【ためし読み】CUON韓国文学の名作006『幼年の庭』
韓国の激動の歴史の中で読み継がれてきた作品を紹介するシリーズ「CUON韓国文学の名作」。
第6弾は、韓国におけるフェミニズム文学の源泉ともいえる作家、呉貞姫による小説集『幼年の庭』です。
収録作品8編の中から、著者自身をモデルにした表題作「幼年の庭」冒頭を公開します。ぜひご一読ください。
ワット アー ユー ドゥーイング? あなたは何をしていますか? アイム リーディング ア ブック。私は本を読んでいます。ワッツ ユア フレンド ドゥーイング? あなたの友だちは何をしていますか?
西日が兄さんの額と首筋を赤く染めながら部屋の中を横切る。
私が記憶している限り、その時間はいつもそうだった。
トタン屋根が溶けて流れそうなほど熱くなり、夕日がナイフのように鋭く部屋の奥深くまで差し込む頃になると母さんは化粧をはじめ、兄さんは窓辺に置かれた、赤い花模様の紙を貼った箱の前にじっと座って大声で英語の本を読む。私は、母さんのそばで化粧瓶を触ったり、窓の遠く向こうに見える橋や新道、そして、さらに遠くで黄金色に輝いている国民学校[日本の小学校に当たる。一九四一年から九五年までこの名称が使われた]の窓やだんだん赤く染まっていく巻雲を見つめながら、母さんと兄さんの間に密かに醸し出されていく張りつめた空気をはらはらする思いで見守った。
キャン ユー テル ミー ワット ヒー イズ ドゥーイング? 兄さんが軽く咳払いをして声を高める。
パーマをかけた髪がからまったのか、いらいらした手つきで髪をとかしていた母さんが手を止めて鏡に頭を近づける。白髪が一本抜かれた。
壁に立てかけた鏡に、背を向けて座った兄さんの頑なな姿が映っている。抜いた白髪を指の間に挟んでしばらく見つめていた母さんは日差しを避けるしぐさをしながら顔をしかめると、鏡を動かして化粧を続けた。木箱の上に置かれた汚れた布団が鏡に映り込み、兄さんの姿が消えた。乱暴にページをめくったせいで古くて湿っぽい紙が破れる鈍い音がし、緊張でこわばった兄さんの背中がびくっと動く。
母さんは背後で行われている小さな示威行動──それでも、兄さんとしては精一杯の──を気にも留めず、パフで顔におしろいをはたき、カーブをつけて細い眉を引く。私はやきもきしながら母さんと兄さんを交互に見比べ、抑えようのない好奇心と感嘆の念を胸に、鏡の中でアサガオのように白く花開いていく母さんの顔を見つめていた。
母さんが嫁いできた時に持ってきたという等身大の鏡は、この部屋で唯一の立派な物だ。目に見えて、あるいは、気づかないうちに落ちぶれていく私たちの中で鏡は、母さんが毎日磨いているせいもあるけれど、部屋の片隅で日ごとに輝きを増していた。その異質な存在感のせいで、私たちの目には実物よりもずっと大きく見えていたのかもしれない。
鏡の中いっぱいにいつも狭い部屋が映り込んでいた。
ままごとをしていても、寝ぼけまなこで起き上がった時も、けんかしていても、慌ただしくご飯を食べていても、ふと目をやると部屋の片隅に置かれた鏡に後ろ姿まですっかり映り込んでしまう。そんな鏡の中の見慣れない自分の姿にきまり悪さを感じ、私たちはすっと体の向きを変えたり、知らない人の顔みたいにじっと見つめたりした。
鏡は、傾ける角度によって私たちの姿を小さく大きく、長く短く、自由自在に変化させて映し出す。母さんが出かけると、姉さんと私はうんうん唸りながら鏡を動かし、その前で口を大きく開けて歌を歌ったり、お芝居ごっこをしたりした。雨が降って外に出られない時の定番はお芝居ごっこで、内容はいつも同じだった。
あいつはまぬけだから病人役でもやらせとけ。下の兄さんに言われるままに私が力なく横になると、彼は医者に、姉さんは天使になった。病人はか弱い声でうめき続け、注射をされ、薬を飲み、目を閉じていたかと思うと死んでしまい、天使と一緒に天に昇っていくという筋書きだ。天使役の姉さんはお祖母さんのチマをかぶって裾をなびかせながら周囲を飛び回り、私が頭をがくっと横に垂れて息を引き取ると抱き上げた。そして、怒った。
太っちょだから飛べないのね。
病人が天使の後をついて羽ばたきながら部屋の中を飛び回るシーンで幕が下りるのだと知ってはいたけれど、私はたいてい、じっと横になっていた。すると、姉さんは私の体を揺すりながら、怯えた声で大げさに言う。
ノランヌン、死んだの? 目を開けて。ほんとに死んじゃったの?
