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どうしたらいいのかわからない、の正体
本当の自分はどうしたいのか、本当はわかっている
例えば、ブログを書きたいけど
本当の自分を曝け出してしまったら
人から引かれてしまうのが怖い。
だからできない。
という、つい
数週間前のわたしの悩み。
「人から変な人って思われるのが嫌だ。」
「わたしの考えていることは小難しいから引かれる。気持ち悪がられる。嫌われる。」
「でも体裁整えた、いい子なブログはやりたくない。苦しくなる。」
「でも本当の自分を出すと、みっともない。恥ずかしい。キモイと思われる。」
「あなたのブログ読むと、考え過ぎで心配になる。元気ないの?大丈夫?と言われたことがあるから、出すのが怖い。迷惑かけたくない。」
「本当は自由に文章を書きたい。でも怖い。」
と、まぁ出るわ出るわ。
この場合って
「本当は自由に自己表現をしたい」
って、いきなり答えが出ているのに
「恐れ」によってその答えを
「アカンー!」って抑え込んでるんだよね。
欲求の度合いが大きければ大きいほど
封じ込めようすれば
強い力が必要になる。
自分のエネルギーが出たがっているのを
必死に抑えつけようとするエネルギーを使う。
自転車のペダル漕ぎまくってるのに
ブレーキかけまくってる。
これが自分のエネルギーを
無駄に消耗させている
「モヤモヤ」とか「イライラ」の正体。
「どうしたらいいかわからない」ではなくて
「本当は○○をやりたいけど、やったら怖いことが起こりそう」という恐れと
「本当は○○をやりたくないけど、やらなかったら怖いことが起こりそう」という恐れ
これって結局のところ
「本当はどうしたらいいかわかってる」
でも、恐れが発するこんな思考
「そんなことしたら、おかしいよ。周りの人に迷惑かけるよ。嫌われるよ。」
「それ、やらなかったらお金がなくなって、大変なことになるよ。」
などと、もっともらしい事を掲げて
自分の弱みに漬け込んで迫ってくる。
消しゴム味のかまぼこと
かまぼこ味の消しゴム
どちらかを選ばなきゃいけない!
と、迫られて
一応、選んでみたけど…
でも、嫌だ!!
本当はどっちも食べたくない!!!
でも食べなきゃいけないのか…
嫌だ…………
みたいな。
いや、そもそも
なんでそんなもん選ばなきゃいけないんだよ。
選択肢がおかしいだろ、って話で。
そのどちらか選ばないと
いけない状況ってなんなの?
しかも、そんなもの
食べたいなんて望んだ覚えもない。
それなのに
「どちらか選ばなくてはならない」
なんて迫られると
最悪条件においての最善を選択しようとする。
最悪には変わりないのに。
「どちらも要りません」
どうしてその選択を生み出せないのか。
我々は冷静さを欠いている
人間って、焦っていたり
恐れの状態にあっては、
冷静に物事を考える能力が
めちゃくちゃ下がる。
だから、そんなおかしな
選択肢に疑問を抱かず
「どちらか選ばねばならない…」
なんて真剣に思い詰めちゃったりして。
嫌なことをやらないと
起きてしまいそうな不都合な出来事って
何なの?
やりたいのに、やったら
起こりそうな怖い出来事って
何なの?
そんな風に問い続けていくと
もう見えてくるんですよね。
自分が恐れていることは何なのか。
痛みを感じているものは何なのか。
欲しがっているものは何なのか。
自分が自分を扱うようにしか、世界から扱ってもらえない
先日、モヤモヤしていたんです。
わたし、自分の事
軽んじられてるなぁとか
粗末に扱われてるなぁって
感じることがあって。
でも、それって結局は
自分が、自分の事を軽んじてた。
粗末に扱ってた。
本当の自分の気持ちに蓋をして。
蓋をしていることにも気づかず。
誰かに蓋をしろと命じられた訳でもないのに。
究極まで突き詰めれば
誰も自分のことを
傷つけることなんてできない。
自分が起きた出来事を
どう捉えるか。
何を選び、受け取るか。
どんなに他者が
わたしを傷つけようとしたって
わたしが、相手の言葉に
悪意や攻撃があることを認識しても
それを受け取るという許可をしない限り
傷つくことができない。
傷つきようがない。
無視ではなく、領域の区分ができるということ
極論、人から何を言われても
自分が自分のことを
本当ーーに大切にしていたら
傷つくことなんかできない。
だって、受け取りたくないものは
受け取らなくなるから。
大切な自分のために。
「やーい低能!」って
罵られたとしても
自分にとっては「低能」という
言葉の意味が相応しくなく、
受け取るには相当しないのだと
認識した場合
傷つくことができない。
相手の言う事を受け入れて、
相手が自分の痛みに触れることを
許可をしている自分がいるから
痛みに触れさせてあげている、とすら言える。
自分を傷つけることを
許可しないマインドで
暴言を吐かれたとしたら
「えっ?何言ってるんだろう?」
「どうしたのかな?そんなこと言っちゃって」
「わたしに、八つ当たりしたいのかな」
「気分悪そうだな、大丈夫かな…」
なんて思っちゃったりするだろうし。
それに
本当の自分の気持ちを
しっかり大切にしているなら
相手が怒っていたりしても
それは相手の問題だ、と
境界線もしっかりと引けているはず。
その相手の自由も
尊重してあげたいとすら思ったりして。
自分と同じように。
自分が自分のことを、どのように扱うか。
自分の接する人が
わたしの鏡となって
現してくれている。
だから、例え
「お前、無理。嫌い。」って
言われたとしても
わたしは
「お前、無理。嫌い。」
と、言われたらどんな反応をするのか
見せてくれている、とも言える。
感情を抜き去った事実としては
この相手は、わたしに
「お前、無理。嫌い」って
思っているんだ…。
わたしは消えたくないなぁ。
なんて捉えることも
できるようにはなるよね。
この相手は
「オマエ、ムリ。キライ。」という言葉を言った。
そういう音を奏でた。
それだけのこと。とか。
こういう発想って
若干サイコパス風味が
漂うかもしれないけど
でも「使いたい感性」以外のところを
バッサリ切り捨てて
事実だけを読み取るみたいな
冷静さって
要らぬ消耗せずに生きられると思う。
使いたいところに
すべてを賭けることができたら。
自分の内側には必ず答えがある
いくら言葉の意味を
取捨選択する、とは言え
相手から放つエネルギーが
言葉にこもっているから
エネルギーをそのまま
受け取ればダメージを食らってしまうけど。
それも、ひとつひとつ感じて
要る要らない、をしたい。
だって、もし仮に相手が
悪意を込めて放ったものを
受け取ったのだとしても
純度100%の悪意ではないだろうし
そして、それより更に
自分は何を発するのか、だ。
最重要なことは。
なんて言いつつも
「あぁん?!なんだその言い方は!!」
「やんのかこら!」
って思いっきり怒っちゃうのも
悪くはないと思うんですけどね。
人間らしくて。
でも、それをやりたいかというと
わたしはやりたくない。
消耗したくない。
観自在、でいたい。
囚われたくはない。
そんなわけで
何にも出来事に変化はないのに
モヤモヤが晴れたことで
心がスッキリしたという
わたしなりの内観のお話でした。