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目標があってもなくても、生活は続く

雪国へ行ってきた。
近くないので、行くときは勢いがいるのだけど、着いてみればみんな良くしてくれて、車で送り迎えもしてくれて、もっと長くいてもよかったな、といつも思う。虐げてごめんねと。しいたげてないけどさ。


雪国生活

帰省して友達に会い、そうはいっても数か月で人生の変化はそれほどあるまい…と思っていれば、電撃結婚が決まったり、partnerができたりしていた。そして振り返ってみれば、今年は結婚出産ラッシュだった。ぶるぶるでは大学生と一緒にいるのでそんなことは感じないけれど、同年代はそういうかんじだった。私も続きたい気持ちはあるものの、もやもやしていた。

そのあとに雪国に行ってみれば、やはりそれほど変わりはなかった。笑
大きい地方都市なので、新しいビルができていたり、おいしいお店があったりなんだりはするけれど、友達や家族の生活は、変わらず続いていた。
そして、思った。結局、人生って生活なのだ、と。
毎日とりたてておもしろいことがあるわけじゃない。旅行をしたり、そういうこともあるけれど、通常の週末は、家事とかして、のんびりして過ぎていくものだ。

目標に向かう日々

Partnerに出会いたい。子供がほしい。あの仕事がしたい。
私はいつもそうやって、目標を掲げて、processな毎日を生きてきたように思う。苦しいなら、違うものがほしいなら、変えるべきだ。そうやって、やってきた。

同時に、そんな目標は持たずに、ぼーっと生きている(というわけではないのだろうけど)ような人にも、特に都庁では、会ってきた。

  • ずっといるのなら、島で働くのもいいかな。

  • ずっといるのだから、少しでも環境のいいところで働きたいな。

  • ずっといるのだから、趣味でも始めようかな。

  • 都庁に入って、仕事の心配はなくなったから、次は家族かなあ。

というように。想像だけど。
私には切実な目標があったから、そういう人をうらやましい…というか、住んでいる世界が、mindsetが違うなと思いながら眺めたものだ。仕事が軌道に乗るまでは、ということもあるかもしれない。安定収入があり、休みも取れて、生活が続くようになると、今度は家族だ、とか、旅行もできているし、趣味でも始めようか、とか。放っておいても回るようになる。

私のfree timeは、常に目標をかなえるために使う必要があったけれど(cafeでapplicationsを書くとかね)、この人たちは、趣味とか、誰かのためにお金をつかうとか(私には理解できないけれど)、私から見たらくだらない、どうでもいいことに使っていた。
それでも、その人たちは、いいのだ。だって目標がないのだから。
そして、私の友達にも、もちろんそういう生き方をしている人たちがいて、"好きなスープカレーの具は?"なんて話をした。

自己否定を抜けると

自分には何かが足りないから、これを変えなきゃだめだ、常に何かに向かって改善していかないとだめだ。そういうmindsetで生きてきたような気がする。やせないと、少しでも体にいいことをしないと、とか。
そして、それは、自己否定から始まっていたと思う。今のままの私ではだめだから、と。それは、しばらく前に、抜け出した気がするし、だからこそ、これからは何のために運動するのだ?と考えたこともあった。今はそれほど運動していないしね。思い返せばすごいmental energyだった。

そして、私は今までも、目標に向かう日々を過ごしてきたけれど、かなえたあとはどうなるのか?といえば、生活が続くのである。
シングルマザーでも、生活は続く。結婚すれば、子供がいれば、たしかに生活は変わる。ひとりからの変化はもちろんある。だけど、仕事がどうであれ、忙しくても何であれ、ごはんは食べる。家事はする。結婚とは生活なのだ!と言うように。
それは目標に向かっているときも、目標がかなわなくても、同じことだ。ただ、目標を達成したときに、それまでの時間が、"目標に向かっていた時間"と名前をつけられるだけで。

