順撮り神話 『ペパーミント・キャンディー』をめぐって
『世界は時間でできている』(平井靖史)を読んでいて「おや、これは……」と『ペパーミント・キャンディー』(1999 イ・チャンドン)が思い出されました。
今回は『世界は時間でできている』を参照しつつ『ペパーミント・キャンディー』と「順撮り」という撮影手段について考察してみようと思います。
順撮り
「順撮り」で検索をかけると、例えば次のような語義を見つけることができます。
[補説]にある「俳優が役作りをするのに有効だとしてこの手法をとることがある」というところがポイントで、「経費節約や出演者の都合」がつくなら、できる限り「順撮り」になるように予定を組むことが業界の常識になっています。
この説明にはありませんが、役作りの面だけではなく、劇中の様々なつながりの面でも、「順撮り」であれば、たとえ後続のシーンに影響を与える急な変更(例えばセットデザインや衣装、メイクの変更)があっても対応することができます。
Reverse Chronology
『ペパーミント・キャンディー』は、40代のヨンホ(ソル・ギョング)が自殺を試みるシーンから始まり、20年の時間を遡りながら主人公の来し方が描かれていきます。
このような時間を逆行する語り口はReverse Chronologyといわれ、例えば、『メメント』(2000 クリストファー・ノーラン)、『アレックス』(2002 ギャスパー・ノエ)あたりが有名で、古くは(シークエンス単位の逆行ではなく、ほぼ完全な逆再生ですが)『Happy End』(1967 オルドリッチ・リプスキー)、最近であれば『ちょっと思い出しただけ』(2022 松居大悟)など枚挙にいとまがありません。
ここで先程の「順撮り」の定義を若干修正しなければいけないでしょう。というのも、Reverse Chronologyの映画では「シナリオの冒頭から順を追って撮影を進める」と、逆に「俳優が役作りをする」のが大変になってしまうからです。
このように修正すれば、Reverse Chronologyの映画であっても「順撮り」が俳優の役作りに資するものとなり問題ありません。
おそらく『メメント』や『アレックス』などの作品も、基本的には「(時系列)順撮り」で撮影され、編集で時系列を逆転させたのだと思われます。
しかし『ペパーミント・キャンディー』では事情が異なります。
イ・チャンドンの「順撮り」
イ・チャンドンは、
「(シナリオの)順撮り」を採用したので、「ヨンホを演じたソル・ギョングは、本当に大変だった」
「(時系列)順撮り」で、「20才の青年から始まっていれば、心情を理解しやすかったでしょうから」
と答えています。
そして「(時系列)順撮り」でなかった理由を、「経費節約や出演者の都合」などではなく、「主人公が遡る時間の中で自我を見つけていくものだ」からと述べています。
この「(シナリオの)順撮り」=「(時系列)逆撮り」こそが、『ペパーミント・キャンディー』を、他のReverse Chronology作品の追随を許さない唯一無二の傑作にしているのではないでしょうか。
しかし、監督の「主人公が遡る時間の中で自我を見つけていくものだ」からという発言は、もっともらしくはあっても、いまいちピンときません。
そこで『世界は時間でできている』を参照し、「(時系列)逆撮り」がどのように肯定的に機能するのかを明らかにしていきたいと思います。
時間接地問題
『世界は時間でできている』では、まず時間を、計測の時間と、体験の時間に、切り分けることからはじめています。
計測の時間とは、空間化され客観的に計測できるが、流れない時間(例えば過去/現在/未来という時制には順序関係はあるが、順序があるからと言ってそこで何かが流れることは帰結しない)。
体験の時間とは、身体というローカルな場に係留されて、そこから持ち出せないが、流れる時間(期間末端の関係ではなく、その間隔で起きる、まさに進行中の「つつある」時間=未完了相、点ではなく幅)。
つまり、現実に「接地」できるのは体験の時間です。
観客接地問題
いささか強引かもしれませんが、この計測の時間と体験の時間を、『メメント』で描かれる時間と『ペパーミント・キャンディー』で描かれる時間にパラフレーズしてみます。
物語世界への接地を欠く計測の時間の『メメント』と、
物語世界に深く接地する体験の時間の『ペパーミント・キャンディー』。
注意しなければならないのは、これらに(個人的な好悪はあっても)優劣はないということです。とはいえ、画然たる相違です。と同時に、相補的でもあります。
それに『メメント』であっても、いくらか体験の時間が流れているでしょうし、『ペパーミント・キャンディー』でも計測の時間は描かれています。
wikipediaの『メメント』のページにもありますが、例えば「memento timeline」で画像検索すると山のように時間軸を図解したダイアグラムが表示されます。
