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身体の声を聴く
今回は音楽とは離れた話題です。
ストレスを感じると、食欲がなくなるタイプとヤケ食いとか食べて発散するタイプなどがありますが…
わたしは正に後者タイプ。
いま、ゆるーくゆるく断食瞑想にトライしています。
今週火曜日からのスタートで金曜日までの予定。
とは言え、断食というより少食にしてみた程度です。
わたしの性分で何かやるぞ!と決めると、同時に猛烈な『やりたくない!』という思いに邪魔されるのですが、今回もご多分に漏れず『今日から断食するぞ!』となると『断食したくない』という抵抗したくなる気持ちがジワリジワリと侵食していきました。
『食べたい』に耐えきれず…
三日目の夜、昨夜のこと。
空腹に抗えずモンモンとして『えぇい!もういいや、コンビニへお菓子買いに行っちゃえ!』と謎に力強く決意していたのですが…
ふと、今週起きたことを思い起こして
『あれも感謝これも感謝』
『あの人には、心の底から本当に感謝の気持ちをちゃんと伝えたい』
『うまくいっていないと思っていたあの出来事…大切なことに気付く為には必要だった…』なんて思いが巡っていました。
すると、あんなに爆発的な何か食べたいという衝動がスゥーッと消えてしまいました。
空腹は消えていません。
でも、食べたいと思わないんです。
この『食べたい』という気持ちは、アルコールや麻薬中毒みたいなもので『感じたくないネガティブ』を紛らわす為と『長年の習慣による身体の反応』なのかなと思います。
空腹と食欲は別物
話は戻り、空腹と何か食べたいという気持ちは完全に切り離せるのだということが驚きの学びでした。
常に常に、何かしら理由を見つけて何かを食べたいという欲求があるので、どんな時も自分が空腹かどうかを自分自身が見張っているのだなぁー、と思ってはいましたが…
『空腹だから食べたい』と思うわけではなく、お腹が減っていなくても、食べたいという気持ちはいつもあるという事は……
食べるという行為により得られる感情の禁断症状により、食に走ってしまっているということ。
裏を返せば、とにかく食べて紛らわしたい思いがあるということ。
自分で自分を感じる事から逃げたい、自分を無視していたいという事なのか!と腑に落ちました。
自分の正直な本当の声
もしも本当の正直な想いを上げた時に感じるもの…
それは悲しさや怒り、寂しさ、悔しさ、自分なんて愛される価値の無い存在だという悲しさ。そんな事を感じている自分の惨めさ。
そして本当の自分の声を聴いてしまったら、自分を粗末に扱ってきたことへの後悔、恥、罪悪感、自分は自分を大切に愛することのできない人間だという自責の念。
これらを感じなくて済むように、思考でごちゃごちゃにしていたということや
自分が何をしてきたのかという事実を受け止められる覚悟がないから、思考が暴走してどんどん事実を覆い隠していたことがよくわかりました。
瞑想をすると、自分の至らなさや罪悪感などのフィルターがかかったままで、あらゆる物事を体験しているのだと鮮明になります。
真っ黒ではないんだけど、薄汚れているような感覚。なんだか常にこころは疲れているなぁ、と気付かされてしまいました。
自分は変わらないまま、世界が変わってほしい
良い調子だな〜と、幸運を感じているときはシンクロ現象や不思議な事がたくさん起こるけど、思考まみれになっているとなかなかそうはいかない。
直感や不思議なメッセージを受け取ることを遮断して、自分の内側ではなく外側へと意識が引っ張られていたことも『いまの自分を守るため』だったんです。
要するに『変わりたくない自分』が、何かに執着しているのだということでした。
こんなにも変わりたいと願っているのに変われないのは、変わろうと決めて行動を起こしていないからだ…
変われますように、と想っているだけで自分の身体を使ってできる限りのことをしていなかったからだ…
と、当たり前のことに気付きました。
この想いに付随して『そんな自分はだめだ』『周りの人が、どれだけ支えてくれてきたのかわからない愚かな自分は最低過ぎる』という自分責めが始まると、その辛さがあまりにも耐え難いものだから、自分の心としっかり向き合うことが怖い。
かと言って、何をしてもいいや〜と無責任なのも自分がつまずく理由がわからないまま、学びを得られない。何度も同じ失敗を繰り返す。そして自分は無力だ…と、どんどん自信をなくしていく。
しかも、一生懸命取り組んだのに期待通りにいかないと
『やっぱり自分はだめなんだ…』『何かにトライして傷つくよりも、トライせずに傷を増やさないことのほうがよっぽどマシ』
という自分がいるのも、まざまざと思い知らされました。
