていた。
その度にふたりは照れながら互いの顔を見合わせてニコニコしていたから、
これは上手くいくととますますはしゃいでしまった。

知らずにやったことだけど、大切な友を傷つけた。
それ以上に郁代はわたしを気遣ってくれた。
郁代も神谷先輩のことが好きで、
少し離れているところで見ているだけでよかったんだ。

わたしは、人の気持ちもわからない愚かな道化師だ。

郁代の前から今すぐに消えてしまいたかった。
話を聞いた後にどう言葉をかけていいかも分からず、
その場をどう別れて、どうバイクを走らせて家に帰たのかも覚えてない。
申し訳ない気持ちで頭は真っ白になっていた。


路瑠は自宅のベッドにドカッと身を投げて考える。

もしかしたら郁代は、神谷先輩を傷つけたくないから、少しずつ自分から離れて行こうと思っているかもしれない…。
もしかしたら、みんなを傷つけたくないから「さよなら」も言わずに姿を消して仕舞うかもしれない…。
路瑠は自分の幼さに憤りを覚えながら居ても立ってもいられずに、
携帯電話を手に取って、ベッドから飛び起きると
「神谷先輩、今すぐわたしと会ってください。話したいことがあるんです。」とだけ伝えて、バイクに跨り先輩の家の方角に走り出した…時刻はもうすぐ日付が変わろうとしている。


あれからどれくらい経っただろう。
久しぶりに郁代からの電話の着信、ためらいがちに出てみると、
路瑠に報告したいことがあるから、郁代と神谷先輩と彼と路瑠の4人で
会おうと誘われた。

郁代から打ち明けられたあの日から会っていなかったから、
少し戸惑いながら、彼と一緒に待ち合わせ場所へ向かう。
郁代はいつもと変わらない細い切長の目を更に細くして、
変わらない柔らかい表情で迎えてくれた。

「路瑠元気だった」
「元気だよ」

返す返事が泣きそうで涙を堪えることに必死だった。

二人は結婚すると決めていた。一番に路瑠に報告しようと連絡をくれたことを知り、無理して涙を堪える必要がなくなった。辺りを気にせずにおいおいと声を出して泣き出したので3人はオロオロと困ったようだ。

結婚式はしないと言うふたりに路瑠もあえて事情を聞かなかった
「それもありかもね」と応えた路瑠だったけれど、ふたりに
「ウエディング写真を撮らせて欲しい」と申し出た。
仲間内だけでお祝いしようと持ちかけた。

早速、白いサテンの生地を数十メートル買ってきた
型紙通りにギャザーをふんだんにあしらって生地を贅沢に縫っていく。
清楚な感じを演出したくて腰回りをふっくらとさせ、
襟元はエリザベートカラーにしようと路瑠は腕に覚えのあるミシンを
走らせた。

償いたかった。

郁代を傷つけてしまったあの日のことを、路瑠は心からふたりに幸せになって欲しいと、願ってる。無心にドレスを縫い上げていくカタカタというミシンの音が路瑠の心を落ち着かせてくれる。
白いドレスとスーツ姿のふたりの写真を老夫婦になったふたりが眺める姿を思い描きながら、いつまでも一緒にいて欲しいと願う。

当日、ウエディングブーケは、郁代から澤田ちゃんに渡された。
郁代もわたしも、澤田の高山への想いを知っていた。
でも、ふたりのゆく末はふたりにまかせ見守る。
もう無邪気に囃し立てたりすることはしない…路瑠も少し大人になった


路瑠は会場の片付けをする、
彼が路瑠に声をかける。
「心は落ちついた?」
「うん」
ずっと路瑠の傍にいてくれた。
長い白い生地を走らせるようにミシンで縫っていた時も、
何も言わずに見守ってくれた。

こんなわたしの性格だから時々、
『わたし、何をしているのだろう?』『これでよかったかな?』
『独りよがりではないだろうか?』と不安になる。
そんな時、
ふと目を上げると彼がいて、彼もわたしを見つめている。
『大丈夫』
『うん』
わたしは安心して、もう一度『思いのままに』走り出している。


不安や悩みの全ては消えないし、心配事もなくならない。
だけど彼はずっと傍にいて、そっとわたしを支えてくれる。
だからわたしも誰かのために『何かをしたい』と走れるのかもしれない。

人は、いつか親から離れる時がくる。『独りぼっち』を感じる時も、
母と子が抱き合うような、誰かの温もりを感じていたい。

見つめる先に見つめ返す誰かの存在、それだけで心の隙間は埋まっていく。

『人は与えられ』そして
『人は与える』ことの繰り返し。

ホッとしたわたしは、あなたの胸に顔を埋めた。
わたしを包む彼の腕が、とても温かく頼もしかった。



ささやかなふたり


6月○日

路瑠は結婚する。経済的な理由で披露宴は行わない。

その代わり、親戚の叔父さん叔母さんには可愛がっていただいたお礼と
新しく家庭をもつほどに成長したことのご報告を手紙に書いて送った。

「路瑠ちゃん、しばらく会ってないけれど元気?結婚するほど大きくなったなんてびっくりだよ。丁寧なお手紙もありがとうね。旦那さんもいい人なのだろね〜遠慮しないで秋田に遊びにいらっしゃいね。泊まるところなんか気にしなくていいから、おばちゃんのところに泊まっていってね。」と言ってくれたのでその言葉に甘えた。

みなさん顔をくしゃくしゃにして結婚の報告を喜ぶ姿に
披露宴を開けなかったなごりおしい気持ちは吹っ飛んだ。
『新婚旅行がごあいさつ周りで、しかも泊ったところは叔母さんのお宅と
車中泊なんて、他の誰にもない忘れられない思い出かも』

