【続いてる写経 1417日め】神田明神&成田山新勝寺、両詣りは御法度か?
房総半島にある洲崎神社様が、かつて勧請されて神田明神に祀られたことを知り、神田明神側でのご由緒を調べてみました。
が、その話はほとんど出てこず…。
代わりにヒットした気になる話がありました。
神田明神にお詣りしたら、成田山にはお詣りしてはいけない
もしくは逆で、
成田山にお詣りしたら、神田明神にお詣りしてはいけない
なぜ??
いや、これ知らなかったとは言え、今年早々に双方にお詣りしてるのよ、ワタシ…。
順番としては、神田明神様で正式参拝を受けたあと、成田山新勝寺の節分会に行ったのです。
この記事が発端なのかな?
さて、なぜに双方をお詣りしてはいけない説があるかというと、
そのご由緒とご祭神に理由がありました。
成田山新勝寺のご由緒は以下の通り。
平将門公は、成田山においては”朝廷の敵”で悪者扱い。
対する神田明神様では、将門公を大己貴命様、少彦名命様の次の、三之宮としてお祀り。
江戸総鎮守として、”関東平野を守った英雄”としているのです。
将門公、江戸のお守りアイコン・・なのですね。
全く逆の、平将門公のお姿。
成田山新勝寺で沿革パネルも読んだはずなのに、ワタシの頭の中には、
成田山には、弘法大師作(と言われる)不動明王が祀られている
これしか残ってなかったのでした。
そんなわけで、
神田明神に詣でて、将門公を討った成田山に行くことは何事か!!
成田山に詣でて、敵の将門公を祀る神田明神を参拝するとは何事か!!
そんな説が出てくるようでした。
検証するに、現代人には正直、気にしないで良いと思いましたね。
なぜならば、成田山側から見れば、将門公が倒れてくれたおかげで、
弘法大師作の不動明王が鎮座することになった
↓
そのおかげで現在の賑わいがある
ある意味、将門公ありがとう、なわけです。
さらにその魂を鎮魂せしめてくれている、神田明神さんにもありがとうだと思います。
よって双方お詣り、理に叶っている。
勝手に解釈しました。
最近気になっているのは、成田山へお祀りされ「動かせなかった」とされている不動明王像。
貸し出したままとなっている神護寺さんの立場ですね…。
もしあの不動明王様が、神護寺さんにあったのなら、その後はどうなっていたのだろうか??
想像してしまいます。
今年は創建1200年。トーハク楽しみ。
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