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デビュー作「風景の夢」にまつわる話

7080チルゴンパルゴン」という単語は、日本でも知られているかと思う。「昭和レトロ」のようなものかと解する向きもあるかもしれないが、韓国の1970年~80年代は「古き良き時代」と言うにはあまりにも過酷だった。

7080をコンセプトにした、仁川月尾島にある「追憶の博物館」

 軍事独裁政権による民主化運動への弾圧が続いた。大学では投石と催涙弾による攻防が連日繰り返され、思想や言論の統制も厳しかった。民主化を訴える詩は「禁書」とされて書店には出回らなかったが、ガリ版刷りの詩や檄文を、学生たちは熱心に読んでいた。80年代に一留学生だった私も、あからさまな手紙の検閲や国家機関からの電話での脅しに肝を冷やした覚えがある。

7080をコンセプトにした、仁川月尾島にある「追憶の博物館」

 そんな時代、張碩さんの「風景の夢」が朝鮮日報の新春文芸、詩部門に当選した。新春文芸とは、韓国の各新聞社が主催して小説や詩、戯曲を公募するもので、新人作家の登竜門となっている。

  風が吹いてくる。散らばれ。硬い
  草の種たちよ。愛の熱たちよ。
  飛びあがれ。かぎりなく力強い勢力よ。白い欲望たちよ。
 
  わたしはふくらんでいった。荘厳な紋様と わたしの夢が
  息づく温かい熱が わたしを上昇させた。
  草が立ちあがる。緑色の群れたち、
  いのちを明るく
  照らしてくれる 燃え上がる表皮よ。
               (「風景の夢」部分)

 この詩を書いたころのことについて、張さんに話を聞いた。
 「1979年、ソウル大学国語国文科3年生在学中に書いた詩だ。まさに激動の時代であり、心の重い時代だった。私の先輩後輩たちは次々と、民主化を叫んで投獄されていった。
 私は文学への情熱から文学部に進学し、サークル活動やデモにも参加した。当時は民衆文学が盛んで、参与詩と呼ばれる運動としての詩が主流だった。しかし私には、闘いを促すような典型的な詩はとても書けなかった。すべての問題を解決するために民主化を進めることには100%同意しながら、私は深海で小さな灯りをともす深海魚のように、存在の根源を探るような詩が書きたかった。
 文学を行うことは長い間の夢でもあったが、世の中の動きは理想とは乖離していた。私の詩的な悩みは時代とは噛み合わず、緊迫した時局の中で夏空をじっと眺めているような情緒は、仲間たちにも受け入れられなかった。おまえの考えには一理あるが、おまえには憤怒がないという先輩の言葉が、私の胸を刺した」

 詩人として華々しいデビューを飾った「風景の夢」だが、この作品はその後長きにわたって張さんを苦しめ続けた。3年間の兵役から戻った張さんは、それまで大切にしてきたすべてのものから遠ざる決心をして、ソウルを離れた。
 詩人はその詩を忘れようとしたが、激動の時代に書かれた「風景の夢」を長く記憶した人々がいた。
 1995年、文芸評論家のナム・ジヌは『神聖な森』という評論集の中で、「風景の夢」を8ページにわたって取り上げて絶賛している。そこから抜粋してみたい。

 何冊もの詩集を発表したにもかかわらず、どうしても自分だけの詩世界を持った個性的な詩人である と呼ぶことのできない詩人がいるかと思えば、たった一編の詩しか発表していなくとも、私たちが長く記憶すべき詩人がいる。デビュー作(1980年朝鮮日報新春文芸詩部門当選)のほかに、それ以上の作品活動をしていないこの詩の作者こそ、後者の代表的な場合と言えるだろう。その詩が見せてくれる輝く言葉の駆使と幻想的なイメージの造形、想像力の微妙なバリエーションとともに、詩人の無邪気な感受性が呼び起こす火花の美しさのためだ。その火花は1980年代の間ずっと、再び起こることはなかったが、この一編の詩だけでも、私たちには彼を記憶する義務がある。
 
  世界の同心円の真ん中に立って、詩人は夢想する。詩人の言語は軽く透明に世界を通過してゆく。雲が湧いては崩れ、光が目を見開き、鳥は飛び立ち風は吹き、草はそよぐ自然環境を隠喩的に描写したこの詩が、究極的に言わんとしたことは何なのか。おそらくそれは、自我と世界の原初的な出逢いと、それに起因するひそかな震えだっただろう。森羅万象はこの詩人にとって固定されたものではなく、その都度姿を変えて無限に波動するもののように映る。休むことなく姿を変える自然の動きのように、詩人の言葉も柔らかく、清水が湧くように、あるいは水面の上に気泡が生じて割れるように、文脈の上に湧き起こっては崩れ落ちる。彼の言葉は現実を捕らえようというより、現状とともに明滅しているとも言うべきほど刹那的だ。タイトルが暗示しているように、今詩人が詠っているのは存在の核、実態や本質ではなく、それらの現れ、つまり風景なのだ。その風景を見つめる、いや夢見る主体の視線は自信に溢れ、世界と調和する関係を維持している。
 