お金がなくても、自分達ができる精一杯をすればいい。
『結婚式って誰のためにやるの』
二人の感謝する心はどんな形でも届けることが出来る。

「これはこれでよかった」

夫婦ふたりが初めて協力した素敵な出来事に嬉しい気持ちで満たされる
これからふたりには、色々な困難が待ち受けているかもしれない。

健やかなる時も 病める時も
喜びの時も 悲しみの時も
富める時も 貧しい時も
愛し 敬い 慰め合い 共に助け合い
その命ある限り真心を尽くすことを誓う

ささやかな門出。ふたりの生活は始まったばかり。
どんなこともでも、ふたりで分かち合えばいい。
嬉しいことや楽しいことは2倍なり、
悲しみや辛いことは半分に。

路瑠25歳

******************************

この日の日記には続きがあった。
母の力強い字で書いてあった。

追記 10月○日
路瑠しっかり聞いて。
夫の実家の事業が倒産した。そんな矢先に義父が病に倒れた。
事業の整理をふたりでやらなくちゃいけない、
心が折れそうになるけれど、諦めなければきっと大丈夫
夫とふたりで乗り越えていこう。義父が退院したらひとり暮らしは無理だ。同居もはじまる、結婚早々に色々大変だ。

路瑠、泣きたくなったら泣けばいい、
辛くなったら優しい誰かさん(夫)に甘えればいい
『決して独りじゃない』



明日は明日の風が吹く


10月○日

古びたアパートの角部屋、きしむ小窓を開けると小さい教会の小さい庭。
日曜日ごと賛美歌が路瑠の部屋まで流れてくる…柔らかい音色とともに。

夫は父親の仕事を継ぐことになった。
「結婚した責任は果たすよ」と毎朝早く起きてワゴン車で現場に向かう。
「溶接は油まみれにはならないけれど、器用でないと務まらないね。」と
言いながら夕飯を頬張る夫に感謝の気持ちでいっぱいになる。
路瑠もコンビニなどのパートに出てつつましい結婚生活を送りながら
幸せで満たされている。
 
そんな中、義父の会社が倒産した。
夫は連帯保証人になっていたので、多額の借金を背負う。
懸命に働けど、そのほとんどが借金返済に流れる。
路瑠も何とかしようと考えた。

路瑠のお母さんが路瑠がまた幼かった時に『夜のお仕事』をして家計を支えてくれた。母は夕飯をつくった後、鏡の前で‥顔を整える、眉を描き、紅筆で唇を綺麗に染めていく。
母が‥お母さんではないお母さんになる瞬間は、
これは綺麗な母でも、ちっとも嬉しくない。
夜寝る時に大好きなお母さんが傍にいなかったのも淋しかった。

借金を返したら普通の結婚生活を送ろう
路瑠の決意と一緒に、涙が溢れて止まらない。

わたしも普通の家庭を築きたい、仕事に行く夫を見送ったその後は
子どもと一緒に公園に行っていっぱい遊び、昼寝をする子どもを優しい瞳で見守って、夕方には温かなごはんの準備をする‥そんな家庭をつくりたい。

夜が始まる少し前‥
路瑠は不慣れな厚化粧をして‥夫に内緒で『夜のお仕事』の面談に行きました。
大通りから裏道に入る雑居ビルの3階へ、エレベーターで上がる時、
綺麗なお姉さんとすれ違う。

お店に入ると、
まだ誰もいないお店の中で店長さんと面談することに
細身のちょっとチャラチャラした店長さんとの面談は、
形式だけの簡単なもの。

「きみ、お酒飲める?」
「はい飲めます。」
「水割りつくったことある?」
「ないです。でも教えていただければつくります。」

途中、お姉さんがお客さんと一緒に入ってくる‥まだ店は本格的に賑わう前

「じゃぁ、ちょっと一緒に席に付いておしゃべりしてみて、
楽しんでくれたらいいからさぁ、誰かこの子に教えてあげて。」
路瑠はとりあえずお姉さんの隣に座って
「よろしくお願いします。」と頭を下げる、完全にカチコチだ。

すると店の奥からか風格のある男性が入って来る。

「あっ、オーナー面談の子です、どうします‥。」と店長がお伺いを立てる
オーナーは路瑠をちらりと一瞥してから
「カウンターから入ってもらうか‥履歴書見せて‥」と一言
しばらく履歴書を眺め‥そして路瑠を側に呼ぶ。

「路瑠さん何でこの業界の面談を受けにきたの?」
店に入って来た時と違う柔らかい声、真面な質問、しばらくの沈黙。

路瑠は、義父のこと、借金のこと、普通の生活を送りたいこと、
全てを淡々とオーナーに話していた。
オーナーは目をつぶって話を聴きながら頷いている。
そして話が終わると真っ直ぐに路瑠を見つめてこう言った。

「路瑠さん、犠牲にならなくていいんだよ」
「お父さんの問題はお父さんに償って貰わなきゃ」
「それでも何とかしたいと思ったら昼間一生懸命に働きなさい。」

「それでもまだダメだったら、うちのお店に来なさい、他のお店は行っては行けない。」
「今日はもう遅いから帰りなさい。誰かに送らせようか?」

路瑠は、断られてホッとした。だけど振り出しに戻ってしまった。
消えない不安と解決しない悩みは抱えたまま。

そんな路瑠を綺麗なお姉さんがドアを開けエレベーターのボタンまで押し
見えなくなるまで見送りしてくれた。

街は夜になっていて男と女が身体を寄せ合い店の中に消えていく。

オーナーは‥路瑠を働かせることだって出来たのに
路瑠はトボトボと家に向かって歩いていく。
「もう疲れた‥」
路瑠ははじめて、夫から離れたいと思った…疲れ果てていた。

実家の父と母は、突然帰って来た路瑠を何も言わずに受け入れ、
心配した父は「頑張れ」とか「頑張っているね」と声をかけた
その心遣いが嬉しかったけれど‥
「人一倍頑張っているのに何をこれ以上何を頑張ればいいの‥もう頑張れないよ!!」とうつ伏して「あ”ぁー」と号泣した。
結婚してから我慢していたことが堰を切って止まらない。
両親の前で子どものように泣きじゃくる。涙とともに感情が寄せては引いてをくり返す。もう随分泣いた、泣いて泣いて泣き切った、泣いてる自分が
何だかおかしいくらいに思えて来た。

これから一体どうしよう?
一歩前に進もうか?
仕事を探そうか?

