私はつくる、それだけ
何者でもない私の書いたものに反応があり、何者でもない私が撮った写真が誰かの記事を飾る。時々、不思議な気分になる。私が私として存在することを許されている、それだけではなく、ただパソコンのキーボードを打ち、ただカメラのシャッターを切るだけの私の指先が、あたかも小さな魔法を使っているかのような、そんな錯覚さえ抱く。
何者でもない私も、誰かの何かになれるのではないかと、あわい期待が過る。そうなれずとも平気だが、そうであるのならもちろん、嬉しい。
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文章を書く手が止まる。自らの醜悪さをさらすだけのこんなものに意味などないのではないかとの思いが迫り上がり、私は書くことを躊躇する。途中であきらめた言葉が埃のように積もる。昨日の私が埋もれていく。
書くことは生きることで、私は私を救済するために文章を書いてきて、それらを好きだと言われるたびに少しずつ恐ろしくなった。私は私が薄汚い生き物であることを承知している。そうだというのに好きだと言われて、好きだと言ってくれる人を嫌えるはずもなく、ただただ、いつか訪れる失望に、私は息をひそめるしかなかった。きれいな私を演出して、厚化粧して取り繕って、さも陶器の肌であるかのように装うのだ。笑みが引き攣れば引き攣るほど、やがて罅割れるだけにもかかわらず。
ゆっくりと埃を払うたび、泣きたくなる。
私の文章を好きだと言ってくれるあなたに、こんなにもいびつで化け物でしかない私は何かを、言葉で、手渡せるのだろうか。
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何かを創造するとき、とりわけ文章を書いているときの私は、寄せては返すさざなみの中にいる。自分のつくるものを小さな魔法のように感じるときもあれば、何でもないどころか産むべきではなかった奇怪な何かのように思うこともある。だけど本当は、たぶん、どちらでもあってどちらでもない。