コミュ症の文豪とゴロツキ娘 第七話(最終話)
どれぐらい時間が経っただろうか。
気づいたら私は病室の中にいた。
辺りを見回すと私の身体がベッドに横たわっているのが見えた。
腕や顔にあちこち青あざがある。何より顔が真っ青だ。海水に溺れたのだろう。
ベッドの側にはまりあと蓉子さんが呆然と佇んであるのが見えた。
「清子さんは」そう思った瞬間、目の前の光景が変わってロビーの長椅子に座る清子さんと背広姿の常太郎が見えた。常太郎の話し声がすぐ耳元に聞こえてきた。
「いや~とんだ事になってしまいました。私がいけないんです。まりあさんに堀田雪子さんの住所を教えたのが、すべての切っ掛けなんです」常太郎は項垂れている。
「いいえ、源ちゃんはあの通りの変わり者だったから……きっといつかこうなる運命だったんだわ」そう言って清子さんはハンケチで涙を拭った。
私は驚いて常太郎の肩に触れようとしたが、私の手は常太郎の身体を擦り抜けてしまった。不思議に思い更に近づくと、あろうことか身体ごと常太郎の中に入ってしまったのだ。もっと驚いたのは、私が常太郎と同じ目線になって物を見ているということだ。俯いている清子さんの横顔がはっきり見える。これが幽体離脱というものであろうか。
私は不思議に思って清子さんの中に入ったり、常太郎の中に入ったりして遊んでいた。
その内不図、雪子さんはどうなったんだろうと思った。すると私の意識は瞬時に何処かの病室へ飛んだ。
ベッドには酸素マスクを付けた雪子さんが蒼白な顔で横たわっていた。微かに胸が上下しているので生きているのが分かる。
私は雪子さんの顔を凝っと見ながら、彼女が生きていて良かったと思った。少なくとも私が生き残って彼女が死ぬよりもこの方がずっと良いと思った。しかし私が死んだことを彼女が知れば自責の念に駆られるのではないか。そう思うと気の毒になったがもうどうすることも出来ない。
面会謝絶と書かれた病室の外には、髪をひっつめにした白髪の老婆が心配そうな顔で長椅子に座っていた。多分話に聞いた堀田家の家政婦であろう。ここに夫がいないということが、彼女の家庭事情を物語っているようだった。
私はもう一度自分の身体のことを考えた。すると瞬時に先程の病室に戻っていた。私の胸には電極の線が付いていて、横に設置された心電図へと繋がっていた。心電図の針は一番下のまま動かず、数字は0と表示されていた。
やはり私は死んでしまったらしい。
私のベッドの側で若い男性医師が、清子さんと常太郎に死亡確認の説明をしているのが聞こえた。それを聞いて私の足の方にいたまりあが泣き喚き始めた。
「馬鹿野郎~。何で心中なんかすんだよ~。小説にも何ないじゃんかよ~」
そう言ってまりあは泣きながら私の身体を拳で打ち据えた。
「叔父さん、何で死んじゃったの。このままじゃまりあちゃん、ずっと自分を責めたまま生きることになるんですよ。……まりあちゃんはね、まりあちゃんは……ずっと叔父さんのことが好きだったんですよ」
「いいよ蓉子ちゃん。あたしが大馬鹿だったんだ。全部あたしが悪い……おっちゃんを唆して雪子さんに会わせたから」
まりあは私の身体に縋り付いて泣いている。
私の胸に切ないものが込み上げてきた。そしてまりあを堪らなく愛おしく感じた。今、目の前に私がいるのにまりあは全く気づかない。こうしてまりあの髪に触れているというのに……。深い後悔の念が胸に兆した。……嗚呼何と私は馬鹿なことをしたんだろう。私はまりあを愛していたのだ。しかしその後悔は遅きに失していた。
