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【続いてる写経 1549日め】なぜに浅間神社の高尾山修験道の山伏さんが❓

新屋山神社様ご参拝のあと、ふたたび訪れた北口本宮冨士浅間神社様で高尾山の山伏さんと遭遇。

このあと神社様の御本殿へ入られてご祈祷を受けられたご様子でした。

富士山登拝高尾山修験道の幟

高尾山の山伏様がなぜいらしたのか、回答は高尾山のホームページにきちんと書かれてました。

富士登拝練行

高尾山内に御祭りされております富士浅間社は、天文年間(四百五十年前)に北条氏康により建立され、その後、寛政10年と大正15年に再建されました。
江戸時代に於いては富士・信仰が、その隆盛を極め、江戸八百講と呼ばれる程、富士信仰が民衆の生活に浸透し、多くの人たちが富士山を目指してその歩みを進め富士道が確立されました。
高尾山内の富士浅間社は、その富士道の重要な拠点であり、富士登拝が出来ない人々はその思いを先達に託し高尾山にて富士浅間社を拝み、その御利益を頂いていたのです。 その後、時代と共に幾多の衰微を繰り返し、現代に於いては富士道を歩む人々の姿が見られなくなった現状を、当山、御貫首の発願により、北条氏康が富士浅間社を建立してから、四百五十年目に当たる平成19年6月末より7月上旬の十日間に渡り、昔ながらの富士道を徒歩による富士登拝修行の再興を成されたのです
そしてこの富士道を徒歩による富士登拝修行は毎年、高尾山修験道により行われて行きます。

https://www.takaosan.or.jp/about/syugen.html

江戸時代の富士信仰が途絶えてしまったのを、現代に甦らせたものだったのですね。
平成19年から復活なので、今年で17年目。

江戸時代の富士講ルートは、高尾山〜富士山のあと、御殿場側に降りて足柄峠を越え、大山もご参拝したとか。

富士山道中の道筋の取り方は、江戸を中心に、埼玉、千葉、神奈川から八王子に出て高尾山に参拝、小仏峠を越えて甲斐路を辿り、大月、都留、吉田に入り北口浅間神社に詣で、登山、頂上のお鉢を巡り、須走口、御殿場口へ下り、足柄峠を越えて、最乗寺へ道了尊詣で、更に簑毛から雨降山に登り石尊権現に詣で、下って大山寺不動尊に詣で、厚木、上鶴間を経て府中、あるいは世田谷に通じる大山街道を、または、伊勢原から藤沢に道を取り東海道を登り江戸に帰るのが主だった道筋であったようだ。

この道中に於て、我が高尾山は富士山の「前立ち」、大山が「後立ち」であるとする信仰が在ったと伝えられる

https://www.takaosan.or.jp/about/about_yakuouin_vol3.html

富士山には登ったことないけれど、こんなルートが江戸の人たちの間で流行したとは。かつての日本人の健脚ぶりが伺えますね。

そして江戸時代は伊勢詣も、熊野詣も、善光寺詣も流行っていたのだから、

江戸の人、どんだけ元気で旅好きなんだ???

現代人の我々は、それこそ高速の交通手段のおかげで、これらの場所に一気に到達できるわけですが、さすがに霊峰に登るのは自力は辛いものがあります。

そんなワタシにもぴったりな、「富士登拝徒歩練行代参守」がありました。

この代参守は、高尾山御本尊飯縄大権現様から続く祈りの道を、修験者によって歩いて運ばれ、各参拝所の宝前に供え法楽と共に祈り、霊峰富士の法楽にて申込者のご芳名を読み上げ、高尾山麓・成満柴燈護摩供の御加持の後、参拝所に納められる碑伝と一緒にお授けされます

https://editor.note.com/notes/n9d9d66604fe9/edit/

まさにお講の代表者に託すがごとく、山伏様に代理参拝をお願いできるのです。
富士山の各所でご芳名を読み上げていただけるとは豪華!!!

これは次回高尾山写経大会の時に確認して申込しておこうかな。
数に限りがあるそうなので、来年の7月分とはいえ早い仕込みが吉かもしれません。

まあ、一度は自力で登ってみたいのですけどね、、。




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