左利きに極振りしてる双極性障害(躁うつ病)持ちASD傾向おじさんにありがちなこと
プロフィールにもガッツリ記しているのだが、私はいろいろと、良くも悪くも「特性」を抱えている。
現在30代前半で、本来なら真っ当に而立し、仕事場などで一定の社会的地位を確立し、場合によっては家庭を持ったりして、まあ古典的だが一家の大黒柱的な役割期待に応えている同世代も多いと思う。
単刀直入に言うが、私はそういう地位や立場も全く得ていないし、伴侶もいなければ彼女も彼氏もいないし、たぶん生涯、真っ当には生きられない気がする。
その点には自信があるのだ。まったく自慢にならないけどね。
あくまで私の場合なので、以下に挙げるような事象が、すべての左利き兼躁うつ兼ASD(自閉スペクトラム症)傾向の人に当てはまるわけではないと思う。
というか、この3要素だけでも生きづらさ抱えちゃいそうな特性のトリプル役満みたいな感じがするので、そうそう揃う人いない気はするけれど……。
まあとりあえず、パッと思いつく「ありがちなこと」を挙げてみる。
☆とにかく左手を使うことに固執する
幼少期の割と早い時期から、私が何事にも左手ばかり使う傾向は家族が見て取れたらしい。今は亡き父方の祖母(島根県在住で、年に2度ほど家族で帰省したときに会う程度だった)から、
「この子、ぎっちょかいね。ぎっちょは苦労するけん、〇〇さん(母親)、右手使わせとりゃなあいけんよ」
などと忠告をされたという。
「ぎっちょ」とは左利きを指す俗語だ。
近年では差別的なニュアンスを含むとして、使用が差し控えられる傾向があるっぽいが、原義的には必ずしも悪い意味合いだったとは限らないようだ。
今でもたまに、年配の人から「あんたさん、ぎっちょかいね」とか言われることもあり、生きてたら100歳を余裕で上回る祖母が「ぎっちょ」という表現を使ったのはまあ自然なことなのだろう。
で、うちの母は、祖母の言葉もあって、ほんの一時だが、私に右手も使えるようになるよう働きかけた。
あくまで働きかけだ。
かつては左利きを「右利きに矯正する」と言って、全人口の9割以上という多数派を占める右利き社会に「右へ倣え」とばかりに適応させるのが当たり前だった。
いやいや「矯正」って……。
ちょっと斜に構えてとれば、左利きが「間違っている存在」で、右利きが「正しい存在」だとでも言いたいみたいで、「強者の論理」といった感じがする。
右手を使う人間が「普通」で「原則」なのだから、左利きといいう「普通じゃないほう」の「例外的存在」は、当然に右利きが過ごしやすく形成された社会に合わせなきゃダメだっていうような。
まさにかつての日本(海外ではどうかは私は知らないのだが)は、多様性を尊重しない社会だったんだろうなあ、と思ってしまう。
とはいえ、多数派にとってみれば、少数派の意向を汲んで、合理的な配慮をすることって、結局いちいち対応する必要がでてきてめんどくさいだけなんだよね。
私の場合、「左利き」や「精神疾患の罹患者」という点では少数派だけれども、自分自身を別の観点から見れば、多数派の要素も勿論ある。
例えば、身体障害者のかたからみれば、五体は満足な私は身体的には健康な多数派とみなされるだろうし、日本に住んでいる外国籍の人から見れば、日本出身で日本国籍を持つ日本人の私は、この国における圧倒的多数派である。
自分が多数派に属している分野やセクションにおいては、少数派の人への配慮が声高に叫ばれて、その少数派への合理的な範囲での配慮によってでさえ、時間的、物質的、あるいは心理的にこちらが割を食う場面が出たとしたら、私でも、「これ逆差別なのでは?」「なんかめんどくさいなあ」「いちいちそこまで配慮求めてきたら、むしろ立ち行かなくなるじゃん」などと思ってしまう。
不寛容で申し訳ないが、少数派の側も、権利として享受すべき部分は当然享受してもらってしかるべきだが、どこかで線引きをして、多数派と折り合いをつけ、「こうすれば、お互いに多少は我慢しなきゃいけないけれども、共存していけますね」という妥協点を見いだしていく必要があると思う。その妥協点を見つけ出していくことこそが、集団で形成する社会にとって最も大事な仕事であり、それを成し遂げようと頑張って行くのが政治の働きなのだと思う。
なんか話がめっちゃ飛んでしまったが、最前に戻す。
ようは、母が義母(姑)からやんわりと「ぎっちょの孫が将来困らないように右利きに矯正しなさいよ」、とお小言、もとい忠告を受けたということ。
これに対して母は、「利き手を矯正することが、必ずしも本人の成長にとってプラスになるとは限らない」と当時から思っていた。脳科学的にもその見解は間違っていないらしい。
とはいえ、日常のあらゆる場面で不便さが露呈するであろう左利きのわが子のことだ。義母の言葉を全くスルーすることもはしない。