私は茫然と自失した。
すると突然、目の前に過去の情景が走馬灯のように現れ始めた。昔の記憶を思い出しているのではなくて今まさに過去のその場所に私は存在した。私の目の前に幼い頃の光景が広がっていた。
そこはコンサート会場であった。多分小学校の低学年ぐらいだろう。私は両親に連れられてクラシックの演奏を聴いていた。若い女性ピアニストがオーケストラと共に協奏曲を演奏していた。そうこれは私の好きなモーツァルトのピアノ協奏曲第21番第2楽章であった。私は両親の隣に座る小さな私を斜め上から見下ろしながら、その演奏を聴いた。私は懐かしくなってその演奏を最初から仕舞いまで聴いてしまった。
その内私は驚くべきことに気づいた。意識だけになった私は頭の中に思い描いた時と場所に瞬時で移動できることに。
私は面白くなった。次に思い描いたのは、大学時代雪子さんと共に演芸ホールで観た柳家小三治の落語だった。
私は客席に並んで座る私と雪子さんの斜め後ろの空中から、小三治の落語をまくらから仕舞いまで聞いた。「粗忽長屋」という落語だった。
熊五郎が最後に行き倒れの死骸を抱き抱えて「抱かれているのは確かに俺だか、抱いてる俺は誰だろう」と言ったオチを聴いて戦慄が走った。今、目の前の椅子に学生時代の私と雪子さんが座っていて、時空を越えた私が上から見ているこの構図自体が落語のように思えたからだ。
まるで神がこの状況を拵えたのではないだろうかと疑った私は辺りをきょろきょろ見回した。しかし私の他に変わった者はいなかった。
私は好奇心が抑えられなくなって更に時代を遡っていった。そして大東亜戦争に出征した祖父の事を思い出した。祖父にはよく戦争の話を聞かされていた。
空には無数の爆撃機が飛んでいる。恐らくフィリピンだろう。空から見ると内陸の平野に濛々と黒煙が立ち昇っている。目を凝らすと地面に無数の爆撃跡が見える。その中で一人の日本兵が腹這いになっているのが見えた。私はそれが祖父だと直感した。生き延びる為の知恵に長けた祖父は、米軍機は同じ場所を二度爆撃しないことを知っていて敢えて爆撃跡に隠れたと言っていたのだ。祖父の中隊は三分の二が戦死したらしい。私は祖父の勇気に感服した。
私はこうして過去へ遡ることが出来るのならば宇宙の始まりににも行けるのではないかと思った。
私は宇宙の始まりを強く念じてみた。地球の出来る前、太陽系の出来る前、銀河の出来る前と順繰りに過去へ遡って行った。そして到頭宇宙の始まりに到った。
そこは何もない「無」の状態ではなかった。膨大な意識が集まった海のようなものであった。
私はその膨大な意識の海に飲み込まれながら全てが自分であるという全能感を味わった。私は一個の私であると同時にその膨大な意識そのものであった。事実私はその膨大な意識のどれにとって代わることもできた。人間や動物、草木や雲、川そして星など何にでもなることが出来た。この世のあらゆる意識と記憶はこの膨大な意識の海に根は繋がっているのだろう。
私は面白くなってそこで暫し遊んだ。
私は魚になって泳いだ。また雲になって当所も無く彷徨った。また恒星になって闇を照らした。
何の不安も苦しみもない絶対安心の境地であった。至福であった。
則天去私とはこのことだろうか?或いは禅の公案である父母未生以前とはこの境地を云うのだろうか?
