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47才のキャンパスライフ 〜慶應一年生ミュージシャンの日々〜12 「英会話とナイーブさ」

 子供の頃から英語は得意な方だったので、良く周りから

「この子英語できるねん! ちょっと喋ってみてよ!」

 などと言われた。

 似たような経験がある人も多いと思うが、これはかなりの無茶振りで、言語というのは伝達したい情報や感情があって初めて有用になるものであり、かなり使いこなしているはずの日本語だってたとえば

「この子日本語できるねん! ちょっと喋ってみてよ!」

 と藪から棒に言われれば、なんだろう、例えば

「あ、ああ、本日は晴天なり」

 みたいな不毛な事しか喋れないだろう。外国語であれば尚更である。

 仮に相手がいたとしても、たとえば僕の場合「日本語がわかるアメリカ人」の方と、英語で喋ってみてよ!と言われる事も、少年の頃は多かった。

 これもまた「日本語分かりはるのに、なぜ英語でしゃべらなくてはなのだ…」という気恥ずかしさが先行して、なかなか上手くいかない。少年はナイーブなのだ。

 なので、父親の仕事の関係でシアトルに初めて行かせてもらった時(16才くらいだったかな)周りに日本人がいない環境で英語が話せるのはとてもノビノビとできて嬉しかったし、また(本当に簡単な)通訳みたいなこともしたので、そういう「必要にかられた外国語」というのは、使っていて清々しかったものである。

 そして、やっと大学生活の話になるのですが、おかげさまで入学以来沢山の留学生、外国人の先生、海外生まれの日本人の方とお話させてもらった。もうこの年になるとナイーブさなんかもだいぶ後方に置いてきてしまっていて、仮に日本語がわかる人とでも英語で話すことに気恥ずかしさは感じなくなった。

 まあ大体、話のグループの中に日本語が得意じゃない人がいるとか、そもそも英語の授業だとか、英語で話す大義名分みたいなものがそこにはある。しかしまあ仮になくても、ぜんぜん気恥ずかしさはない。大人になってしまったものである。

 と思ったのも束の間、今度は逆に日本語を話すのがなんだか気恥ずかしいという状況に生まれて初めて直面した。

 初めて会った時から英語でしか話した事がない人に、突然日本語で話しかけられてなんだかびっくりしてしまったのだ。相手は例えば外国人の先生や、英語の授業の日本人の先生や同級生たちとかなんだけど、そりゃ長いこと日本に住んでりゃ日本語も話せるよなってのは当たり前なんだけど、もうこちらは

 「この人はイングリッシュワールドの人!」

 てのが頭にあるものだから、そのギャップに最初はちょっと戸惑ってしまって、上手く返せずなんか「エヘエヘ」みたいにお茶を濁してしまったのである。

 なんだろう、この気持ち…と考えた時、前述した気恥ずかしさみたいなものを思い出したという次第だ。とうの昔に置いてきた「ナイーブさ」と束の間再会したような気持ちである。

 大学に通い始めて、ちょっと若返ったのかしら!なんて調子に乗りそうになったけど、そんな面の皮の厚さはやはり47才のそれですね。しっかり年相応ですね。

 

 

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