本当は心の傷をゆっくり癒したかったけれど
路瑠はもがきながら‥なんとか前へと動き出す。

幸い、バスで通える歯科助手の仕事に採用が決まり
朝から晩まで働いて体も心もくたくたになる。
でもそれが良かった、クタクタに疲れていると何もかもを忘れられる。
もう涙が頬を伝うこともない。

疲れた身体をのせて家に向かうバスの中、左側の車窓の景色、目に映る言葉

『すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。
あなたがたを休ませてあげよう』仕事の帰りに目にする教会の看板。

「わたしも重荷を下ろして‥休めるのだろうか‥。」

逃げるように実家に帰ってきた路瑠を夫はなんて思っていいるだろう。
「ちょっと実家に遊びに行くね」と言ったきり帰らない路瑠のことを。

路瑠が居ない間どうやって暮らしているのだろう?
働けど働けど借金で消えていく給料で。

携帯電話を取りながら、悩んで、悩んで、久しぶりに連絡をとる
電話の向こうはいつもと変わらない優しい夫の声

「どうしたの路瑠‥元気?苦労かけているね‥ごめん‥」

責められると思っていた…「どこ行ってんだ!」「早く帰って来い!」と
激しい口調で怒鳴られると思っていた。
どうしてそんなに優しいの…ずるい、そんなのってないよ…わたしは許すしか
ないじゃない。

夫が責めて来たら路瑠も夫のことをスパッと見捨てることが出来た。

離婚なんて息を吸ったり吐いたりするように
3組の夫婦が誕生したら1組は離婚している現状なのだから。

自分を守るため苦しかったら逃げればいい
自分を守るための嘘だって吐いたらいい
関係を解消することだって必要な手段

あの時、電話で責められていたら、今までの思いの丈をぶちまけて
言葉のナイフで夫の心を刺し通し離婚を決めたと思う。

「路瑠、僕せちゃったよ‥体重45キロ切ったかな…路瑠と同じ?」
「あっ、この前風呂に入ろうと思ってさぁ風呂を沸かしていたら‥いつの間にか疲れて寝ちゃって‥気がついたら風呂釜がボコボコガタガタとすごい音を立てていて一階の人が激しくドアを叩く音で目が覚めた、もう少しで火事になるところだったよ。」

「そうだ、路瑠」
「…。」
「路瑠聞いて」
「…。」
「苦労かけてごめん…路瑠に逢いたいな」
「…。」

渦中の中で苦しんでいるはずなのに今までと変わらず穏やかな声
そんな声も段々と小さくか細くなっていく。

夫をこのまま一人にしたら、
消え入る声のように、そのまま消えて居なくなりそうな直感。

もう一度、あと少しだけ、この人を守ってみたい…守り通せないかもしれない…でも…その時はその時で考えよう明日は明日の風が吹く。

きっとどこかでわたしたちは背負ってきた重い荷物を下ろせるだろう。

『わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。
そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。
わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである。』


わたし達は自己破産することに決めました。
知人が紹介してくれた弁護士をふたりで訪ねに行きました。


小さな命を授かって


6月○日

路瑠はお母さんになった、やっと思い描いていた『温かい家庭を築く』
夢が叶った。
子どもはもう少し落ち着いてからと思って、避妊していたわたし達
そろそろ子どもを迎えてもいいかなぁと思った時にはなかなか出来ない。
結婚して6年が過ぎたある日
「生理がこない」と自宅で妊娠チェッカーを使って検査してみると陽性に。
さっそく産婦人科に行くと先生は「まだ早すぎるよ、また1週間後に来てね」と、路瑠をやんわりと諭してくださった。

1週間後の受診で子宮に子どもの命が無事に着床している事実を知り感動と共に安堵した。

わたしの身体の子宮と言う名の壁は、フワフワと柔らかいベッドの様に厚くなり小さな命を包み込む。命の成長は『生きる』準備に取り掛かる。
だから授かった命は『生きよう』として創られている。
最初から『要らない』命なんてない。

家族で色々あったから互いの両親は涙を流して喜んでくれた。
妊娠の報告で父の涙を見て、何故か『待たせてしまった』思った。
決して両親のために産むわけではないけれど、
めちゃめちゃだったわたし達の結婚生活を黙って見守ってくれた父が
孫の顔を見て涙する姿にわたしが感動した。ただそれだけ。

神様からいただいた命。
路瑠は幸せを感じながら、でもだんだんと思うように動かなくなる歯痒さ。辛いからと昼寝をすると目覚めた時に「やることはいっぱいあるのにまた寝てしまった」と感じる罪悪感、そんな風に思わなくても良いことはわかっている。
今ならわかる、あれはホルモンの変化からくる違和感。
身体の中は大変化を起こして混乱しているから強い眠気や発露する感情も当たり前。

青虫が蛹になって蝶々になることを知っているでしょ‥でも
あの蛹の皮の中は知らないでしょ。
青虫はいったんドロドロになって身体を形成し直すの
だからわたし達もドロドロになって当たり前

「妊娠中のわたしを労わって‥産後はもっと労わって欲しい。
妊娠初期に増え続けていたホルモンが妊娠中期に安定し、
出産後にはまた減少していく鬱になることだってあるんだよ」

お腹の中で10ヶ月過ごした赤ちゃんにもう少しで逢える喜び。

トイレに行くと血が混じった『おしるし』
次第にお腹が張り不定期にお腹が差込むように痛む『陣痛』
待ち侘びていたこの日、お腹の中の赤ちゃんに逢える。
『痛みが10分間隔になったら連絡を入れて』と産婦人科の先生に言われていたけれど、すでに腰を伸ばせないくらいに痛い。
朝から休みを取っている夫は痛みの間隔を丁寧にノートに書いている。
「そんなに丁寧でなくていいからわたしの腰をさすって欲しい」とちょっとイラッとしている。