平凡な毎日が続くこと

今回、雪国からの帰りの飛行機がthunderstormでものすごく揺れて、厚い雲の中をずっと飛んでいて、赤いランプが光っているのも見えて、ほんまに大丈夫なんかな、と思った。…というか、かなり祈った。

そういうときに、"これを達成しないで死んだら困る!"と思うようなことがあれば、と思うのだけど、なかなか切実に必死に思うことは浮かばなかった。それがこの時、lifeworkを考える段階において、つまづいていることでもあった。
私はただ、平凡な毎日を、何をするでもなく家族や友達と過ごす時間を、ほしいと思った。私に何かあったら、いろんな人が悲しむだろうな、と。私は私で、それなりに幸せに、後悔なく過ごしていたことが伝わればいいのですけれど…と。

ところでここに書いているということ(事実)や、passwordなんかは、家族は誰も知らないので、果たして見つけてもらえるのか?は、考えものである。。。

不整脈になってから、まわりでも色々あったから、こう思うようになったのかもしれない。

人生は生活

人生とは平凡な生活なのだ。
毎日が特別で、キラキラしている必要はないのだ、それが好きな人は別として。だからこそ、たまに美味しいケーキを買ってくるとか、朝はお気に入りのお茶を飲むとか、小さい習慣みたいなものが、重要なのかな?と思う。
新年になり、習慣を考えて、Fabulous appを使い始め、生活がとても楽になったので、なおさら思う。

そして、たまに友達と会って、どうしてる?好きな具は?なんて話をしたりする。都庁が決まる前の時期に友達と会ったときに思ったのだった。仕事で何があろうとも、たまに会って話していられるということは、まあそれなりに元気で大丈夫ということなんだな、と。友達が現実を変えてくれるわけではないし、期待するもんでもない。意味のある話をすると、それはそれは充実するけれど、そうでなくても、ただ時間を過ごすだけでもいい。

海外生活って

私がぶるぶるに着いて、なんか降りてきて見たのは、中学聖日記だった。
その作者がフランスに住んでいて、生活についてマンガを描いている(パリパリ伝説)、というのも知ってはいた。そして、帰省後に思い出したので、かわかみじゅんこさんの本を図書館で借りて読みまくった。おもしろかったし、Brussels=ぶるぶると書いてあったので、これまた採用した。

そういうわけでパリパリ伝説を読んで思ったのは、海外に出てみると、日本では考えられない事件が起きるため、それまで考えなくてよかった「突然自分の生活がどうにかなるかもしれない」という不満はつきまとうんだなということ。つまりはそれなりにちゃんとしているところに住むのがいいかもしれない…とはいえ、帰省から戻ってきてみると、なんだか肝が据わった私で、不安で過ごしてはいないのだけど。

日本は生活の枠の部分がしっかりしているけれど、それ以外の中身はふぬけだったりする。人とのつながりがないし、他人のことは基本的に警戒の目で見ているし(外はそんなことないんだよ)、日本で働くのはとんでもない。
私は日本は合わなかったし、枠の部分だけならあまり魅力は感じないので、出たということになる。ちなみに、枠の部分と同じくらい重要なのが食事だろうけど、残念ながら(というか)、私は一切恋しくならないし、米を食べなくても平気なタイプ。

そしてやはり、海外生活も生活ということ。
海外生活は素敵に見えるし、それは同意する(少なくとも私には合っている)けれど、ふたをあけてみれば、もちろん違いはいろいろあれど、生活は生活。
漫画家はどこにいても漫画家の仕事をするわけで、日本に毎年帰るとか、そういうことも含めてlifestyleであり、なんか、特別なもんじゃないんだよね。私も週末は洗濯・掃除・買い物してるわけだし。

人生は生活なのだ。
…と、考えるのは、私がずっと目標にしていることが、本当に私を幸せにすることなのかしら?と、疑問に思っているからなのかもしれないし、私、それなりに幸せなのですよ、ということなのかもしれない。


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