おっさんと少女の友情を描く マイ・ファースト・ミスター (2001年製作の 映画)

この映画のWikipediaの「See also」にLost in Translationがあるのは年配男性と若い女性の友情を非性的に描いているからだろう。

たとえば日本のコンテンツではおっさんとJKがいたらそこにセクハラがおこるのは必至、というのも世間において年齢や性別は人物をとらえる材料であり、おっさんはいやらしいものであり、JKは挑発的なものであり、したがってふたりが揃ったらそこにはセクハラがおこる──という類型化された脳内変換がおこる。

一方でそれは創造性の限界とも言える。ある意味日本のコンテンツにはシチュエーションを定型にあてはめる遊びの要素=あるあるを楽しむ要素がある。希少性を過激であると定義するならMy First MisterもLost in Translationも充分に過激な話だが、あるから面白いと感じるか、ないから面白いと感じるかは人それぞれでもある。

個人的にはおっさんと若い女をふつうに描いてくれ──と感じることが多い。おっさんや若い女はメディアのなかであまりにも類型化されすぎていて、若い女のことは知らないが、じっさいのおっさんを生きにくくさせている。

今、大物芸人の性加害疑惑が取り沙汰されており、さまざまな人物が証言をしている中に、そもそもほとんどのお笑い芸人は女にモテたくてお笑い芸人になった──という、とあるお笑い芸人のぶっちゃけ話があった。もっといえば女とやれる方法を模索していたらお笑い芸人になることが最適解だったという告白であり、これは幼児を扱う職に就こうとする小児性愛者と変わりがないと思った。

もちろん女にモテたくて芸能界に入った、なんてのはよくある話だろうし、それ自体に罪はないが、仕事中に実際の野心が出てくるとなれば保育所/託児所/幼稚園などに職をもとめる小児性愛者と変わりがなくなるという話である。

つまり映画監督が性加害の描写をするなら、それはその監督自身の願望に他ならないという話である。じっさいに日本の映画監督にはポルノ出身者が多いわけだし園や榊みたいに現実に告発されたり逮捕されたやつもいる。結局、お笑い芸人が女とやりたくてお笑い芸人になったのであれば、いわんや映画監督をや──という話である。

日本のコンテンツではおっさんとJKがいたらそこにセクハラがおこるのは必至──と前述したが、結局それはそういう願望を持ったやつがそれをつくっているからに他ならず、つまりそんなやつだらけという話である。

だいたいこの時代に重鎮がポルノをテーマとした映画(花腐し)をつくるとかお笑いのパーソナリティが売春島の映画(はるヲうるひと)をつくるとか、それって美学じゃなくてたんなる時代錯誤でしょ。なんで日本映画ってこの時代に堂々と性暴力描いてしまうのですか。美学というような安直なことばで願望を具現化するなよ。

──

Never Been Kissed(25年目のキス、1999)は新聞記者が取材のために高校入学するコメディ。ドリューバリモア主演で公開当時全米1位になったそうだ。
映画は忘れたがそこにリーリーソビエスキーが出ていたことは覚えている。長身でスラヴ系の冷ややかな顔だち。三つ編みにわざわざ不器量な眼鏡をかけ目立たない学生を装っていたが、それでもつきぬけてしまう美貌。碧い瞳。
共演が拒まれるタイプの美貌で、当時全盛期だったドリューバリモアだから組まれた配役だったのだろう。
きれいすぎてつかいどころがない女優という印象だが、そのリーリーソビエスキーが主演していて、見たいと思っていた映画My First MisterがVODに落ちてきていたので見た。

コントラストの高いコンビだった。
ジェニファー(ソビエスキー)は高校を卒業したばかりの17歳。反抗期で「ゴス」モードに入り込みピアス穴多数、自傷癖もあり、詩と称した遺書をつづり祖母の墓へ行って語りかける趣味もある。
一方ランダル(アルバートブルックス)はモールの紳士服売り場のマネージャー。まじめで孤独で趣味らしいものもなく単調な日々を過ごしている49歳。

ロストイントランスレーションみたいに、孤独を感じている人間どうしが仲良くなるという話だが、正直なところ、ジェニファーとランダルの設定は強引で、ロストイントランスレーションみたいな自然な流れでコンビになる感じはなかったが、いったん飲み込むとあとは心地いい友情物語が展開していく。

imdb7.2、RottenTomatoes53%と75%。

トマトメーター(批評家評)が低いのは、メロドラマな結末にconsがついた結果で、逆に日本ではメロドラマな結末にprosがついた高評が並んでいた。
個人的にはお涙ではあったけれど、お涙頂戴というほどじゃなく、いいしんみり感を味わえる「過激な」友情物語だった。
クリスティンラーチが監督した長編映画はこれ一作のみだが、この映画はロストイン~のように好きな人にはとても好きな映画になっているにちがいない。

クリスティンラーチはビルフォーサイスのシルビーの帰郷(1987)によっておぼえている。
個人的にはジャームッシュにもウェスアンダーソンにもソフィアコッポラにも、その他の映画監督にもビルフォーサイスという目標があったと思う。
tender feelingsあるいはgraciousness(とでもいうべきものの)の開祖がビルフォーサイスだからこの映画にもビルフォーサイスっぽい感触があった。

ちなみにビルフォーサイスは大多数の日本映画の感性とは遠い隔たりがある。日本人の日本映画にたいする反抗心がビルフォーサイスによって形成されるという仮説はローカルヒーローを見ると容易に信じられる気がする。

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