戦争へ 戸田家の兄妹 (1941年製作の映画)
円満に見えていた戸田家だが家長の父が亡くなってみると子らの我欲があらわれて居候の母は冷遇され居場所がなくなり海辺の別荘暮らしを余儀なくされる。だが5人の子のなかでも次男昌二郎(佐分利信)と三女節子(高峰美枝子)の兄妹だけは母を慕っており結局次男は赴任先である天津へ母と三女を連れていく──という話。
1939年に日中戦争から復員した小津安二郎の帰還一作目にあたる。公開された1941年当時天津は関東軍が占領していた。日本は日本海をへだてて日本の三倍の面積をもつ満州国をもっていた。時代はナショナリズムが台頭し皆が日本を列強だと信じこんでいた。12月には真珠湾を奇襲し太平洋戦争へとなだれこんでいく。
戦前と戦後の小津映画の違いは男性の態度でわかる。戦前の男たちはまだ権勢と尊厳が保たれ、封建的な印象をもっている。簡単に言うと威張っている。戦後は自信をうしない受動的になり庶民生活に埋没する男像が主流化する。
戸田家の兄妹にはのちの東京物語につながる悲哀が描かれている。親が死んで葬儀が済んでみると、とりわけ悲嘆暮れることもなく、子供らは形見や遺産を整理してさっさと自分の生活に戻っていく。
東京物語においても母の葬儀が終わると実子は東京へ帰り義理の娘である紀子(原節子)が残って周吉(笠智衆)の世話をしている。それを悪びれた次女(香川京子)が「ずいぶん勝手よ、言いたいことだけ言ってさっさと帰ってしまうんですもの。お母さんが亡くなるとすぐお形見ほしいなんて、あたしお母さんの気持ち考えたら、とても悲しくなったわ、他人どうしでももっと温かいわ、親子ってそんなもんじゃないと思う」と愚痴る。それを受けて紀子は「でも子供って大きくなるとだんだん親から離れていくものじゃないかしら……誰だってみんな自分の生活がいちばん大事になってくるのよ」と言う。
東京物語はこの紀子のセリフに集約されている。結婚し出産し育てた子が巣立ちやがて孤独な最期がくる──世の家族はそのようにして輪廻というかサイクルを踏んでいくというのが東京物語の骨子だからだ。
ただし戸田家の兄妹のばあい、次男昌二郎と三女節子だけは母への孝心をもっている。戸田家の子供らは善玉と悪玉が描き分けられていて、そのことから連想していくと、東京物語につながる一方、1979年版の犬神家の一族につながる映画でもある。
高峰三枝子は歌う映画スターの草分け的存在と言われたが団塊の子供世代のイメージとしては犬神家の一族とフルムーンの印象が大きい。
23歳だった可憐な戸田家の妹が、犬神家ではおごそかな長女松子役で「すけきよ」の母親だった。
「すけきよ見せておやり!」
フルムーンというのは高齢夫婦向けの国鉄(現JR)グリーン車両切符の商標で上原謙と高峰三枝子が群馬の法師温泉に入浴しているシーンがTVCMになった際高峰の胸が大きいと話題になった。今拾いの画像を見ても節度ある肩出しで、なんてことはない。が、当時見た時は高峰三枝子の豊かな胸を目の当たりにしたかのような衝撃があった。
可憐で心優しい戸田家の妹は時代を経て犬神家の長女となり、そこでは昌二郎が天津から帰ってきたように、すけきよが戦地のビルマから帰ってくる。
佐兵衛翁の遺言状でほとんどの財を寄寓の珠世(島田陽子)にもっていかれ、三姉妹の怒りは頂点に達する。このとき次女の梅子役をやった草笛光子の2021年のインタビューがMovieWalkerにあった。
戸田家の兄妹は、孝心深い昌二郎が母と妹を救ったことでハッピーエンドにみえるが、現実には天津へ行ったとて、やがてすぐ終戦がきて帰国することになるだろう。1941年からずっと未来に生きているわれわれから見ると敗戦からはじまる混乱期のことを考えると戸田家の兄妹の中で語られる結婚問題が霞んでみえる。すぐにそれどころじゃない時代がやってくるのですよ・・・。しかし戦争もやがて終わる。死ぬか生きるかの戦時とはうってかわって平時では結婚するかしないかということが事実上個人の大問題になるのだ。従軍して生き延びた小津安二郎は映画の中でいつもそれを言ってきた。
戦後ヒットした「懐かしのブルース」は1948年の高峰三枝子の主演映画であり主題歌だそうだ。
英題Brothers and Sisters of the Toda Family、IMdb7.3、RottenTomatoesトマトメーターなし、ポップコーンメーター85%。