このように計測され、解説される時間軸の知的なパズルを、私たち観客は安楽椅子探偵よろしく、客席で解く(物語世界ではなく客席に接地する)というわけです。
私たちは、主人公、レナード(ガイ・ピアーズ)のキャラクターアークを、計測された時間軸から再構成することになります。
一方『ペパーミント・キャンディー』で、私たち観客は、客席ではなく、主人公ヨンホの身体に接地します。ヨンホのキャラクターアーク(始点と終点を持つ曲線)ではなく、ヨンホその人の流れに接地するのです。
『メメント』が物語世界への接地を欠く客観的傾向の映画なのは、とりあえず納得してもらえたとして、同じReverse Chronologyである『ペパーミント・キャンディー』は、なぜ物語世界に接地できるのでしょうか。
その秘密が「(時系列)逆撮り」にある、というのが私の仮説です。
「順撮り」という神話
ソル・ギョングに「(時系列)逆撮り」での演技を強いたイ・チャンドンでさえ「順撮り」であれば心情を理解しやすかったろうと発言するくらい「順撮り」が役作りに有効であることを、誰もが信じて疑いません。しかし、果たして本当にそうなのでしょうか。
「順撮り」ということは、
シーンを演じるときには、すでにそこまでのシーンを演じてきている。
役としても、役者としても、かつてどのように振る舞い、どのように感じたかをすでに経験している──役を生きてきている。
それが今、このシーンの役作りに利用できる。
要するに、過去と現在を因果関係で結ぶというわけです。
このような前後即因果の役作りに親和的なのが、「俳優の中に内的、心理的な行為の因果性を再構成しようとする」メソッド演技でしょう。
役の人生を追体験しようとするのですから「順撮り」が有効なのはいうまでもありません。
ここからしばらくメソッド演技に対する批判を経由し「逆撮り」を考察する足がかりにしていきましょう。
前後即因果の誤謬
「因果に陥っている動き/内部から外部へと向かう(強制的な)運動」は、「説明/自然らしさ」にしか寄与しない。
前のシーンからの自然な流れだと思ったものは、ただ「説明/自然らしさ」にすぎず、自然な流れそのものを欠いている、というわけです。
このように、役の前後を、役者の因果(トップダウン)で再構成するメソッド演技は、個人的な感情で役を染め上げ、自分の内面を投影するだけだとしばしば批判されます。
ジョン・カサヴェテスに至っては「メソッドは、演技というより心理療法の一種だ」と痛烈です。
抵抗に出会う体験
メソッド演技には抵抗がないのです。抵抗とはつまり、私たち観客がそこに接地して流れを体験する役者の身体です。
濱口監督が「恥」というこの抵抗は、カサヴェテス&バート・レーンがいう「仮面」にあたるでしょう。
人は社会的存在であるというのが、カサヴェテスの基本的な信念でした。他人と接するときには人格の仮面をつけ、自分でも気づかずそれを使い分けているはずなのです。にもかかわらず、その「仮面」を捨てろと要求するのがメソッドなのだと批判しています。
「恥/仮面」を捨てるメソッドは、演者と役柄を関係のないものにしてしまいます。自分の感情を解放したのに、なぜ自分が自分のままでいられないのでしょう。
解放され自由になった感情は、反対に没個性化する(「何かこの世のどこにもないこと、絵空事」に見える)という逆説があるからです。
上の動画に、『ファーザー』(フロリアン・ゼレール)のアンソニー・ホプキンスが「役に入り込んでしまった時がある」というエピソードがあります。メソッド俳優であれば「役に入った」という理想の状態にもかかわらず、アンソニー・ホプキンスは撮影を止め、別室でその感情を吐き出してから「サラッときれいになって」再び撮影に戻ってきたのです。おそらく紋切り型の感情芝居になってしまうのを避けたかったからでしょう。「恥」や「仮面」を捨てて泣き叫ぶ演技は、誰がやっても似たような泣き叫ぶ演技(「何かこの世のどこにもないこと、絵空事」)にしかなりません。
「恥」や「仮面」を捨てて創造的な演技はありえないということです。
自然らしさ/客観性/普遍性信仰
長くなってしまったので、いちどここまでを整理してみたいと思います。
『メメント』は計測の時間、『ペパーミント・キャンディー』は体験の時間と区別し、後者が物語世界に接地できるのは「逆撮り」だからだという仮説をたてました。
そして「順撮り」というのが本当に役作りに有効なのか検討していくなかで、メソッド演技が「順撮り」と親和性が高いことがわかりました。つまり、メソッド演技に限っていえば「順撮り」は大いに有効です。
もちろん、メソッド演技だけが演技ではありません。にもかかわらず「順撮り」は役作りに有効だと誰もが疑いもなく信じるのは、(演者と役を切り離し、結果、没個性化することと引き換えに得られる)メソッド演技の自然らしさ/客観性/普遍性がゆえなのです。
恥を捨てた演技がもたらす「何かこの世のどこにもないこと、絵空事」は、ローカルな身体からの遊離のおかげで、グローバルな自然らしさ/客観性/普遍性を持ちえます。
