見出し画像

世界の中で解体する「私」~中上健次 『枯木灘』 感想~

雑木が生い茂る山々、清らかな清流と海面に照り返される日。和歌山の自然へと包み込まれるように、「私」という存在も、変えようのない運命の中に包含されている。

如何に反抗し、新たな運命を切り開こうとしても血が、そして、この肉体がそれを許さない。

積み重ねた時間。それもこの肉体へ深く、深く刻まれていく。容易には拭えない記憶。それは時に甘美なものでもあるけれど、多くが辛苦に満ち溢れている。

かつて辿った苦い記憶。同じものを、子ども達にも眼差していく大人達。変えようのない運命に狂わされた人間も、ほどきがたい関係の中で時間を積み重ねる外はない。


この物語の主人公である秋幸は、自身の血縁を呪う。女を見下し、人を殺し、自分を見捨てた実父·浜村龍造への憎しみ。そして、そんな男と関係を持ち、自分を産んだ母·フサや、血の繋がらない家族への欺瞞。鬱屈した秋幸の感情は、和歌山の地で次第に膨れ上がる。

しかしながら、秋幸は、その血が辿った道程を反復していく。同じ轍を踏むまいとすればする程に、逃れることのできない肉体と空間の中に閉じ込められていることに気づく。秋幸が父、母、家族とは異なる「私」を思ったとしても、他人は彼を卑俗な眼差しで捉え返すだけだ。


近代という時空が編み出した「私」という概念は、その効力を失って久しい。特にこの日本という島国では、「私」は行き先を見失っていくのである。中上健次の前に和歌山という生活世界だけが存在しているように、私達にも未だ地縁や血縁が根深く張り巡らされている。

戦争という歴史上の大事件を経ても尚、その臭いは、都市の中にだけ残っている。地方には戦後という時代を迎えても、変わらない風景が続いている。


この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?