いよいよ、もう行こうと車を出して乗り込む車内、30分もかからない道のりが、わたしにはジェットコースターのよう。車の揺れに陣痛が促進され痛みがどんどん増してくる。路瑠は何度も「停めて、でも産まれそうだから走らせて、やっぱり停めて」と叫んでいた。夫もそんな路瑠を労りながらの運転は、とっても大変だったと思う。『安全運転ありがとう。』

病院についてからも大変だった。
医者は子宮口と赤ちゃんの頭の大きさ次第では帝王切開にしようかと
迷った様子。
レントゲンを撮りましょうと撮影室へ車椅子で連れて行かれる。
レントゲンを撮る時に技師は「撮影します腰を伸ばして」と言うけれど
「もう10分間隔の陣痛の痛みで腰なんて伸ばせるものか」と泣きました。
それでも頑張って撮りました。
結果は経膣分娩することに決まり分娩室に入るが、陣痛10分間隔から出産までの時間が長かった…結局22時間後に逢えた君。

『子どもを産むことはドラマだ』
きっとそれぞれの家庭に、語り尽くせないドラマがある。

出産することがこんなに大変だなんて知らなかった。

後陣痛に熱を出しながら、保育器に入っている愛しい息子を眺めている。
3月○日 2323g 君は少し小さく産まれました。

抱いていていないと泣き止まない息子、寝たと思っても布団に下ろすとパッチと目が覚めてまた泣く息子に、睡眠不足のわたし。

時間ごとにあげる授乳、吸われる度に切れて痛む乳頭。
飲みが少ないと張ってくるおっぱい。張ったおっぱいを楽にしようと搾乳すると身体が母乳をつくり過ぎてしまう悪循環。

夫の育児休暇は7日だけ、しかも産後がこんなに大変だったなんて知らなかったから、路瑠の入院中に取ってしまい、夫は毎日可愛い息子に逢いに来て帰るだけの楽しい時間を過ごしていた。
実家も狭い団地暮らしのため、里帰りはしないで母に来てもらった、
けれど孫の世話が嬉し過ぎて疲労が溜まり、疲れ果てて帰る母。
結局2週間の滞在。60歳過ぎの母にもっといて欲しいとは言えなかった。

いつも頑張り屋の路瑠だけど子育ては一人では出来ません。
疲労で帰った母にお願いして通いで世話をしに来てもらい。
夫にも息子のお世話を頼み、わたしの泣き言も聞いてもらった。

地域の福祉局からも時折保健師さんが訪ねて来た。
1ヶ月検診では未熟児で産まれた息子も「順調に成長していますよ」と言われ
安堵した。息子を胸に抱きながら自然と涙がこぼれてくる。

「健康がこんなに嬉しいなんて‥。」
「あなたが存在するそれだけで愛おしい‥わたしはあなたを愛している。」

家にこもりそうになっていた路瑠を
「公園に行ってみようよ♪」と連れ出してくれた友人に
仕事帰りで疲れて眠たい目をこすりながらママの話を聴く夫に
「一人の時間も大事よ」とドキドキしながら息子を預かってくれた母に
「可愛いわね、頑張ってね♪」と息子微笑みかけてくれたおばさんに
「赤ちゃん小さいの?大変でしょっ」と声をかけてくれたおじさんに。
色々な人に助けてもらってママになっていく。
焦らなくてもいい、少しずつ母親になっていくのだから‥ほら‥


時間をもらったけれどお茶の味がわからなくなるほどソワソワする喫茶店
息子をおぶってないのにあやすように自然と揺れるわたしの身体、
『子育てすること』が、
わたしの身体や生活の一部になっている…でもね。

息子はわたしの一部ではない『子育て』するっていうことは

母親になったわたしの心と身体は後ろに引かれ、しなやかに曲がり。

息子は矢の様に、遠くの世界に飛ぼうとキラキラした瞳で
その先の未来を見つめて行く。

わたしには老いて立ち留まる時がいつか来る
わたしの知らない世界に羽ばたく君を想像する
わたしはもうそれだけでいい。

『わたしの思い通りにはならない愛しい君』

この気持ちをいつまでも忘れないように‥わたしの心に留めておこう。



********************************

あっ、僕の話だと思うと同時に路瑠の願いが叶ってよかったと思った。
日記の中で僕は知らず知らずに路瑠の幸せを願っていた。

そしてこんな形で母に再会するとは思っていなかった。

『愛されて育ったんだ、今も、昔も、ここに居ないこの瞬間も…母に逢いたい』
『もっと一緒に楽しく時間を過ごせばよかった』
『もっと母の話を聴きたかった』
母のお気に入りのベイクドチーズケーキとホットミルクティー
小さな小瓶に生けた道端に咲く花を眺め、小さな部屋でふたり、
他愛のない会話をするだけでよかった。

この部屋を開け渡す日も近い。僕の思考は留まってしまった
部屋に差しこむ静かな月の光…明かりはもう付かない。


緊急手術


11月○日

家の電話がなる、今時分一体誰だろう…大概こんな時間に掛かってくる電話には、いい知らせのことがない…病気がちの義父が倒れてグループホームからの電話かなと嫌な予感を感じながら受話器を取る。

「もしもし、夏川さんのお宅ですか?あっ奥さん旦那さんが会社で倒れました。今救急車を要請していますので、もう少し自宅で連絡を待っていてください。」夫の会社から電話がかかってきて切れた。
「救急車、夫が倒れた…。」
病気がちな義父が倒れたのではなくて夫が倒れた。
「痙攣して意識がない」とも言っていた、脳卒中、まさか。
一番下の三男は2歳の誕生日をつい先日迎えたばかり、長男、次男もまだ小学生と保育園児、子ども達だけで留守番は出来ない。

実家に電話して息子達を見てもらえるように留守を頼まなくては。
路瑠は実家に電話すると母と弟がすぐにこちらに来てくれた。
同居していた義父の入院退院で緊急事態には慣れていた。
だからオロオロする母や弟よりも路瑠はなぜかひとり冷静だった。


