Orgasm of the Living Dead ② 「龍彦」
久化5年8月9日
東北一の大都市は、昨日まで三日間にわたって開催された七夕まつりの余韻も冷めぬまま、そこはかとなく落ち着かない朝を迎えていた。
市営地下鉄東南線は、仕事や学校に急ぐ人々と観光客が入り混じり、いつもより込み合っていた。
その中で、大貫龍彦は汗にまみれながら、なすすべもなく人混みに揺られていた。
龍彦は、さきほどから背中に当たっている柔らかい感触に全神経を集中しているものの、だからといって、何らかの行動を起こせるほどの度胸は持ち合わせていなかった。
龍彦は、市内中心部にある私立中学校に通う3年生の男子だ。
親の方針で、中高一貫教育の私立中学校に通っているものの、そのままエスカレーター式に高校に進学するのはまっぴらだった。高3になる姉の夏樹のように、親の言いなりになるのは嫌だった。
龍彦は自分の実力をどうしても試したくて、親の強い反対を押し切り、県内最高峰の公立高校を目指して受験勉強に励んでいる。
早生まれの龍彦は、中3にしては164cmと小柄であった。
しかし、親に勧められて始めた総合格闘技「大空塾」の道場で鍛えた痩躯は、鋼の如き呈をなしていた。龍彦は、全国大会でも常に上位に食い込むほどの実力を持っていた。
一方、その強靭な肉体とは裏腹に、龍彦は極端に臆病で自己肯定感があまりにも低かった。だからこそ、その殻を打ち破ろうと超難関公立高校の受験の道を選んだのだ。
龍彦は、中学生特有の心と身体の危ういアンバランスさを抱えながら、今日も学校に通っている。
大通駅で人混みごとホームに吐き出された龍彦は、汗を滴らせながら地上に出る階段を上り始めた。そのとき、後方遠くから悲鳴と怒号が聞こえてきた。遅刻ギリギリだった龍彦は、それが気になったものの、チラッと後ろを振り返っただけで階段を駆け上がった。
熱気でむっとする地上に出た途端、いつもと違う騒然とした雰囲気が漂っているのに気付いた。パトカーや救急車が何台もサイレンを鳴らして走り回っている。街を行く人々も不安げな顔で辺りを見回していた。
持ち前の野次馬根性がむくむくと首を持ち上げたが、遅刻してはいけないと街を駆けだした。
龍彦は、校門を走り抜け、3階までの階段を一段抜かしで一気に駆け上がり、授業開始のチャイムが鳴る直前に教室にすべり込んだ。
そこには、既に険しい顔をした担任の山川先生が教壇に立っていた。相変わらず趣味の悪い派手な柄のシャツを着ている。1時限目は古文なのに、どうして山川先生がいるのかと訝っていると、先生が待ち構えていたかのように声を上げた。
「よし。これで全員そろったな。まず、落ち着いて聴いてくれ。今朝、街のあちこちで暴漢が暴れているという連絡があった。情報が錯綜していて詳細は分からんが、今はこのまま教室で待機すること。いいか、絶対に外に出るなよ!」
そう言うと、山川先生は駆け足でバタバタと1階の職員室に戻っていった。
教室に残された生徒たちは、先生の姿が見えなくなると、すぐに騒ぎ始めた。
それぞれがスマホを取り出し、街の状況を検索しはじめた。
「やっば!これ見て!血塗れの人の写真がたくさん投稿されてるよ!」
「これ、大通駅のホームじゃん。しかも10分前だし。」
「この動画、たぶん条線寺通りのマックんところだ。うわ、グロいわ。」
「襲っている人も普通のリーマンみたいな感じだけどな。」
「えーっ!なんか噛みついてない?ヤバイわー。」
「こっちはOLのお姉さんが暴れてるよ。パンツ丸見え~。」
「暴れてる人の顔の色、気持ち悪っ!」
興奮した生徒たちが大騒ぎしていると、突如甲高い非常ベルが鳴り響き、校内放送で教頭先生らしき声ががなり立てた。
「ただいま校内に不審者が複数名侵入しています!生徒のみなさんは絶対に教室から出ないこと!これから担任の先生が教室に向かいます。くれぐれも軽率な行動を取らないこと!」
生徒たちの顔がこわばり、一瞬の静寂ののち、教室中が悲鳴に包まれた。
龍彦の教室は3階の一番奥にある。
教室中が騒然となり、女子たちが不安気に固まっていると、開け放たれた窓から悲鳴や怒号が聞こえてきた。
生徒たちが一斉に窓際に駆け寄って下を見ると、1年生が悲鳴を上げながら蜘蛛の子を散らすように校門や校庭に向かって走っていた。