俳優の間では賛否あるメソッド演技であっても、観客や批評家からは高い評価を受けやすい傾向があります。これもまたメソッド演技の自然らしさ/客観性/普遍性で説明できるでしょう。
どうやら「順撮り」神話は、私たちの自然らしさ/客観性/普遍性信仰に支えられているといっても、あながち見当外れではないようです。
その一方で「恥/仮面」などの抵抗をしりぞけない映画があります。
メソッド演技とは「反対向きの、外部から内部へと向かう運動」。それが可能にする「自然らしさ」ではない「自然そのもの」。
ここで留意しておきたいのは、ブレッソンであれ、濱口竜介であれ、カサヴェテスであれ、彼らの映画もおそらくほとんどが「順撮り」されているということです。
とはいえ、それが役作りに有効かといえば、無効とまではいわないまでも、メソッドにおけるそれとは比較にならないでしょう。
むしろ彼らのスタイル(例えば即興)が要求する現場でのシナリオ上の変更に柔軟に対処するための「順撮り」。そう考えるのが妥当ではないでしょうか。
さてここからは、メソッド演技と反対向きの映画が、たとえ「順撮り」されていても、その方法論が「逆撮り」のそれと通底することを明らかにしていきたいと思います。
まずは、彼らがどのようにして「自然らしさ」ではない「自然そのもの」に到達するか、について見ていきます。
型があるから型破り、型が無ければ形無し
ルノワール=濱口監督のイタリア式本読みとブレッソンの自動現象が、同じものを狙っているのがわかると思います。
しかしながら、どちらもそこに至る以前の「感情を入れない棒読み」であったり「機械的な手段」だけがフォーカスされがちです。なぜなら、どちらも「自然らしさ」ではない「自然そのもの」を得るために、むしろその対極にあると思われる「自動人形」になることを要求しているからです。
これは、十八代目中村勘三郎の座右の銘「型があるから型破り、型が無ければ形無し」を引けばわかりやすいかもしれません。型破りという自由なものは、型という不自由なものからしか生まれないものであるし、それも「思わず」「予期していなかった」ものとしてしか出来しようがないというわけです。
またブレッソンは次のようにも述べています。
「人物に与えられる一種の近親性」を「型」、「差異の炸裂」を「型破り」とすれば、よりわかりやすいのではないでしょうか。
これは個性的であろうとして逆に没個性的な演技になってしまうと批判されるメソッド演技と対照的です。
さらに、もう一つ補助線を引きましょう。
「動きの副産物に自然な進路を取らせること」が「ノる」ということは、「興に即する」という本来の意味での即興演技と軌を一にしています。
「水が流れゆくための水路」こそが「型」であり、「自動人形」です。水路(サブテキストによる〈問題ー応答〉連関)は「本当に言いたいこと」の周りを旋回しています。その水路を「思わず」「予期せず」溢れた水に自然な進路を取らせ、その流れをキャッチして新たな水路を作ること。
ここまでくどくどと引用を付してきたのは、この溢れる水の流れと、体験の時間の流れが、ぴったり重なることを示して一連の対立を表にしてまとめるためでした。
流れない計測の時間──メソッド演技──順撮り──『メメント』
流れる体験の時間──即興演技──逆撮り──『ペパーミント・キャンディー』
逆撮り再構成──ポストディクション
そもそも『世界は時間でできている』を読みながら、なぜ『ペパーミント・キャンディー』が想起されたかといえば、ポストディクション(「後付け再構成」)という現象と共に説明される箇所が、そのまま「逆撮り」のことじゃないか、と思ったからです。
この「後からくる経験」が、「逆撮り」でいうところの、撮影時現在、すでに撮影された未来にあたるシーンになります。
「逆撮り」のため、メソッド演技のような前後即因果での役作りは望めず、撮影時現在、すでに未来の経験を持っていて、しかも過去の経験をいまだ持たない状況でなされる演技に、未来の経験が影響しないわけがなく、それらは相互浸透し、一緒に組織化されるだろうということです。
既出の表に次の項を付け加えることができるでしょう。
計測の時間──各瞬間が前から順番に確定していく
体験の時間──先立つものによって後続するものが決まるだけでなく、後からくるものによって先立つものが決定される
実際には違うらしいのですが、巷間ガンジーのものと伝えられる次の言葉もまた相互浸透という持続のあり方を示しているように思われます。
メソッド演技=順撮りは、いわば「明日死ぬかのように生きなさい」だけですから、「積み残しの課題」は一切残さない即効性の演技が要求されます。「恥」は捨て去らなければなりません。
しかし「逆撮り」の場合、その演技は、すでに撮影済みのシーンに持ち越さなければならないものを含まざるをえません──「未来における無限の他者の眼差し」を向けられるかのように。
これらの引用は、そのまま『ペパーミント・キャンディー』の批評として読むことができるのではないでしょうか。