路瑠は指先確認する様に『母と弟が来てくれた、息子の世話と留守番は任せた、わたしがここで夫の勤め先の半蔵門駅に向かって飛び出しても
救急車がどこの病院に搬送してくれるかがわからない…幸い倒れた会社で同僚の方々が付き添っている…今はここで連絡を待つしかない。』と心の準備をする。

そうこうしているうちに電話が鳴り
「今、救急車で運ばれているが、受け入れてくれる病院が見つからない」と連絡があり、
次に「救急車で一旦は大学病院に運ばれましたが、どうやら救急搬送している時に2度目の出血があり『当直に脳外科担当の医師がいないから他を当たってくれ』と言われで別の病院を探している」3度目の連絡が入る。
4度目に「新宿区にある独立法人国際医療研究センターに搬送されました、至急こちらに向かって下さい。」やっと受け入れ先の病院が決まった、
路瑠は電話を切ると急いで行ったことも聞いたこともない病院に向かう。
教わった情報を頼りに・・もう時計の針は22時を過ぎていた。

病院の最寄り駅からタクシーに乗って病院に着くと、
看護師さんが持っていましたとばかりに路瑠を捕まえ早口で、
「医師の準備が出来たら緊急手術になります。その前に奥さんのサインが欲しい、こちらへ、急いで!!」と言って夫に面会する間もなくバタバタとカンファレン室に路瑠を通した。

個室に通されると医師が続けて入ってきて
「緊急手術中に万が一のことがあっても、病院は一切責任を取れません」と言うと書類の一枚一枚を並べて説明し始めた。

手術が成功する可能性と逝ってしまう可能性があること
確か手術をしても生きて生還する確率は10%もないと言われたと思う
何故なら、夫は救急搬送中に2度目の脳内出血を起こしていたから…。
夫の頭中の状態は、すでにMRで確認ずみで、その血液量は重度の量‥
成功しても後遺症は必ず残ること‥
もしかしたら家族のことも何もかも全部忘れてしまっているかもしれない。

義父が多発性脳梗塞で倒れた時もこんなやり取りをしたなぁと思い出す。

それでも手術をしますか?と確認されたので、
手術をしなくても治るのですか?と聞き返した。
先生は、何を馬鹿なことを聞くんだ、この奥さんはことの重要性を
わかってないのかと心配する表情で、
「内出血したたんこぶが自然に体内に血液が吸収されていくように、
脳出血も自然に体内に血液が吸収されて自然治癒しますが、それまでに
3ヶ月以上はかかり、その間に周りの脳細胞が壊死してご主人さんは
意識もなく寝たきりでそのまま植物人間の様になるでしょう」と
丁寧に教えてくれた。

夫の命を任された重たい責任がわたしに覆い被さる。
命を天秤にかけるわけではないが、義父のそれとは違う重みを感じた。

「全てを承知いたしました。」と書類の全部にわたしの名前を書いて
「手術をお願いします。」と頭を下げると
「それでは緊急手術の準備をします」と
医師は一礼してガタガタと音を鳴らしながら出ていってしまった。
看護師さんも慌ただしく動き出す。「ご主人に会われますか?」と気づいて下さった看護師さんの声に従い、わたしは手術に向かう前の夫に一度だけ面会することが出来た。

沢山のチューブや器具に繋がれた夫の肉体はまだ若々しく筋肉も張りがあって男性らしい。いつもと変わらないわたしの知っている夫の姿は、ただ深く眠っているように見えた…。

「ここで待っていて下さい」と手術中の家族が待つロビーの様な廊下の様なところに案内されて待つことになった、わたし達の他には誰もいない。

倒れた夫と共に救急車に乗って付き添って下さった方や一大事に駆けつけて下さった会社の同僚や上司の方々5〜6人ほどの方が残ってくださった。
奥さんが取り乱してはいないかと気遣ってのことだった。

路瑠に気遣いの言葉を掛け、夫の仕事ぶりを教えてくれる。
家族の心配をして下さった方々も、やがて長引く手術に時間を持て余し、
次第に仕事の話、打ち合わせのような会話、そして出身大学はどこだ、
あそこだと始まった。

時刻が時刻だけにもう終電もないのだろう
でも今ここでする会話ではないだろう。

「どこの大学を出たから親孝行だ」「そちらの大学には頭が上がらない」
どっぷり浸かる学歴社会に夫は毎日出勤してくれていたのだと知り、
働いていた職場の世界が見えてしまった。

夫は辛くなかっただろうか?

むしろ『あの人は頭が良い』『この人は仕事が早い』『その人はよく気づいてくれる』と話し、家でも仕事帰りで疲れているにもかかわらず『子ども達は元気?』『今日はどうだった?』とわたしの苦労を労ってくれた…。

路瑠は『もう帰って下さい。ひとりにさせて欲しい…』と言いたかった。
なんだかぎこちないまま時間が過ぎていく。

気が休まる間もなく日の出を迎えると、
「自宅に帰ります。ご主人によろしくお伝えください。奥さんもお身体お大事に。」と挨拶して始発の電車に乗るために足早に去って行った。

申し訳ないが正直ホッとしていた。

やっとひとり静まる時間が持てた夫の無事を祈っていると
看護師さんが「手術が無事に終わりました」と迎えに来てくれた。

ICUの集中治療室の『あなた』は色々な器具やチューブに繋がれている
意識はまだ無い、大変な手術で本人が疲れるからと会えたのはほんの数分だけの面会時間

病名及び手術の処置は、
『左被殻内脳出血、少なとも2度の出血を認める。
65mlに及ぶ血腫を除去し出血点の処置をする手術をしました。』







『あなた』をお見舞いに病院へ。
今日は珍しく、廊下の奥の新宿の街々が見渡せる椅子に腰掛け、
こちらを眺めて待っている。
わたしは『あなた』を見つけて「あぁこんなに回復した」と駆け寄り
隣に傍にかがんで顔をのぞき込む、するとなぜか首を横に振ってわたしに駄々を捏ねるような素振りをする。俯いて黙っている『あなた』に
「そう言えば前に君は特別な人だよって言ってくれたよね」と尋ねると
『あなた』は口を開き、しかもはっきりした口調で答えてくる。

