日本民藝館監修「日本民藝館手帖」ダイヤモンド
以前、東京に出張した時、隙間時間を活用して日本民藝館に立ち寄ってみたことがある。初代館長である柳宗悦は「民藝40年」を読んで大変感銘を受けた方であったし、個人的にも興味があったからだ。見られた時間は短かったが、何か心をとらえて離さないものがあった。その印象が強かったこともあって図書館で目にとびこんできたのが、この本だ。
「今 見よ いつ 見るも」
真に見ることの姿勢を詠ったこのアフォリズムは「心偈(こころうた)」の中に詠われている。彼の同志であり後輩である棟方志功はこれを版画にして病床の柳に届けた。
学習院時代に西洋芸術、哲学の研究に没頭していた彼に「民藝」を開眼させたのは朝鮮陶器である。1916年以降彼は朝鮮半島を数回訪問しながら、朝鮮陶器の美に、その民族に敬愛の心を深めていく。その後、日本の木喰上人など日本の美の発見にも努め、当時「下手物」と呼ばれていた民衆の日常品に真の美を見出していく。柳は美の対象として顧みられなかった民衆の日常品の中に「平常の美」「健康の美」を見出した。
「美しさは無碍であるときに極まる(不完全を受け入れる美しさのほうが深い)」
「民藝館の使命は美の標準の提示にある」
「余は想う、国と国をむすび人と人とを近付けるのは科学ではなく芸術である。政治ではなく宗教である。著ではなく情である。」
「互いの心の壁を解決する道・・第一に『お互いが相手の立場に立って考えてみること』、そして第二は『互いが互いを認めあうこと。そしてそれぞれが尊敬する何かを掴むまで、互いを見守ること』」
いずれも柳の言葉だ。実に含蓄のある深いことばだ。彼の魂に共感する。
<メモメモ・・>
・柳のスポンサーにはアサヒビール創業者の山本為三郎や実業家の大原孫三郎もいた。
・柳の蒐集は「時のフィルター」を通ることで新しい価値を生み、人々に認められていった。
・柳の思想に大きな影響を与えたのは、英国人の友バーナード・リーチである。
・民藝運動に触発されたのが棟方志功や芹沢銈介(染色家)などである。