医者役の兄さんは指で目を開かせ、ふーふー息を吹きかけながら文句を言う。
おい、起きろ。もう終わったぞ。
でも、私は天使と一緒に飛ぶよりも、死んだふりをして横たわっている方がずっと楽しかった。そうやってじっとしていれば医者は何度も注射を打ち、天使は周囲を飛び回る足を止められず、芝居はいつまでも続くからだ。
母さんは花びらの形にくっきり口紅を引き、白くなった顔にもう一度、パフでおしろいをはたいた。
上の兄さんがさらに大きな声で本を読む。
ワット アー ユー ドゥーイング? アイム リーディング ア ブック。
窓の下にある庭の畑の脇を通り過ぎていた人たちが、首を伸ばして中をのぞき込む。
やけに熱心に勉強してるな。アメリカ人のしゃべり方にそっくりだ。
変声期初期のかすれてざらざらした、それでいて女性的な声で兄さんは、一生懸命舌を転がした。
兄さんは、高校入学資格試験の準備をするのだと言って日が暮れるまで窓辺に座って英語の本を読み、本を閉じて最初から暗唱したりもした。狭い部屋にはいつも、本を読む兄さんの声が響いていた。それは絶え間なく繰り返される、単調で小節の長い歌のようで、兄さんがいない時ですら、うんざりするほど聞こえてくる気がした。ワットアー ユー ドゥーイング? ワッツ ユア フレンド ドゥーイング?
中学二年で学校を中退した兄さんが読んでいたのは、避難時の荷物の中に大切に入れてあった中二の教科書だ。
町に夜間中学ができると母さんは言った。家族全員が野宿することになっても学校に行かせてやると。
それなのに兄さんは、二年以上も同じ本を読んでいる。兄さんは、表面が毛羽立ち、湿気で分厚く膨らんだ本にわら半紙でカバーをかけた。
みんなが言うように、いつか兄さんは成功するのだろう。
これで遊んでもいいわよ。
母さんは、きれいに使い切ったクリームの容器を私にくれ、唇の脇に美人ほくろを描いて立ち上がると、鏡に全身を映す。
行ってくるわね。
そう言うと、チョゴリの袖にハンカチをそっとすべり込ませてしゃなりしゃなりと出て行った。
その途端に兄さんは本を閉じ、大げさに伸びをしながら上着を脱ぎ捨てた。
広くなりはじめたばかりのがっちりした肩の上に、まだひ弱でか細い首と小さな頭がアンバランスに乗っかっていたものの、すでに青年らしいしっかりした骨格が出来上がっている。
兄さんは抑えつけようとするような、跳ね上がろうとするような身振りでもう一度腰をひねって伸びをし、手に力を込めてゆっくりと腕を内側に曲げた。
硬い筋肉が、ぶるぶると震えるように盛り上がる。兄さんは黒ずんだ脇の下を見せながらもう一度伸びをし、蒸し蒸しする部屋の戸を蹴飛ばした。
大きく開いた戸の向こうに、庭でふいごを吹いているお祖母さんが見えた。夕飯用のご飯を炊く火をおこしているのだ。なかなか火がつかないのか、片手で風を送りながらずっと、かまどの火口に顔を当ててふーっ、ふーっと息を吹き込んでいる。白い灰がかまどの上に舞い上がったが、まだ明るいので火の粉は見えない。
ノランヌン、味噌をひとさじすくってきておくれ。トウガラシもいくつか頼んだよ。
けむたい煙と流れる汗に目をしょぼしょぼさせながらお祖母さんが叫んだ。
甕を開けると、味噌の表面にかぶせたカボチャの葉にウジムシがわいていた。