「路瑠は、幼い時に別れた母さんにそっくりなんだ、僕は、路瑠と出会えたことが嬉しくて…君を大切にするって心に決めたんだ、だけど今はこんな身体になってしまって…君を守るどころか迷惑を掛けている、こんな自分が歯痒くて…なんの役にも立たないただのお荷物の僕になってしまった、ごめん。」
「だけどお願い…どうかこんな僕を見捨てないで…」とわたしにすがりつく

その力は身体の右側全てが麻痺している人とは思えないほど力強く、
わたしを抑え込んでくる。
『あなた』は泣いる。子どもの様に。
わたしはそんな『あなた』を少し怖いとさえ思ってしまった。
いけないこのままではふたりとも倒れてしまう。
わたしは『あなた』の力に負けないくらい必死になって『あなた』の身体を振り解く。

「わたしは『あなた』のお母さんの代わりは出来ない『あなた』の中でお母さんが美しい人になっている。そんな人の代わりをわたしがすることはいけないこと『あなた』の記憶にわたしは縛られてしまう」

「でも、わたしは『あなた』が白髪のおじいさんになるまで見捨てたりはしない。」
「『あなた』の方から離れることあっても、わたしは変わらず傍にいる。」

『あなた』は夫でありわたしは妻、『あなた』は父でありわたしは母
だから、わたしはあなたのお母さんにはなれない…なっちゃいけない。

わたしも同じく幼い時に母がいなくて淋しい思いをしたことがあったから、
あなたの気持ちはよくわかる、だからこそお互いに寄りかかりすぎてはいけない。
いっそ二人で消えてしまうのならそれでもいい…でも
『生きろ!!』と心の奥で叫ぶ声がする
だからお願い、わたしのために…
『生きて!!』









はっとした次の瞬間、自分の声で目が覚めた
確かに叫んでいた…呼吸も荒く苦しかった…そして路瑠は泣いていた。
夢を見ていたのだ…。


いつもの時間に見舞いに行くと
車椅子に座って、ぼーと空虚を掴むようにまだ霞かかった頭で窓の外のスカイツリーを眺めている彼に「今日も来たよ」と声をかける。わたしの声が聞えたのか一筋涙をこぼした…。
気づいた看護師さんが「身体がまだ弛緩しているから、涙やヨダレが出やすいのよね」と言いながら頬を拭って行ってしまった…けれど夫にはわたしの声が聴こえているのだと信じている…。

あなたの目はまだ霧がかかっているから、わたしを見ているようで、
見えてないように視線がわたしより先を通り過ぎていく、
麻痺したあなたの手はわたしの手を握り返さずに
ただだらんと下に伸びて仕舞う…。

あなたから死人の匂いがする、洗っても洗っても取れない。
明らかに健康な人と違う匂いに生と死は紙一重なのだと感じてしまう。

車椅子に座っているのもリハビリの一つ、ベッドにもどるとすぐにまどろむあなたの瞳…。

担当医は路瑠を呼んで、「ご主人様は、意識がもっとはっきりしてきてもこの先「『鉛筆』を見てもそれを『えんぴつ』と思えないかもしれない、
『僕は誰?』『あなたは誰?』と自分のことも家族のこともわからないかもしれない、就労はもちろん難しく、リハビリして自宅に戻れても
家の周りをぐるりと散歩するのが精一杯でしょう」と教えて下さった。


「お医者さんは、いつだってそうやって家族を脅かすのだ」と心の中で反発して路瑠は固く決意した。
わたしは倒れない、わたしが倒れるわけにはいかない。

あの時わたし達はこの未来に気付かないまま進み出した24歳の秋。
『別れることを前提に付き合うなんて…そう思っているから別れるんです。元々夫婦は赤の他人じゃないですか、合わなくて当然です。
それに家族って築いていくもでしょ。初めから上手くいっている方がおかしいし、わたしはあなたを捨てたりしない。」
あなたにまるでケンカを売るように言った路瑠を『あなた』は優しく引き寄せて包み込む様に抱きしめた。
もうここで、力尽きて、ふたりの関係を終わらせても、
誰も路瑠を責めないし、誰も留めることは出来ない。

それでもわたしは終わらせない…わたしからあなたを捨てたりしない。

病院の誰もいなくなった薄暗くなった売店前の腰掛けにうずくまり、
涙を声を殺すようにして泣いていた。
「誰か助けて」と涙する路瑠のことを夫も子どもも誰も知らない。

路瑠は夫の手を握る、夫の手は麻痺して力無く、その瞳は空を見つめ
路瑠を見つめ返しはしないけど…。
「家に帰ろう…きっとここからあなたを連れて帰るから…『生きて。』『一緒に生きよう…。』」と

夫の手を握りながら何度も、何度もささやくわたし。
うつむく路瑠の上で

「み・ち・る・・・」と

あなたの小さな声が聞こえたような気がした…。

夫 42歳 路瑠 41歳の秋



障害を受け入れると言うことは


お母さんは面白い人でいつも僕らを笑わせてくれた。
育児と父の介護で疲れているのに、家族を支えるため働きに出るようになった。夜勤も、朝早い勤務もある仕事で、母は倒れてしまうのではと思う。
それでも僕たちに温かいご飯を食べさせたいと言って冷凍のストックを作るなど工夫してなるべく手作りのご飯を食べさせてくた。
ますます仕事が忙しくなると
「ちょっと窮屈かもしれないけれど、我慢してね」と言って、祖母を呼んで家族6人の生活が始まり2DKのアパートに重なり合うように暮らした。

母が泣いている姿は見ていない、母は子どもの前で涙を見せないようにしていたから。でも時々母の悲しみを感じてしまうのは、僕らが親子だから。

 本当のことを言うと一度だけ途方にくれる母を見てしまった。
僕は夜中のトイレに起きた時、キッチンに続く扉が開いているので閉めようと近づくと小窓から入る月の明かりに照らされて白く立つ母の姿があった。声を掛けようと半歩近づいた時、母が台所で刃物を見つめて佇んでいることに気づいた。
 僕は声を掛けることも出来ないまま、見てはいけないものを見てしまった者のように、後退りしながら自分の寝床に戻る。
その夜は朝まで眠れず、いつもの時間になるまで布団の中で『母が生きていますように』と祈り、いつもの時間にアラームが鳴ると僕はすぐに飛び跳ねてダイニングに向かうと、そこにはいつも通りの明るい母がいて、
僕に「おはよう、ご飯食べる?お茶碗によそうよ」と声をかけてくれた。
僕は崩れる様にホッと安堵したことを覚えている。
 