そこで母が取った態度は、あくまで「右手もちょっと使えたら便利だろう」と促す感じだったという。
そんなソフトな働きかけも、圧倒的頑固で自己流のこだわりを貫く私は断固として拒否した。
例えば、常に左手で箸を握る私を見かねて、母が箸を右手に持ち替えさせて、右手での箸使いを教えようとする。すると私は、右手に持たされた箸を床へ投げ飛ばしてギャン泣きしたという(母談。私は記憶にございません!)。
もともと両親ともに生粋の右利きで、箸使いを教えるのに苦労したらしい。というか、苦労したのは私のほうかもしれないが。なにせ、母が右手に箸を持つのを真似ようとしても、自分では絶対に左手で持ってしまう。左右で逆になるので、母の持ち方を見て、そのまま真似することなく、反対の手で同じ持ち方を再現するのは、幼児には結構難しい技術だったのではないか。私自身、箸使いを教えられたときのことは流石に覚えていないのだが、結局は自己流での変な箸の持ち方で定着してしまい、30代中盤になった今でも、礼儀作法的には明らかにアウトな持ち方をしてしまっている。何というか、5本の指全体で箸を包み込んでしまうような持ち方になっており、薬指と小指で上下の端の開閉を調整しちゃってる感じ(本来は中指と薬指で下の端を挟むのよね?)。とはいえ、今更直すのも億劫だし、ハッキリ言って、正しいと言われる持ち方を試しても、うまく豆粒を掴むことができない。以前に出会った左利きの人と会食した際に、左手での箸の持ち方が間違った形で殆ど同じだったので、「一緒だ~!」とちょっと盛り上がったことがある。もちろん、左利きでもちゃんとした箸の持ち方をしている人はいるので、左手を使うことにこだわり過ぎた挙句、母親が教え諭した右手の箸の持ち方を一切参考にしなかった私の手落ちといえよう。
まあ、ぶっちゃけもう、箸使いとかどうでもいいですけどね!
おっさんになったら、今更箸使いで注意してくるひとなんていないし(言っても無駄と諦められてる)、箸なんて使って食えればいいんだよ!
細けぇことはいいんだよ!(逆ギレ)
こんなんだから友達ほとんどできないんだろうなあ……(諦観)
箸使いについて主に取り上げたが、ハサミを使うにしても、右利き用のハサミを「切りづらいから、やめとけやめとけ」と散々言われたのに左手で執拗に使って紙を切ろうとしたし(左利きのハサミもあり、自分用には買ってもらったのだが、何かの体験教室とかで貸し出されたハサミはほぼ100%右利き用で、変な意地があってかたくなに右利き用ハサミを左手で使っていた。はっきり言って、ハサミの構造上切りにくくて仕方ないが、しつこくやり続けた)、幼稚園のお遊戯で他の子どもとの握手を強制された場面では、絶対に左手を差し出して、意地でも相手の右手と握手しようとしなかった。
他にも、こういう左手に固執する場面は枚挙にいとまがない。
・中学校の授業のソフトボールで、右利き向けの左手用グラブしかなかったのに、意地でも右手にそのグラブを入れようとして、無理だったので素手で練習試合の守備についた(危ない)
・文字は当然左で書く。小指の側面から付け根の下側まで鉛筆で真っ黒になったが全くしない。幼稚園の年長のとき、通っていた公文式の先生が、よかれと思ってか私が左手に握っていた鉛筆を右手に持ち替えさせていた時期があったが、持ち替えさせられた瞬間に左手に戻した。先生からまた直されそうになったら鉛筆の芯を机にドスッと刺して抗議した(言葉の発達が遅く、慣れた家族以外との会話は困難だったで、小学4年生くらいまでは不快感を言葉で表現できなかった)
・書道ももちろん左手で書く。そもそも文字そのものが、右手で書くことを前提に作られているので、筆を使う書道では鉛筆やシャーペンなどよりもよっぽど左手では文字が書きにくくて苦戦。書道は大っ嫌いだった。小学校の時、ほとんどの先生は左手で筆を使うことを認めていたが、一度だけ、「書道は右で書くものだ」という融通の利かない先生に当たり、その先生の授業のときは、先生がほかの児童を指導しているスキを見て、こっそり左手に筆を持ち替えて書いて提出していた
・駅の自動改札では、切符を持って入れるのもICカードを持ってタッチをするのもやはり左手。切符入れもタッチ画面も右手で切符やカードを持つのが前提で、体の正面向かって右側にあるので、左手でやろうとすると右手側にクロスするような形になり、めっちゃやりにくい。やりにくいが、たまに右手でカードを持って効率よくやろうと挑戦すると、勝手が違ってタッチしづらく、後ろの人が大勢いると焦ってしまって空タッチになりそうで怖く、それがストレスになってかえって失敗してしまうので、結局、左手を使うほうが早い。右手での練習を相当量積めばいいのかもしれないが、改札を抜ける作業がそこまでするほどの重大な手間ではないというのが、なんとも歯がゆい。なんで毎回改札抜けるだけでこんなに神経使わにゃならんのじゃ!!
