掌編小説|『湯本さんの番台』
作:元樹伸
年の暮れに大事な用事ができたので、久しぶりに地元まで戻ってきた。
懐かしい田舎の駅に降り立ち、目的の場所まで歩きながら街並みを眺めていると、遠くに長い煙突が見えた。あれは昔ながら銭湯、湯本の湯。当時、賃貸で家にお風呂がなかった少年期の僕は、いつもこの銭湯に足しげく通っていた。
今から十五年前の夏。
時代はまだ昭和で、僕はちっぽけで負けん気の強い小学五年生だった。
その日は学校で水泳があり、授業の前半は女子がプールを使って、途中から男子と入れ替わる予定になっていた。
女子がプールから出て水着のまま教室に去った後、痺れを切らせた男子たちは競って水の中へと飛び込んだ。それから楽しい時間は瞬く間に過ぎて、やがて終業を知らせるチャイムが鳴った。しかし男子はまだ遊び足りなくて、なかなか水の中から出ようとしなかった。
そんな中、僕は教室に一番乗りしたくて先陣を切ってプールから上がると、誰よりも早く校舎に向かって駆け出していた。ところがこのときは目先の目標に気をとられていて、その先にあるトラップを見落としていた。
「きゃあ!」
教室のドアを開け放った途端、着替えの終わっていない女子たちが驚いて悲鳴を上げた。その中でも目が合った湯本美樹は、僕が密かに想いを寄せている学級委員長の女の子だった。
「あの、これはわざとじゃなくて……」
言い訳しようとしたけど、クラスで一番背が高い彼女の前では蛇に睨まれた蛙のようになってしまい、それ以上の言葉が出てこなかった。
「いいから早く出ていってください!」
湯本さんが言い放ったら他の女子も騒ぎ出し、僕は彼女たちの罵声を浴びながら教室を追い出された。
放課後になって職員室に呼び出され、たっぷりと先生に絞られた。
その上、湯本さんにも嫌われたかと思うと絶望感で世界が白黒に見えていた。だから僕はズタズタになった心を少しでも癒すために、いつもお世話になっている湯本の湯で一番風呂を浴びることにした。
「あら、今日も一番乗りだね」
タオルと石鹸を抱えて男湯の暖簾をくぐり抜けたところで、番台のおばちゃんに声をかけられた。「まあね」と明るく答えてから入浴料を渡し、服を脱いで洗い場に向かった。それから身体を洗って熱めの湯船に浸かりながら、真っ赤な茹でダコになるまで一番風呂を堪能した。
「あぁさっぱりした!」
誰もいない時間に歌を唄いながら長湯をしたので、これで身も心もきれいになった気がした。しかし直後に事件は起こった。腰にバスタオルを巻いてフルーツ牛乳を手に取り番台へ向かうと、そこにいたのはおばちゃんではなく湯本さんだったのである。
「な、何で委員長がここに?」
僕は驚いて彼女に問いかけた。湯本さんがここの一人娘なのは知っていたけど、まさか番台に出てくるなんて夢にも思っていなかったのだ。
「フルーツ牛乳代、百二十円です」
彼女はまだ怒っているのか、その質問に答えることなく牛乳代を要求した。だけどこの機会を逃したらおしまいだと思って、僕はお金を出す代わりに番台に向かって大きく頭を下げた。
「今日はごめん! 信じてもらえないかもしれないけど、教室に一番乗りしたかっただけで着替えを覗くつもりはなかったんだ!」
他のお客さんたちが振り返り、注目された湯本さんが慌て出した。
「ちょ、ちょっと。こんなところで急に謝らないでよ」
「ご、ごめん」
今度は小さな声で謝ると、彼女はため息をついてから口を開いた。
「覗く気がなかったのは信じるよ。だってお母さんが言ってたもん。あなたは一番風呂を逃す度にいつも悔しがってるって。要は何でも一番じゃないと気が済まない……つまり猪突猛進な性格なんでしょ?」
「チョトツ、モウシン?」
「イノシシみたいに向こう見ずで、何も考えずに突き進む人のことだよ」
湯本さんは言葉を知らない僕に呆れる様子もなく、丁寧に教えてくれた。それに彼女の指摘は的確で正しいと思った。
「君の言う通りだ。僕はなんてバカだったんだろう」
「バカだなんて思ってないけど。ただ悪気がなかったとしても、明日になったらちゃんとみんなに謝ってよね」
「わかった、約束するよ」
「良かった。ならそのときは私も学級委員長としてあなたを援護するわ」
「湯本さん、ありがとう」
「別にいいよ。それにあなたはウチのお得意さんみたいだし」
湯本さんの笑顔で安心したら喉が渇いていたことを思い出した。僕は彼女に代金を手渡し、その場でキンキンに冷えたフルーツ牛乳を飲み干した。
「ふ~ん、男の人って本当にそうやって飲むんだね」
「何が?」
「お風呂上がりの一杯。腰に手を当てて一気飲みするんでしょ?」
「ま、まあね」
「それと右のお尻には可愛いホクロがあるみたい」
「えっ?」
たしかに僕のお尻にはほくろがある。だけどそれは自分の家族しか知らない事実で、他の人には教えたことがない筈だった。
「あれ、違った?」
「っていうか、何でそんなこと知ってるんだ?」
「さてどうしてでしょう?」と湯本さんが不敵に笑って僕はハッとした。
「まさかそこから僕の裸を覗いていたの?」
「失礼ね、たまたま見えちゃっただけ。でもこれでおあいこでしょ?」
湯本さんはこちらを見下ろしたまま得意げに言うと、牛乳代の百二十円をレジの小銭入れに戻した。
今思えば、当時から彼女は僕よりも負けん気の強い人で、同時に自分の良き理解者だった気がする。
「銭湯で君が僕に仕返ししたときのこと、今でも覚えてる?」
煙が立ちのぼる高い煙突を見上げながら、僕は美樹に話しかけた。
「そりゃあ食べちゃいたいくらい可愛いお尻だったからね」
「君は偶然に見えたって言ってたけど、本当のところはどうだったの?」
「そんな昔のことなんか忘れちゃったよ」と彼女は誤魔化して笑った。
「もうあれから十五年か。長いようであっという間だったな」
あの夏以来、僕はいつだって彼女の一番でありたいと思い続け、ついに今日という大きな節目を迎えていた。
「お父さんとお母さん、喜んでたね」
美樹が自分のおなかをさすりながら言った。
「家族が増えたら、またみんなで来ような」
「うん」
彼女は頷いて、以前より背が伸びた僕を見上げながら微笑んだ。
おわり
最後まで読んで頂きまして、ありがとうございました。