自分と向き合うことを拒み、変わろうとしないままで、いつのまにか変わっていた!というような望みがあったこと。
言い換えれば、自分は変わらぬまま世界が変わってほしいと思っていた自分にも気がつけました。
自分を無視していたことの代償
これまで、親や自分自身から粗末な扱いを受けてきた自分の身体…
身体の部位一つ一つの声を聞くという瞑想をしてみると、胃や目、頭部からは『もう疲れた』という声が。
一番気がかりだったのは太もも。何かに覆われて苦しそうな感じがしていました。でも言葉にならず異様なまでの重く冷たいエネルギーを放っていました。
我ながら不気味なものを感じて、なんだろうなー、嫌だなー…気持ち悪いなー…と、さながら稲川淳二めいた思いで困惑していました。
三日目でついに聴こえたのは
太ももへ意識を向けて瞑想中『寒い…痛い…もうぶたないで、もう嫌わないで…』と聴こえてきました。
なんだこれは?と思うのと同時に思い巡った記憶…
昔から寒がりだったのに、その事を親や周囲に言うことすら知らず、ただただ寒さを我慢していたこと。いつも、自分の存在は邪魔で無様で、何でも我慢しなくちゃならなくて。
特に太ももがいつも凍るように冷たくて、そんな自分の体はおかしい。こんな身体嫌い。いらない。と思ってきたこと。
自分の太ももが目に入ると嫌な気持ちでいっぱいになってしまうこと
上半身に比べて異様に下半身が太くむくんでいて、特に太ももが大嫌いな部位であること。
母もいろいろと悩みなどがあり余裕がなかったのでしょう、何度言っても治らないことがあると、しつけ的な意味合いで感情的に太ももや臀部を叩かれる事がありました。
それと同じように、わたしも自分が思い通りにならないことや、強烈に悔しさや憤りを感じると自分の太ももをつねったり叩いたりしていたこと。
自分がされて辛かったことを、自分が自分にしていたのだと気づくと涙が溢れてきて、心から謝りたくなって想いを伝えました。
自分が自分に謝るという敬意を持てたし、わかってくれたという安心感を太ももから感じると
『いいよ、いいよ、辛かったね…いつもずっと一緒にいるよ』と聴こえてくるような感覚がありました。
どんな時もいっしょにいてくれた身体。
一日も休むことなく生きてきてくれた身体。
わたしが、これまで嫌ってきた太った自分の身体。
愛するどころか、醜さを憎むことばかりしてきました。いくら、それは良くないことなのだとわかっていても。
こんな自分をいつも守って愛してきてくれた身体の声は間違いなく自分の声でした。
でも、祖母や父や…自分の身体に流れている祖先という存在も感じました。
その感覚に浸ると、優しくて涙が出て。安心できました。
深夜までそんな思いや瞑想、気づきを得てひとしきり泣いたら、また更にお腹が空いて空いて…。
でも不思議と何か食べたいとは思いませんでした。空腹を感じている自分という存在が有り難くて可愛らしくて、そのまま感じていたかった。
すると、お腹がグゥーっと鳴り『上手に消化できたよー!』と言っているように聴こえて『ありがとうね〜』と会話もできました。
ダイエット目的ではなく
自分の身体の声を聴くために、食べ物をドサドサ流し込まないで、静かに見つめ合う、感じ合う、自分自身と一致するという感覚でとても穏やかな幸福感を味わうことができました。
予定では、明日から通常食に戻しますが、それも身体によく聴いてから、身体の希望に相応しい食事を摂りたいと思います。
身体と相談してみます、なんて言葉は良く聞いたことあったけど、深いトラウマがあり自分を感じると傷が疼いて、あまりに痛みがある人はそれが容易にできない。
でも、痛みを避けるために傷を放置したくない!と、自分を愛する覚悟と決断ができると、痛みは過去のものであり、その痛みは癒やされていくことが可能になる。
現在感じている痛みは過去の痛みを封じる為の幻想であった、と真実が開かれていきます。
いつも心や記憶へのアプローチで自分と向き合うということはしてきましたが、身体の声を聴くというアプローチからインナーチャイルドに繋がったり、目を背けてきたことに気づけるとは…断食による思わぬ収穫でした。
大切なことは
自分の声に正直であること。いつも答えが自分の内側にあり続けるということ。
あらゆる情報などで自分の内側が散らかっていくけど、外側へ必要なものを探しに行く必要などない。
要らないものを捨てて、大切なものを大切にする。
こんなにシンプルなことに立ち返ることができました。
瞑想と断食。ストイックに取り組まなくとも、自分を知るという体験が十分にできました。
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