とまあ、出るわ出るわ。
いくらでも挙げられるよ。
ほかにも、カウンター席では左端を確保できなかったら、席のスペースが狭いと左隣の右利きの人に食べるときの私の左肘が当たりそうになって「悪いなあ」と勝手に自己嫌悪になったり、自販機の紙幣や小銭を入れる所が右側にあるから改札同様に左手で入れにくかったり、左手でドアノブ回すのがやりにくかったり、急須やフライ返しや缶切りが左手じゃクソ使いづらかったり、先にも述べたが、誰かと握手するような場面がたまにあった時に、つい「自然と」左手を出してしまって、後から相手の右手に合わせるために右手を出すという無駄なタイムラグを生じさせてしまったり。
もう無限にあるのだな。
日常生活において、ほんの些細な事かもしれないけれど、「ちょっとイラッと来てしまう」左利きにありがちなこと。
うまい具合に「矯正」できて、かつ左手も柔軟に使えるというような器用な「両利き」になれたらよかったものの、この左利きに極振りし続けてしまったこだわりの強さは、やはりASD傾向による、「同一性保持の欲求の強さ」も遠因となっていると思えてならない。だって、何でも左手でやってしまったほうが、いちいち選択しなくてよくて楽だもん。したがって、右手は原則そえるだけなのである。
とはいえ、私も私の親族も、元から我が強いというか、自分目線最優先で周囲の思惑に一切左右されずに「我が道を征く」人が多いので、遺伝的な性格傾向もあるのかもしれないが。
このトピックでは、もっともっと書きたいことが山ほどあるのだが、今日はもう書く時間がないので、この辺で仕舞いとする。
またの機会に、今回は殆ど触れられなかった「左利き」と「双極性障害」のハイブリッドだからこそ、ありがちになっている日常の出来事も取り上げたい。
それに加えて、「左利き」で「ハイ&ロー」を繰り返して「強すぎるこだわり」で突っ走れるからこそ、良かったと思えること、人生のプラスになっている側面にもスポットを当ててみたい。
何事も、表もあれば裏もある。
マイナスな側面もあればかえってプラスに転じて福をなす場合だってある。
人間はえてして物事の悪い点のほうに目が行きがちだが、案外、「短所」と思われたところが、やり方を変えれば「長所」になって思いがけず有用になったりするもの。
だから私は、自身の「左利き」「躁うつ」「ASD」をネガティブ一辺倒では捉えていない。
あくまで「特性」だと認識しているのだ。
「特性」は上手く使いこなせれば強力な「武器」になる。
ポケモンバトルだってそうだろう(唐突)
そのポケモンの「とくせい」が何であるかはバトルにおいて結構重要な要素だったはずだ。
「通常特性」でも「隠れ特性(夢特性)」でも「その他の特性」でも何でも、その「とくせい」をよ~く理解して、うまく活用することができれば、対戦を有利に進められる。
まあ兎に角、人生における「たたかい」はポケモンバトルよりも遥かに複雑で多彩だろうが、自分の「特性」は良くも悪くも、自分の人生を大きく左右するものだ。
自分の「特性」に対して自覚的になって、十分に検討を加えて理解し、応用できるようになること。それはまあ、就活向けの「自己分析」のロングバージョンみたいなものだろう。
相手の「特性」を知り、自分の「特性」も知れば、あるいは人生で百戦危うからず――
なのかも、しれない。
(了)