兎に角私は自由自在にありとあらゆるものになって遊んでいた。
一体何れ程の時間そうしていたであろう。何日も何百年もそうしていたような気もする。私はそうやって遊び尽くした挙げ句、到頭退屈を感じた。
慥かに何の不安も苦しみもない絶対安心の境地であったのだが、人間として生きていたことが懐かしく思い始めた。
慥かに生前の私の人生は、暗い陰鬱な穴蔵の中に籠る世捨て人だったかもしれない。人には高等遊民と高言して憚らなかったが、その実只の怠け者であった。読書も思索も著述も実が入らず、大抵ぐうぐう寝ていただけであることは清子さんの他は知るまい。
尤も好き好んで高等遊民になった訳ではなかった。幾つか仕事を試みたこともあったのだ。しかしその何れもが、忍ぶべらかざる苦痛を与えるものであった。私にとって他人は敵であった。私を取り巻く社会は悉く敵であった。テレビを付ければ事件や事故のニュースが、或いは芸能人の高笑いが私の頭を悩ませた。二階の書斎の窓から見える青桐が大きく枝を張らして、風に揺れてギーギー鳴った。私は夜中に耐えられなくなって屋根に登ると鋸で枝を切り落とした。時に隣家の犬の遠吠えが神経に触った。外出すれば他人の思惑が気になった。外界のあらゆるものが、私の神経に打撃を加えてくるように思えてならなかった。兎に角この世は住みにくいものであったのだ。
こんな情けない人生であったが喜びも慥かにあった。雪子さんという唯一無二の朋友にして恋人に出逢えたことだ。只この事だけでも私の人生に価値があったと云えるだろう。だからこそ雪子さんに「一緒に死んで呉ないかしら」と言われたとき、共に死のうと決心したのだ。その時はそれでいいと思った。
……ただ心残りがあった。こんな愚かしい私を曲がりなりにも師と慕ってくれたまりあのことだ。私は彼女に断りもなしに生を終わらせたことを遺憾に思う。
彼女はこれからの人であった。私のような世捨て人と違い生が横溢していた。彼女は何にでもなれた。自身の望む作家にもなれるだろう。
私の死は彼女の人生に暗い影を落としはしないだろうか?或いは私と同じような運命を辿りはしないだろうか?
清子さんや蓉子さんも私の死を嘆き悲しむであろう。しかし彼女達は行動派の人間である。人生にどんな不幸や困難があってもそれを取り払って前へ進む人である。私の様に立ち止まっていつまでも考え尽くす人間ではない。
果たしてまりはどうであろうか?私は彼女を楽天的な活動家だと誤認していた。しかし彼女は自分で言ったのだ。「あたしだって闇を抱えてんだよ」と。そうだ、私はまりあのことをもっと知るべきだったのだ。必要とあれば彼女の抱えている闇を照らすことが出来たかもしれない。或いは私を反面教師として正しい道へ導けたかもしれない。それが私のやるべきことだったのではあるまいか。雪子さんと心中している場合ではなかったのだ。
私は出来ることならもう一遍人間として生まれてみたいと思った。どんなに苦しみや悲しみに満ちた不愉快な人生であったとしてもやっ張り人間はいい。第一ここにいても退屈である。
死後この様な安寧が訪れるのであれば態々死ぬこともなかった。何れ死ぬことは確定しているのだから。
私は何故人間が生まれてくるかということを漸く悟った。人間として生まれ、思い通りにいかない現実と悪戦苦闘すること。そのこと自体がとても面白いことであったのだ。思い悩める事自体幸福であったのだ。私は折角悟ったこの悟りを利用出来ずにいた。
そこで私はここが宇宙の始まりであることを思い出した。
ずっと過去を遡ってここに辿り着いたのだ。
この意識だけの世界では、自分の思うがままに時空を越えて往き来が出来るようだ。だとしたら未来はどうなっているのだろうか?