その後を追いかけて、十数人ほどの大人が、生徒を上回る凄まじい勢いで走っていく。彼らは、子どもたちを助けようとしているのではなく、明らかに襲おうとしていた。大人たちは、スーツや作業着や普段着の様々な服装の男女の集団だった。その顔色は遠目に見ても一様に青白く変色していた。
その中でも一際目立っているのは、190cmの巨漢である体育教師の三枝聡一朗だった。聡一朗は、その巨体に似合わぬ優しい目をした、生徒たちみんなから慕われている先生だ。
その聡一朗が、今、野太い咆哮を上げ、2m超の長さの不審者制圧用のさすまたをブンブンと振り回しながら生徒を襲っている。
次々に1年生が、暴徒に追いつかれ、襲われて倒れていく。
生徒は、首筋や手足を噛まれているようだ。あちこちから泣き叫ぶ声と悲鳴が飛び交う。
何人かの生徒が、大人たちを必死に振り切り、校門の辺りまでたどり着いた。
だが、それと同時に、校門の外から大勢の暴徒がなだれ込んできた。そして、その生徒たちはあっと言う間に群衆に飲み込まれた。
暴徒に襲われた1年生が、あちこちに点々と倒れている。倒れた生徒に、大人たちが群がり、噛みつき、肉を剥がし、それを口に運んでいる。
その生徒の中には、ごく僅かではあるが、ゆっくりと自力で立ち上がり、辺りを見回したあと、他の逃げている生徒を襲いに行く者もいた。まるで鬼ごっこだ。
しばらくの間、地獄絵図のような惨劇が続いたあと、悲鳴も泣き声も聞こえなくなった。暴徒は、まるで狩りと食事に満足したかのように、その動きを止めた。そして、さっきまでの激しい動きとは打って変わって、老人のようなおぼつかない足取りでフラフラと学校の外に向かって歩き出した。
彼らが去ったあとには、真っ赤な血だまりと1年生だった者たちの無残な残骸だけが残った。
学校を出て行く群衆とは反対に、校舎に向かって戻ってきたのは、血に塗れ、さすまたを引きずった聡一朗と数名の1年生だった。
彼らは、生気のない灰色に近い顔色で、上体を左右にゆっくりと振りながらよろよろと歩いてきた。
息を呑んで固まっていた龍彦たちは、女子生徒が一斉に泣き叫んだり嘔吐したのをきっかけにパニック状態に陥った。
山川先生は、一向に教室に姿を見せない。
しびれを切らした3階の3年生と2階の2年生が一斉に教室を飛び出し、我先にと階段に殺到した。
そして、次々に将棋倒しになり、多くの生徒が亡くなった。
東側の階段を下りて行った生徒たちはまだ幸運だった。
聡一朗たちに遭遇しなかったからだ。
将棋倒しから運よく逃れられた生徒は、一目散に学校の外に逃げ出していった。
だが、その先の運命は、決して幸せなものとはならなかっただろう。
彼らの行く先にも、また同じ地獄が待っているのだから。
西側の階段を使った生徒たちも、その半数以上が将棋倒しで命を落とすか重傷を負った。
1階まで辛くもたどり着いた生徒たちは、昇降口手前で聡一朗たちに出くわすことになった。聡一朗は、血みどろの5人の1年生を従え、剣呑な雰囲気を漂わせながら静かに佇んでいた。
間近で見る聡一朗は、左頬の肉がごっそりと削げていて、紫色になった歯肉が直接見えていた。そして、顔の所々の皮がベロリと垂れ下がっていた。生徒たちを無表情に眺めるその目は、輝きのない濁った白目で占められていて、その中心にポツンと小さな瞳があった。
つい先ほどよりも、身体の腐敗が急激に進んでいるようだ。体液を滴らせ、周りに強烈な腐臭を漂わせている。
聡一朗と遭遇した生徒たちは、引き返そうとする者、前に進もうとする者で大混乱に陥った。
聡一朗は、その様子を身じろぎもせずに感情のない目で眺めていた。
意を決した5~6人の生徒が、昇降口めがけて聡一朗の脇を駆け抜けていく。
その瞬間、聡一朗はヴァアアー‼と叫ぶやいなや、手にしていたさすまたをブン!と振り回した。
そのひと振りは、逃げ出そうとした生徒全員を吹き飛ばした。
そして、青白い顔をした先生たちが職員室から飛び出してきて、パニック状態に陥った生徒たちを襲い始めた。その先頭で暴れているのは、右の眼窩から眼球をぶら下げた山川先生だった。
聡一朗は、もう一度野太い雄叫びを上げると、既にエサでしかない教え子たちに突っ込んでいった。
(続く)
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