「動物になりたかった私へ」〜ハン・ガン著『菜食主義者』を読んで〜/前田エマ
高校一年の秋、学校へ行けなくなった。特別になにか嫌なことがあったわけではないのに、ある日ベッドから起き上がれなくなった。何時間もかけて制服を着てみるのだが、吐き気がして、またベッドに戻ってしまう日々が続いた。
学校へ行けばみんな良くしてくれたし、私はなぜかギャルたちから好かれていた。恋愛経験もないのに彼女たちの相談にのったり、バンドマンやアイドルの追っかけ話を聞いたりと、それなりにたのしい時間もあった。
中学の頃は、同級生に無視をされたり、先輩や後輩に悪口を言われたりしても、学校に行くのが嫌だと思ったことは1度もなく、3年間、皆勤賞だった。(中学時代の詳しいエピソードは『ちゃぶ台7 特集:ふれる、もれる、すくわれる』[ミシマ社]にエッセイを寄せています)
中学時代よりも、明らかに順風満帆な高校生活。それなのに、生きているのに生きていないような感じがした。やってくるのかもわからない晴々とした未来だけをちっぽけな希望にして、空っぽな時間が過ぎ去るのをひたすらに願い、それと同時に罪悪感を抱いた。
今でもよく、この時期のことを思い出す。ある日、急にプツンと糸が切れて、あの頃の自分に戻ってしまうかもしれないと思うときがある。
ニュースなどで、不登校、摂食障害、引きこもり、鬱病などの言葉を聞くたびに、それは明日の私かもしれないと、いつも思う。大変な理由があってそうなってしまう人もいるけれど、そうなることは特別なことなんかじゃなくて、小さな隙間を見つけて染み込んでくるもので、ほんの少しのきっかけで誰にでも起こり得ることだと思う。
学校へ行かず、自分の部屋のベッドの上で過ごしていたとき、いちばん嫌だったのは朝がくることだった。朝日が昇りはじめるとカーテンをきっちり閉めて、ひたすらに目を瞑って寝過ごした。一刻もはやく陽が沈むことを祈り、夕方になり窓の外が薄暗くなるとほっとした。それなのにどうしてだか昼間、私はカーテンをあけて自分の顔や身体に太陽の光が当たるようにしていた。そうしないと、ほんとうに日常から遠く離れてしまうような気がしたのだ。食べて、寝て、トイレに行って、太陽の光を浴びる。そんな日々は、私に自分が人間であることを強く感じさせるものだった。
人間であることを手放したいと思ったことはなかったけれど、”人”と”ヒト”の境界線に思いを馳せ、人間でない動物だったとしたら、こんなに切なくて悲しい気持ちは知らなかったのだろうなと、何百回と想像した。
ハン・ガン著の『菜食主義者』は、ある日肉を食べなくなった女が、だんだんと痩せ細っていく様子を、3人の視点から描いた小説だ。
ひとりめの語り手は、夫だ。平凡な主婦であったはずの妻が、ある夢をみたことをきっかけに肉を食べなくなる。そんな妻のことを、夫は理解しようと努力するわけでもなく、気が狂った別の世界の住人として認識し、手放す。
ふたりめの語り手は、女の姉の夫だ。彼はアーティストなのだが、作品のために義妹のことをいびつなかたちで求めはじめる。
3人目の語り手は、女の姉だ。肉食を拒むだけでなく、点滴や注射で取り入れる栄養までをも拒絶するようになった妹と接するなかで、彼女は自分のこれまでの人生と向き合うことになる。
この小説は、差別、芸術、家父長制、暴力、韓国の歴史など、たくさんの要素が絡まり合って紡がれている。
肉を食べなくなった女は人間であることを放棄するかのように、まるで自分が植物であるかのように振る舞うようになる。裸になり、胸に太陽の光を浴びる様子は、光合成を試みているようにもみえる。水だけを口にし、逆立ちをして木の真似をする。
わたし、もう食べなくてもいいの。
…(中略)…
お姉さん、わたしはもう動物じゃないの。
…(中略)…
死んじゃっていいの? そうじゃないよね。ただ木になりたいのなら、食べなくちゃ。生きていなくちゃ。
…(中略)…
・・・・・・なぜ、死んではいけないの?
私は肉を食べなくなった女のことを、生きることを諦めた人間として捉えることはできなかった。むしろ誰よりも、生きることに誠実に向き合っているとさえ感じた。そして3人の語り手のことも、女を通して見ることで、それぞれ別のかたちで生きることに必死なのだということが理解できるような気がした。私たちは皆、この女になり得るし、語り手にもなり得るのだろう。
おまけ
著者であるハン・ガンさん(1970年生まれ)は、この作品でアジア人として初めて、イギリスのマン・ブッカー国際賞を受賞されました。
わたしはなぜか韓国映画「オアシス」を観ているとき、ずっとこの小説のことを考えていました。どうしてなのかはわからないのですが…。「オアシス」だいすきな作品です。まだ観たことのない方は是非。
ヘッダー写真 ©長田果純
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前田エマ
1992年神奈川県生まれ。東京造形大学在学中にオーストリアウィーン芸術アカデミーに留学。モデル、写真、ペインティング、ラジオパーソナリティなど、活動は多岐にわたる。また、エッセイの連載を多数手がける。
Instagram @emma_maeda
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前田エマさんがコーディネーターを務める「わたしのために、世界を学びはじめる勉強会 ――本、映画、音楽を出発点に」が始まります。
第1回 10月29日(金)19:00-21:00
「BTSの音楽から、韓国を知りたい~なぜ、韓国の人は声をあげるのか」
ゲスト:権容奭/一橋大学大学院准教授)
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Book Information
新しい韓国の文学01『菜食主義者』
著者=ハン・ガン 訳者=きむ ふな
http://shop.chekccori.tokyo/products/detail/58