例えば、過去の体験、現在の体験、未来の体験と、体験が時系列に(『メメント』であれば逆時系列に)並べられるのが計測の時間です。時系列という順序関係だけでは時間は流れないことはすでに触れました。
では、どうすれば時間は流れるのでしょうか。
ここで述べてきた相互浸透という「開始されてはいるが遂行されてはいない」、生まれつつある、時系列という順序関係が決定されつつあるという未完了相。
順序関係だけでは時間は流れませんが、順序関係が決定され「つつある」時間は、とりもなおさず「流れ」である。流れている。というわけです。
Postdictive Acting──「やりかけ」の演技
濱口監督がルノワールの「イタリア式本読み」を採用しているように、イ・チャンドンの「逆撮り」もまた演出手段として採り入れることが可能ではないでしょうか。
差し当たりポストディクティブ・アクティングと名付け、ここで密かに提唱してみたいと思います。
「逆撮り」を、Reverse Chronologyではない普通の映画にも適用できないかというシンプルなアイデアです。説明するまでもありませんが、物語世界の時系列逆に撮影を進めるだけ。通常の物語であれば、ラストシーンから順に、シーンを遡って撮影していきます。
「順撮り」があくまで努力目標であるように、ポストディクティブ・アクティングも可能な限り「逆撮り」ができればいい(大事なシークエンスだけは「逆撮り」になるよう調整するなど)。
問題は、後続のシーンに影響を与える急な変更(例えばセットデザインや衣装、メイクの変更)に対応できない点でしょうか。
もちろんこれは、ここで展開してきた仮説に基づいたものに過ぎず、実効性があるかどうか全くわかりません。そもそも「順撮り」で撮影された演技と、ポストディクティブ・アクティングのそれと比較検討すること自体が不可能ですから、その実効性はどこまでいっても不確かなままでしょう。
ただ「順撮り」の役作りにおいて、キャラクターアークというものが物語の展開に応じて(前の前よりも前、前よりもこのシーンと)累進していくのだとするなら、ややもするとその演技はオーバーアクトになりかねないのですが、ポストディクティブ・アクティングにその心配はありません。なぜなら構造上、常に「やりかけ」の演技にならざるをえないからです。
開始されてはいるが遂行されてはいない commencés, mais non pas exécutés
「自然らしさ」ではなく「自然そのもの」に向かう方法論は全て、「開始されてはいるが遂行されてはいない」流れを狙います。
メソッド演技に批判的なことで知られるマッツ・ミケルセンのアプローチは、そのままスタニスラフスキーのそれと同じです。
更にこれは、老人を演じる際の世阿弥のアプローチをも彷彿させます
どれも「開始されてはいるが遂行されてはいない」流れを狙っています。酔っ払いの演技も、年老いた演技も「開始されてはいるが遂行されてはいない」。
「酔ったように見せよう」とするのではなく「ふらふらするまい」と演じるべきというが、「ふらふらするまい」を演じるには、前提としてふらふらしていなければいけない。「ふらふらしている」が形象であるとしても、実際に酔っていない以上、「酔ったように見せよう」とふらふらしなければ「ふらふらしている」を前提にできない。しかし「酔ったように見せよう」とすることは、「ふらふらするまい」という後からくるものによって、すでに決定(制限)されてもいる……
この相互浸透する「ふらふらしている(が先か)」と「ふらふらするまい(が先か)」に、演技することで並びを決める。
「その物にまことに成り入りぬれば、似せんと思ふ心なし。さるほどに、面白き所ばかりをたしなめば、などか花なかるべき」
またこれは、次のようにもいえます。
「酔っているのに酔っていると気づかれたくない」というのは、「恥/仮面」ですから、決してそれらを捨ててはいけません。恥を捨てて「酔ったように見せよう」とする演技は「それがどれだけ熱のこもった演技であろうと、何かこの世のどこにもないこと、絵空事」にしか見えなくなるからです。
そこで「ふらふらするまい」を「ふらふらしている」なしで演じるのが、いわばルノワール=濱口監督の「イタリア式本読み」/ブレッソンの自動現象の方法論です。
「ふらふらするまい」という型を極めたとき、その水路に流し込まれる「ふらふらしている」が型を破り、副産物となって自然な進路を取る
最後に
一撮影者の私は、ベルクソン哲学は言うに及ばず、演技論についても、全くの門外漢にすぎません。長々と書き連ねてきましたが、勢いにまかせただけで、単なる思いつきの域を出ないもののようにも思えますし、私の管見のため、もしかしたらとんでもない思い違いをしているところがあるかもしれません。お気づきの方のご叱正をぜひお願いいたします。
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