私はお祖母さんがいつもしているようにカボチャの葉をめくって投げ捨て、味噌をすくって表面をならし、甕のそばに生えているカボチャの葉を摘んで味噌の表面を覆った。
毎朝、味噌甕のふたを開けるたびにカボチャの葉にウジムシがわいていた。どうしてこんなにウジムシがわくんだろうねえ。お祖母さんは舌打ちをしながらカボチャの葉を取り除き、塀の向こうに投げ捨てて新しい葉で味噌を覆う。それは、霜が下りるまで続いた。味噌をすくって戻る途中、ホウセンカやマツバボタンなどの一年草が咲いている庭の向こうの、母屋の台所とつながっている部屋にちらっと目をやった。
黒くて丸い錠前がかかったままで、静まり返っている。いつも庭を挟んで見ている部屋だが、前を通る時は目を伏せ、足音を忍ばせてそそくさと歩き、だいぶ通り過ぎてから盗み見るかのようにちらっと振り返るのが常だった。
日暮れ時の、影みたいにひっそりした静寂の中、お祖母さんは赤くほてった顔で火をおこし、裏庭の花が散った柿の木には豆柿ほどの大きさの実が鈴なりになっていた。
艶があって青黒く、硬くて辛み成分がたっぷり詰まったトウガラシをひとつかみ摘み、チマをまくってその上に載せると、畑の脇で弟を背負い、首を伸ばして道の方をうかがっていた姉さんが急にしゃがみ込むのが見えた。そのせいで舌を噛んだのか、弟は息も絶えんばかりに泣き叫んでいる。畑は道に面していたけれど一段下がっていて、桑の木の垣根で囲まれているので姿勢を低くしなくても十分隠れることはできたけれど、自転車が一台、橋の上に沈む太陽を反射させながら走ってくる頃には、姉さんは地面にうつ伏せになっていた。
自転車の後ろに空っぽの弁当箱を載せて走っていた五年生の姉さんの担任は、いつものごとく姉さんには気づかず、チリンチリンとベルを鳴らしながら畑を通り過ぎた。自転車が遠ざかると、姉さんはようやく体を起こして手の土を払い、泣いている弟のお尻をぴしゃりと叩いた。
順子の母さんが浮気をしていなくなっちゃったんだって。そのせいで、順子はご飯を作って洗濯して弟の面倒も見ないといけないから、学校に来られないのよ。先生はお酒を飲んでは子どもたちを殴り、お前たちが可哀想だ、一緒に死のうって言いながら泣くんだって。疥[白い粉を吹いたような発疹]ができてがさがさの姉さんの顔が上気したように
うっすら赤くなる。姉さんと同じ学年の順子は、担任の先生の娘だ。浮気した順子の母さんが村の美容室でパーマをかけ、五人の子どもを捨てて都会に行ってしまったことは誰もが知っている事実だった。
夜遅く、明かり窓の外から自転車の音が聞こえてくると、姉さんは寝ぼけながら小さくため息をつき、先生はまた泣いて、順子のことをむちで叩くんだわと嘆くようにつぶやいた。
チマに載せたトウガラシの強烈な辛いにおいにくしゃみが出て、ひとしきりくしゃみをすると涙がにじんだ。
足元からかすかに暗闇が立ち上りはじめていたが、橋の上にはまだ白っぽく日が差していた。今にも涙があふれそうな目に、橋を越えてくる人たちの姿がぼんやり映る。男か女か、大人か子どもかはおぼろげに区別できた。大人たちは大きな荷物を背負っていた。彼らはこの村にやってきた避難民だ。冬の間も春の間も、病気の子どもを負ぶった避難民たちが川に疲れた影を落としながら流れ込んできた。今日、どこかの家では物置小屋が片づけられることだろう。私たちも去年、彼らみたいにみすぼらしい姿でこの家にやってきた。