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【続いてる写経 1594日め】神田明神様は偉大なる”国学”発祥の地

ご利益の専門家、藤本宏人先生のセミナー&正式参拝イベント@神田明神様に参加してきました。(セミナーの内容は参加者限り)

晴れ過ぎ
晴れ過ぎ

今回のセミナー会場、なぜ神田明神様だったのかというと、
”国学発祥の地”だったからとのこと。

何度も参拝している割に、そこの知識は頭に入っておりませんでしたが、ちゃんとご境内の横に石碑ありました。💦

反射して読めんがな

 國學發祥之地      今 東光撰文

荷田東丸は 京都伏見稲荷社家に生る 通称羽倉斎本名信盛なり 元禄十三年三代将軍家光五十年祭に勅使として 大炊御門前右大臣経光公中仏道経由日光及び江戸に下向の砌り随行して江戸に出で 享保七年まで在府せり その間各所に講説し歌会を催し且つ多くの門人を養へり その講席は当社神主芝崎邸にて後に東丸養子在満及び高弟浜松の人岡部三四真渕もこの邸を借用せり 当時神主は芝崎宮内少輔好高 その男宮内大輔好寛その舎弟豊後守好全の三代約百年に亘れり 然も好全妻女は東丸の女直子なり されば芝崎神主は歴代自ら学ぶと共に能く師東丸のために尽瘁し学園の場を供して国学振興に寄与せり 師東丸は門弟を訓ふる頗る懇切なりき 殊に元禄十五年門弟の宗偏流茶人中島五郎作宗吾等と密かに赤穂浪士のために計りて義挙を扶けしはその忠直の性を知るに足る この東丸出でて吾が国学は加茂真渕 本居宣長と伝統して今日に至る 今その遺跡に記して後学の為に伝ふ

石碑の文章(神田明神HPより)

文語調でわかりづらいので、さらに解説。

国学は、荷田春満(1669〜1736)により江戸において始められた学問である。春満は伏見稲荷大社神職の出。有名な赤穂事件のとき、当時吉良邸に出入りしていた春満が赤穂浪士たちにひそかに情報を提供し討入をたすけたというエピソードもある。その春満に最初に入門したのが神田明神神主家の芝崎好高であり、邸宅を講義の場として提供するなど国学の普及・発展につとめた。また春満の弟子・賀茂真淵(1697〜1769)も、神主芝崎家の邸に一時住んでいた。真淵は、御三卿・田安宗武に仕え、その一方で江戸在住の武家・町人層を中心に国学を広めた。碑は春満・真淵そして芝崎神主ほか明神神職による国学の発祥を記念して、昭和53年12月に建立された。題字は当時伏見稲荷大社宮司・守屋光春、撰文は直木賞作家・今 東光氏による。

神田明神ホームページより

荷田春満(かだの あずままろ)、本居宣長、賀茂真淵、平田篤胤の四人が”国学の四大人”。
他3名は頭に浮かんでましたが、”最初の人”を知らなかった。(恥ず)

荷田春満の業績は、Wikiによると、

荷田春満は契沖の『万葉代匠記』などを学び、国家意識を強くして古典および国史を学び古道の解明を試みた結果、『万葉集』『古事記』『日本書紀』や大嘗会の研究の基礎を築き、復古神道を提唱するなどの業績を残した[4]享保13年(1728年)には、著作『創学校啓(そうがくこうけい)』を江戸幕府に献じて、将軍・徳川吉宗に国学の学校建設の必要性を訴えた[2][5]

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%B7%E7%94%B0%E6%98%A5%E6%BA%80

現代人が『万葉集』や『古事記』『日本書記』を学問として扱えるのも、この方の研究のおかげだった。

さらに復古神道の提唱を見ると、十言の神咒(とごとのかじり)、三種祓い(”トホカミエミタメ”)などの行法も復興したようです。

現在、自分の学びとも色々繋がっていた。。(さらに恥ず)

荷田春満をお祀りした東丸神社が伏見稲荷大社のそばにあるそうです。
当然ながら”学問の神様”として崇められているそう。
自分の年齢の数だけお参りを重ねる「としまいり」のお参りも有名だそうです。⬇️

もしこれをやるなら、年齢がこれ以上多くならないうちがいいな。。

次回伏見に行く機会があったら、忘れずにお参りしたいと思います。


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