(中略)
 
   わたしは恥ずかしくて涙を流した。わたしの夢は
   わたしに口づけしてくれた。
 
 上の詩では話者の涙は言葉通り、恥ずかしさの涙というよりも、一瞬獲得した自我ー世界の完璧な一致の感情から湧き起る喜びの涙であろうと思われるが、まだ明瞭な方向性を感知できない純潔な霊魂のときめき、揺らぎ、戸惑いを感じさせる。併せて詩人のこのような側面は、彼がなぜ1980年代に詩壇でもっと積極的に自身の詩世界を開陳・構築することで現実と力動的にぶつかり争うよりも、長い沈黙の潜行を選んだのか、その理由を暗示している。1979年緊急措置の暗闇が晴れ、1980年5月の野蛮な時間が近づく直前に発表されたこの作品は、あまりにも多くの可能性を孕んでいながらも、状況論理によって自ら閉じられてしまう運命の一つの形式を見せたという点で、錯綜する思いを禁じ得ない。特に「風景の夢1」に続く「風景の夢2」の次の句節は、この詩人が鋭敏な感受性と、言葉を操る非凡な手腕の次元を超えて、形而上学的な認識の次元にまで伸びてゆく潜在力の所有者であることを証明してくれたという点で、一層の心残りが募る。
 
    いまや生は神聖な停止であり、
    その
    影である風景だけが変貌する。
    その
    息遣いである風が散らばる。音の鉄柵のあいだで。
 
    鳥よ、
    哀しみの尖塔の上に落ちる青いくちびるよ……
 
--『神聖な森』ナム・ジヌ評論集(1995年民音社)より「風景の夢」の部分を抜粋

 実はこの評論の出る少し前、張さんにとって非常に不愉快な盗作事件も起こっていた。ソウルの培材ペジェ大学の教授が、「風景の夢」の詩句の一部分を入れ替えて、自作の詩として発表したのだ。「詩壇にデビューしてから10年以上も詩を発表していなかったために、世間では張碩という詩人はもう死んだと思われていたようだ」と、張さんは苦笑した。「風景の夢」はそれほど深く、人々の脳裏に刻印されていたということになる。

 邦訳詩選集の最初の段階として、金承福さんからもらったリストの中に「風景の夢」は入っていなかった。その後、張さんからの要請で、この詩を加えることになった。
 正直、翻訳者にとっては手ごわい作品の一つだった。詩句が何を暗喩しているのか、私は幾度も詩人に質問を繰り返した。とくに似たような単語が繰り返される部分を日本語でどう区別すべきか、悩み抜いた。具体的に挙げると、장엄한 무늬, 장엄한 문양, 흰 깃이 남긴 무늬 という部分だ。
 邦訳の悩みと向き合ってくれた張さんは、「少しニュアンスを変えて、新しく考え直してみた」と、元の詩句を別の単語に置き替えることを提案した。40年余り前の金字塔を、日本の読者のために改稿することも厭わない張さんの真摯な姿勢に、私は深く頭の下がる思いだった。

張碩さんとは?
1957年生まれ。1980年に朝鮮日報の新春文芸で詩人としてデビューを果たした。その後40年の沈黙を経て、2020年に初詩集を刊行し、2023年に4作目となる詩集を発表した。この4冊の中から61編を選んだ日本語版オリジナル詩選集『ぬしはひとの道をゆくな』(戸田郁子訳、クオン)を2024年10月31日刊行。

ヘッダー写真:張碩さんが営む水産物会社のInstagramより
@singsings_official

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戸田郁子
30年余り韓国に在住する作家、翻訳家、編集者。仁川の旧日本租界地に100年前に建てられた日本式木造家屋を再生し「仁川官洞ギャラリー」を運営中。図書出版土香トヒャンを営み、中国朝鮮族の古い写真を整理した間島カンド写真館シリーズとして『東柱トンジュの時代』『記憶の記録』を、資料集『モダン仁川』『80年前の修学旅行』、口承されてきた韓国民謡を伽倻琴カヤグム演奏用の楽譜として整理した『ソリの道を探して』シリーズなど、文化や歴史に関わる本作りを行っている。著書に『中国朝鮮族を生きる 旧満洲の記憶』(岩波書店)、『悩ましくて愛しいハングル』(講談社+α文庫)、『ふだん着のソウル案内』(晶文社)など、翻訳書に『黒山』(金薫箸、クオン)など多数ある。朝日新聞GLOBE「ソウルの書店から」のコラムを2010年から連載中。

 


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