父は1年と少し入院しその後6ヶ月と少しリハビリのために更に入院した。
 
入院中の父をはじめて見舞った時に、目線は合わないし、声も出ないし、ヨダレは出るし『病』とはこうも人間を変えてしまうものなのかと
人が壊れていく様をまざまざと見せ付けられた。
小学生だった僕は怖ささえ覚えた。
「本当に父は回復するのだろうか?」と心配だった。

医者の診断と僕の思いに反して、父の脳の回路は思っていた以上に繋がり始めた。

ある日、担当医師にカンファレン室に呼ばれ
「お父さんは音楽でもなさっていましたか?」と聞かれたので
「主人は音楽はしていませんが絵を描くことが趣味でした。」
「繊細で可愛らしい絵をいつもよく描いておりました。」と母が答えると
医師は深く頷いていたこと覚えてる。
 
「何故ですか?」と伺いそびれてしまった。
これはきっと音楽や絵画を司る右脳が、出血した左脳のダメージを
右脳のシナプス達で神経細胞の繋がりを伸ばし
父の身体を司るための情報や伝達を補ってくれたのかも知れない。とは言っても僕の憶測でしか有りませんが。

母は父がまた家で暮らせるようにと懸命になって
2DKの狭い我が家に父の大きな介護用ベッドを入れるために、色々なものを処分しました。
婚礼ダンスは粗大ゴミに机も本棚も一緒に出しました。
着物も端午の節句の兜もキャンプのテント、僕らのおもちゃも季節が変わったら必要と思える物でも、何でも手に掴んだ物は手当たり次第に45Lのゴミ袋に詰め込んでいきました。選別や感慨に慕っている時間は母にはなかったから。
 やがて45Lのゴミ袋は60〜70袋ほどになり
大きな山が出来るほどに積み上がりました。

母は『人が到底無理だと思うことを』やってのける人で、
あの小さな体のどこにあんなパワーがあるのかと子どもながらに感心した。
父はそんな母の苦労を知らない。
父は脳出血の影響で廃人の様にボーとしたままだったから。
 
父は病に倒れた後遺症で身体の右側半分が麻痺して動かなくなり。
歩くことも立ち上がることも出来ず、トイレに行くことも、食事もひとりでは取れません。

一日中介護しなければならない状態を父と母はよく乗り越えた。
 
病院も一時帰宅を許したのは、母の覚悟を試したかったから。
『障害を負った家族を受け入れることの困難さ』に慣れていく様に、
少しずつ、少しずつ、それが日常になる様にと配慮してのことだった。
 
父の後遺症には肢体の麻痺だけでなく右側視野欠損もありました。
右側にある物を認識することが出来ず、
父はよく、テーブルに置かれたご飯を眺め
「僕にもお味噌汁をよそってくれる?」と少しずつ喋れるようなった小さな声で聞くので、その度「お父さんの右側にちゃんとお味噌汁をよそってあるよ」と応えると安心した。
右側だけが欠損しているだけで、他の物は見えているため、
側から見ると『見えている人』の様に感じてしまう。
何だか不思議な障害でした。
 
また右耳の聴力も弱まり、バランス感覚が悪く転びやすくなり、転ばない様にと気を使った。
一度、立った姿勢から転んでしまったことがあり、健常者の様に受け身が取れず、大腿骨を骨折した。あんな太い骨が折れるのだ。

入院、手術をしてボルトを入れて固定した。
「次、転んだら完全に立つことが出来なくなるでしょう」と
医師から忠告されていましたが最後まで転ばずにすみました。
危険を回避出来る健常者には考えられないことかも知れません。
父の頭蓋骨にはチタン製のプレート、耳には補聴器、脚にはボルトが入り、
また装具もつけていたので何だか改造人間の様でしたが、
身体を支える装具のおかげで生活レベルが保てていたことはとてもありがたかった。
介護する側の腕力不足が理由なだけでなく、
自分で立って歩行できる、トイレに自力で行ける喜びは、
懸命に生きてきた父の心の支えでした。

また他にも後遺症として高次脳機能障害も負いました。
父の高次脳機能障害は、漢字が書けない、計算が出来ない、些細なことも覚えていられない、突然の出来事に対処出来ないなど、父を子どものように幼くさせて、小さな声しか出ないはずの父が突然感情が爆発し信じられないほどの大声を出して叫ぶので周りのみんなが父の豹変ぶりに驚く程に。
これも病の後遺症です。それでも怒られた方は溜まったものではありません本当に厄介な後遺症でした。
 
それでも母は「子ども達に父親がいる思い出をつくるために」と
介護と仕事を両立しようと一生懸命に働いてくれました。
そして僕たちに父の介護を強要することはしませんでした。

『貧乏でごめんね』
『いつか貧乏から脱出しようね』と言って
僕たちがやりたいことをさせてくれました。

兄はギターを買ってもらい
弟はスイミングに通いました。
僕は勉強をしたいと言ったら塾に通わせてくれました。

そんな母はほとんと自分の物を買うことはなく、僕らの古くなった洋服を「まだ着れるよ」と笑って着てました。
得意のミシンを走らせアレンジして。
 
 母の小さな部屋を整理しながら
僕は、母の様に家族を支え子ども達のために全力を尽くし
守り支えることが出来るのだろうかと考えます。
今の僕には、未来がどうなるかなんてわからない。

