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早朝座禅の思い出と朝粥
自宅からウォーキングに程良い距離の場所に、
ある臨済宗の禅寺があります。
土曜の早朝のたびに早朝座禅の会が開かれていて
5時半に目覚ましをかけ、
眠る家族を置いてそっと一人で出掛けていた頃がありました。
禅寺に何故こんなに来たかったのか、には
いろいろな理由があって、
気持ちが些か弱っていたことも
確かにあったのだと思います。
今は感染リスクなど諸事情あり、開催されていないので残念ですが、
思い返せば、始めたのはちょうど今くらいの季節でした。
最近の物忘れの勢いは激しさを増す一方なのに、この禅寺で見聞きした思い出の一つ一つが
なぜか不思議と、色褪せることがないのです。
当時は夜更かしから早起きにスイッチしていたのも手伝い、
また、子供達の成長と共に朝の自由時間が増えたのもあって、
いざ来てみると、こんなに難なく実現するものだったのかと、少々拍子抜けするほどでした。
とはいっても、いざお寺の山門前に立つと…
本当に自分に座禅なんてできるのかと
不安が先立ち、
初めての日はなかなか、石段を上る最初の一歩が出なかったのを覚えています。
幸い、降りて来られた作務衣姿の参加者さんに
親切に声をかけてもらうことができ
あとについて階段を昇り敷居をまたぐと、
すでに何人か到着されていて
前庭を思い思いに掃除されているところでした。
実はこの掃除から、坐禅はもう始まっているのだ、とのちに知ることになります。
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街道沿いにあるお寺ながら
空気はひんやりと澄んでいて、
ひとりで参加する緊張もいつしかふわっ、と和らいでいました。
外廊下の上で裸足になり、本堂に入ったら合掌。
合掌のまま歩いて、
向かいあうようにニ列に並べられた座布団へ。
胡坐を組み、両手の指で輪を作り、
目はうっすら見えるくらい閉じて・・・など
手取り足取り教えて頂きました。
色々な思いや考えが浮かんでも、大丈夫。
そのまま自然にしていていいですよ。
一年もすると薄れてきます、との事。
何事もすぐには何もわからない、
だから焦らなくて良い、
ということなのでしょう。
それにしても情けないのは、
蓮華座ができないこと。
上にのせる足が固く、
なかなか下の足のももに乗りません。
後ろにひっくり返るよりは、と無理はやめにし、
ももよりだいぶ下のほうに上の足を引っ掛けた
不完全な形で始まった、初めての坐禅。
最初や、まんなかの休憩のときには、
足首が痛いな~、と閉口するものの、
座っているうちに不思議と感じなくなりました。
今まで周りにかけた迷惑についてなどばかりが、
頭の中にやたらと浮かんでは消えたりしつつ
次第に、ゆらゆら~っと、
ワカメや昆布にでもなって海の底で揺らいでいるような心境に。
坐禅の間は和尚さんが、
警策(きょうさく)という平たい棒を携えて
後ろをゆっくり歩いて巡られます。
初めての日は大目に見て頂いたようで、
姿勢を一度棒で直された後は、
肩をバシ~ンッッ、と叩かれることはなく、
その後は、毎回通うごとに何度か喝を頂きました。
肩先に喝が入る度に、合掌、拝礼します。
音が大きい割には痛くありませんでした。
休憩をはさみながら、そのまま50分。
終えてからは正座に直り、全員で般若心経を読んでから、(足が痺れていないのを祈りつつ)立ち上がってあたりを片づけ、お茶の用意を始めます。
その後はテーブルを囲み、和尚さんとの小さな茶話会を経て、お開きになるのでした。
和やかな茶話会で得た、何気ない教えの数々。
その一つ一つが、後ろ向きで自信のない私の中の、どこか深いところに響き、刻まれ、
今も折に触れ助けられている気がします。
例えば、親の介護について。
最近の高齢者は、お寺に来るたびぽっくり逝きたい、家族に面倒をかけたくないと仰るらしいのですが、
人は生まれてからずっと周りに面倒を見てもらって、のちに周りの面倒を見る、それを繰り返して生きるもの。
親をみることは子供の人生にとっての大切な修行になるのだから、申し訳なく思うのでなく、成長の為の良い機会と捉えてありがたく受ければ良いのだ、といわれていました。
また、忘れられない禅の言葉に、
「喫茶喫飯」というものがあります。
ただ茶を飲みご飯を食べる、と言う意味です。
せき立てられるように何かしながら食べたり飲んだりするのでなく、真っ白な気持ちで向き合うことを勧めているのですが、
そうすることで、ふだん気づかない有り難さや幸せに気づくことがあるのだ、と教えて頂きました。
それを聞いた時、
夫と私の恩人が若くして天に召された翌日のことを不意に思い出したのです。
その方がいなければ、私たちの今はなかったのに、ろくな恩返しもできず、それどころか最後に会ってお話ししたのは、仕事帰りにばったり会ったときで、
私はまだ小さかった子供の迎え時間に焦り、ろくにお話しもできないままでした。
訃報を聞いた翌朝、車で仕事に出ました。
ETCでない料金所を通ったら、おじさんがすごく元気にねぎらいの声をかけてくれて、そのありがたさと共に寂しさで胸がいっぱいに。
早めに着いた駐車場でしゃくりあげながら、
音楽も消し、携帯電話も閉じて、
車の中で持ってきたおむすびを、ゆっくりじっくり食べたのでした。
どんなに苦しい今日だったとしても、
終わった後に明日の朝がやってくるのは、
それだけで幸せなこと。
ただ悲しかった当時と少し違った角度から、
そんなふうに前を向かせてくれる
喫茶喫飯という言葉が好きになりました。
茶話会が終わる頃には
辺りはもう明るくなっていて、
自分だけ気持ちが浄化されているものだから、
週に一度、週末の朝食だけでも、
精進朝粥にしようかなぁ、なんて思ったりして。
毎回、戻っても誰も目覚めていない
我が家の台所の静謐の清々しさを、
今もよく覚えています。
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くこの粥。
おかずは
豆とラディッシュのサラダ、ふきの山椒煮、焼き油揚げ、切干大根とひじきに、かつお昆布山椒のふりかけ。
小石原の蔵人窯の豆鉢におかずを小さく盛ってみると、
食べ過ぎなくて丁度良い感じでした。
゚・*:.。..。.:*・゚゚・*:.。..。.:*・゚
こんなふうに、禅寺ではたくさんの宝物をもらいました。
坐禅に行けなくなってからも
禅の本をお守りのようにそばに置いて
何か迷うたびに手に取るように。
仏教の教えの本のはずが、
なんだかすっと心が楽になったり、安らかになったりするのです。
日々の暮らしの智恵にも似ているところが多く、
へこんだり、困ったり、悲しくなったり、
さまざまな状況に見舞われる日常の中
よすがになってくれる言葉が
さりげなく見つかるとほっとしました。
そういえば、
般若心経の中で一番多かった文字が、“無”でした。
貪り(何でもほしがり、手に入れても欲望が尽きない心)、
怒り(ちょっとした事で怒りを覚え、それをあらわにし、周りにぶつけること)、
愚かさ(道徳や常識を知らず、教養がないこと)の三毒に支配されている限り、
幸せにはなれないんだよ、という教えもありました。
学ぶこともしないで
人を羨ましがり、
お金を使いまくり
自分と違う人に腹を立てる、ように。
(耳が痛い…)
断捨離もそうだけれど、
手放せば手放すほど余裕が生まれて、
心豊かになっていくのでしょうが
わかっていても
いまだに手放し下手なまま、歳を重ねています。