私は未来について強く念じてみた。
するとその瞬間、無限に蠢いている膨大な意識の海の中心に、突如巨大なエネルギーが湧き起こった。そして眩い光を放ち大爆発した。その光は加速を付けるとみるみる内に膨張してゆく。
「そうか。私はビッグバンを見たのか」
科学の書物を読んで知り得た情報をこうして実地で目撃して私は感激した。宇宙はまた一から始まりガス状の雲が集まり恒星となり、それが集まって銀河となりやがて地球が出来た。私は今より少し先の未来を見てみたいと思った。
明るい夏の日射しの元、公園の木陰のベンチに座るまりあが見えた。白いワンピースを着ている。片腕に布でくるまれた、いといけない緑児を抱えて哺乳瓶でミルクを与えていた。
木洩れ日が、麦わら帽子を被ったまりあの長い髪に反射して煌めいている。小鳥の囀りが聴こえる。
緑児を綾しながら微笑むまりあは、さながら聖母マリアのように美しかった。
その内緑児は愚図つき始めた。
「よしよし、今面白いのを読んでやるからな金之助」まりあはそう言って手提げバッグの中から一冊の本を取り出した。
「……吾輩は馬鹿である。齢三十ニにして悟り得たのは唯この事のみである。吾輩の馬鹿さ加減を面白いと思う好事家の為にこれを書き記すのである。……だってよ、面白いだろ金之助」
まりあの腕の中にいる緑児は、分かるはずもないのに声を立てて笑った。
その内向こうから日傘を差した蓉子さんがやってきた。華道の稽古にでも行ってきたのか萌葱色の着物を着ている。
「まあ、ここにいたのねまりあちゃん。赤ちゃんにミルクをあげてたのね」
「うん。こいつめっちゃミルク飲むよ。さっきまで揺らして遊んでたんだ」
「あんまり乱暴に扱っちゃ駄目よ」
「わ~ってるって。あたしだってちゃんと母性に目覚めたんだから」
「すっかりお母さんの顔になったもんね」
「うん、今ね。金之助が愚図ついたからさ。源ちゃんの本を読ませてやったのさ。そしたらこいつ笑ったよ」
「ふふふ。まだ言葉なんて分からないでしょうに」
「いや~分かるかもしんないよ。何せあたしと源ちゃんの子供だもん。ひょっとしたら夏目漱石の生まれ変わりだったりして」
「ふふっ。だったら源五郎叔父さん、きっと大喜びね。叔父さんもご一緒?」
「うん、源ちゃんは今向こうの池で俳句捻ってる。さっ張り浮かばないってさ」
今度は向こうの池の方から、私自身がよたよたと歩いて来るのが見えた。足を挫いたのか少しびっこを引いている。髪に白髪が混じって少し老けたようだか紛れもない私自身だ。
その私は二人に向かって片手を挙げた。
「やあ蓉子さん。今俳句を捻ってたんだがさっ張り浮かばないよ。今度の句会に出そうと思ったんだが。やっ張り俳句は難しいね」
「また叔父さん。変梃子な俳句を詠んで、みんなを笑わせるお積もりでしょう」
「ははは。ばれたか」
みんなはどっと笑った。
そう私は未来の光景を見ていたのだ。未来の光景に私が存在するということは、私は死んでなどいない。生きてるということだ。嗚呼何と幸せなことなんだろう。
……どくん。……どくん。……。どくん……。
私の心臓が大きく音を立てて脈打つのがはっきり聞こえた。全身を血液が再び回り出す。肺は大きく息を吸い込み、酸欠の脳味噌に新鮮な酸素を送り出す。全身の細胞が狂喜しているのが分かる。
……暫くして私は恐る恐る目を開けてみた。枕元には泣き腫らした目をしたまりあが突っ伏してるのが見えた。その隣には蓉子さんと清子さんと若い男性医師がいる。向こうに腕組みして椅子に座る常太郎が見えた。
みんなは私の顔を見ると、一様に驚愕の表情をしたまま言葉を喪っていた。信じられないことに私が死んでから余り時間が経っていないらしい。
若い男性医師は再び動き始めた心電図見て言った。
「確認しました。これは……死後蘇生です!死亡が確認されてから27分。国内では二例目の死後蘇生です」
それを聞いてまりあが漸く口を開いた。
「……何だよおっちゃん。生き返ったのかよ。びっくりさせやがって……でもよかった」まりあは再び涙を流した。蓉子さんも清子さんも泣いていた。
私は枕元に突っ伏すまりあの髪を撫でながら言った。
「ああまりあ。お前の夢を見ていたよ」
【完】
追記
あの日、私が臨死体験で見た未来の光景は五年後、本当に実現することになる。
雪子さんは堀田との離婚が成立し、京都の郊外で静かに暮らしている。心中する時、岩に足をぶつけて砕いた為、車椅子生活を余儀無くされたが、今は女流俳人として活躍している。
私はあれから一度だけ会った。
参考文献
臨死体験で明かされる宇宙の「遺言」 木内鶴彦 扶桑社
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