それでも言えることは、

僕が抱えきれない困難に立ち向かう時に
僕は母の言葉の一つ一つを探すこと。

泣き虫で、弱虫な僕は、日記帳を開いて、母を求め
 母の紡いだ言葉は、あちらこちらから僕を導いてくれる。

どんなに苦しく辛い時でも、
どんなに悲しく淋しい時でも

温かい何かが心の中に流れて来たら
人はほんの少し前に進める

僕には『生きろ』『生きて』とは言えなかった…
ただあなたの背中に手をおいて寄り添うことが精一杯
これが僕の弱さ…僕のありのままだ。

あと少しで、母と父が暮らしてきた
小さいアパートを引き渡す
ほんと言うと終わらせてしまうのが哀し。

涙がこぼれ膝の上の日記帳がぬれる。
時が来れば前を向いて一歩を踏み出す僕。

母が僕の中に居てくれる。

あおい』と優しく語りかける…。

『僕の中に路瑠ははがいる』

僕の心の支え、僕の足のともしび



最後のメッセージ


母さんの日記帳にはまだ沢山の白いページを残していた
パラパラと何気なくめくった最後の方のページに
僕たち宛にメッセーが綴られていた。

兄へ、弟へ
 
そして僕へ


******************************

あおい
 
きっと一番にこの日記帳を見つけたのは蒼だと思っています。
当たりかな?

蒼は素敵です。
あなたはとても感受性が強く、この世界を観察して、色とりどりに
自分の想うままを表現していく。

あなたの絵は細部まで丁寧に描き、まるでガラス細工の様。
緻密に計算された様に描写する細い線は、少年の心の様に儚げなのに、
それでいて力づよさを感じる。
歳を重ねておじさんになっても少年の心を持っているあなたは、
色々なことを思い煩い悩んでしまうことがあるでしょう。

お父さんが倒れた時にあなたがどんなに心を乱していたか、
動揺している気持ちを抑えて懸命に生きようとしていたことを
母さんは気づいていたよ。
母さんはあなたに何か出来たかな…ごめんね。
立ちすくむあなたの背中を見つめるだけしか出来なかった。
人は誰しも、皆弱い。
だから決して無理をしないでね。自分を大切にするんだよ。

母さんのために、一緒に暮らそうと提案してくれたこと、とても嬉しかった。病に倒れた父さんに代わって家族を支えるために働くことで精一杯だったから。
母さんは、あなたに楽しい思い出をつくれたかな。

経済的理由と肉体的疲労で果てていたから、遠くには連れて行けなかった。その代わりに近所のレストランで『好きなものを好きなだけ注文して、お腹いっぱいになろう』と奮発した美味しい時間。
ささやかなご褒美でも、テーブル一杯に並ぶ大皿に、満面の笑顔、
とまらないお喋り、頬張るご馳走、楽しそうに父さんの車椅子を押す帰り道。

家族って温かいね。
どんなに不完全な形でも家族なんだね。

こんなに優しく成長したこと、母さん涙が出るほど嬉しい。
それなのに同居することを最後まで断り続けたことを許してね。
 優しいあなたは、きっと周りのみんなに合わせて、折り合いをつけようと頑張ってしまうと思ったから。

母さんの人生は終わりゆくものだけれど、
あなたが築いてきた家族は、これからもますます花開いていくのだから

あなたとあなたの家族の人生を
わたしのために犠牲にすることはいけないこと。もっと楽しんでいいんだよ。母さんを忘れるくらいに。
 
母さんの日記帳を手に取っていると言うことは、
わたしが大病をした時か、逝ってしまった時かもしれないね。
 
大病した時なら退院後は、施設に。
自宅で介護しようなんて思わなくて良い。
可愛いわたしは、きっと施設のアイドル間違いなし。
手続きなどで迷惑をかけるかも知れないけれど
その時はどうぞよろしくお願いします。

もし退院できないくらい重症だったなら、
わたしの命はそのままに…

わたしは『死』と向き合うことが怖くて
『死にたくない』と言うかもしれない
けれど『天国に行くこと』を喜んでいるから大丈夫。
お父さんに会えることを楽しみにしているから。

本当のことを言うと、
目が霞んで、時折磨りガラスの様にしか見えなかったこと
喘息で、時折動悸と呼吸が苦しかったことがあったから
少しずつ身の回りのことを整理できたのは
あなたに迷惑を掛けずに済んだかなぁと思ってホッとしてる。

『自分と自分が築いてきた家族を大切にしてください。』
『心の風邪をひかないように…』

産まれてきてくれてありがとう
お母さんの子どもでいてくれてありがとう。
わたしが蒼を産んだようでいて
あなたがわたしを選んで産まれて来てくれたと思っています。

路瑠の人生でこんなに嬉しかったことはありません。
 
いつでも日記を開いて会いに来て。
母さんはあなたの幸せを願っています。



あとがき


日記帳には、母の手作りの四葉のクローバーの栞が挟んである。
アパートの隅に咲く雑草を『わたしみたいでしょ』と押し花にした栞。
母の可愛い演出にはいつも心が和む。


僕は独り書斎の小さな窓を眺めている、
窓の外の季節は温かい色に彩度を上げて移りゆく。

「あなた、少し休んで、お茶の時間にしましょうよ。」
「うん、ありがとういただくよ。」
「あぁ紅葉が綺麗に染まってきたわね。」

僕はふたりでいただく、ベイクドチーズケーキと黒糖をひとつ加えた自然な甘さのホットミルクティー。

「僕はだいぶ甘党だね。」
「どういたしまして、わたしも同じです。」

季節を重ねて、歳を重ねていくことが怖かったあの頃を過ぎてゆき
僕らは穏やかに過ごしていく。

「お母さん空の上でお元気かな。」
「うん、きっと元気だよ。僕らが来るのを待っているよ。」
「そうですね。でも一緒に長生きしましょうね」にっこり微笑む妻の笑顔が愛おしい。

僕は、このミルクティーを飲みおえたら
noteに向かいまた書き進める。
いつの日か、君に見つけてもらうために、書いている。










いいなと思ったら応援しよう!

パンケーキ
最後まで読んでくださりありがとうございます。 もしよろしければ、サポートして頂けると嬉しいです。 記事を書くための書籍購入に使わせていただきます。