『涸れた岩から湧き出る希望』
2024年10月27日 礼拝
10:1 そこで、兄弟たち。私はあなたがたにぜひ次のことを知ってもらいたいのです。私たちの先祖はみな、雲の下におり、みな海を通って行きました。10:2 そしてみな、雲と海とで、モーセにつくバプテスマを受け、
10:3 みな同じ御霊の食べ物を食べ、
10:4 みな同じ御霊の飲み物を飲みました。というのは、彼らについて来た御霊の岩から飲んだからです。その岩とはキリストです。
10:5 にもかかわらず、彼らの大部分は神のみこころにかなわず、荒野で滅ぼされました。
10:6 これらのことが起こったのは、私たちへの戒めのためです。それは、彼らがむさぼったように私たちが悪をむさぼることのないためです。
10:7 あなたがたは、彼らの中のある人たちにならって、偶像崇拝者となってはいけません。聖書には、「民が、すわっては飲み食いし、立っては踊った。」と書いてあります。
10:8 また、私たちは、彼らのある人たちが姦淫をしたのにならって姦淫をすることはないようにしましょう。彼らは姦淫のゆえに一日に二万三千人死にました。
10:9 私たちは、さらに、彼らの中のある人たちが主を試みたのにならって主を試みることはないようにしましょう。彼らは蛇に滅ぼされました。
10:10 また、彼らの中のある人たちがつぶやいたのにならってつぶやいてはいけません。彼らは滅ぼす者に滅ぼされました。
10:11 これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。
10:12 ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。
10:13 あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。
10:14 ですから、私の愛する者たちよ。偶像礼拝を避けなさい。
新改訳© 一般社団法人 新日本聖書刊行会(SNSK)
タイトル画像:David WeaverによるPixabayからの画像
はじめに
人生で『もう限界だ』と感じたことはありませんか?
私たちの人生には、まるで果てしない砂漠を歩いているような時があります。先の見えない不安、重なる試練、押しつぶされそうな重荷...。古代イスラエルの民も、エジプトを出た後の荒野で、まさにそんな経験をしました。約束の地に向かう道のりは、想像以上に過酷なものでした。
パウロは、このイスラエルの民の経験を通して、私たちに重要なメッセージを伝えています。それは単なる歴史の一場面ではありません。今を生きる私たちへの、切実な警告であり、同時に大きな励ましでもあるのです。
なぜパウロは、何千年も前の出来事を持ち出したのでしょうか?それは、彼らの経験の中に、私たち一人一人の姿が映し出されているからです。彼らの葛藤、彼らの弱さ、そして彼らを導かれた神の真実な御手...。
今日、この御言葉を通して、私たちの人生における試練と神様の守りについて、共に考えていきましょう。
試練の現実
古代イスラエルの民の荒野での経験は、聖書の中できわめて多くの記事が描かれています。単に古典という域を超えて、それは、イスラエルの歴史の一つの頂点でもあり、また、私たちにとっての人生の試練の本質を学ぶことができる教訓でもあります。
パウロが1節で「私たちの先祖」と呼ぶイスラエルの民は、神の特別な導きを受けた民でした。彼らは神の臨在を示す雲の下にあり、紅海を渡るという奇跡を体験し、モーセという優れた指導者が与えられました。さらには、天からのマナと岩からの水という超自然的な奇跡によって彼らは荒野での生存が許されました。
ところで、パウロが語る「彼らについて来た御霊の岩」という表現には、興味深い背景があります。ユダヤの伝承によれば、モーセが打った岩の一部が、イスラエルの民の旅の間ずっと彼らに従って来たとされています。パウロはこの伝承を用いて、神の変わらぬ臨在を説明しようとしました。
この伝承はユダヤ教の口伝律法(ミシュナ)と解釈(ミドラシュ)に見られます。特に、タルムードの「タアニート」9aには以下のような記述があります。
「井戸はミリアムの功績によってイスラエルの子らに与えられた。ミリアムが死んだとき、井戸は消えた...岩は転がって彼らに従い、イスラエルの宿営に水を供給し続けた」
また、「アボット・デ・ラビ・ナタン」でも同様の伝承が語られています。
パウロはⅠコリント10:4で「彼らについて来た御霊の岩」と述べる際に、これらのユダヤ教の伝承を知っていたと考えられます。ただし、パウロは物理的な岩ではなく、その背後にある霊的な実体、すなわちキリストを指し示すために、この伝承を用いています。
一方で、旧約聖書自体には、岩がイスラエルの民に従って来たという直接的な記述はありません。出エジプト記17:1-7と民数記20:1-13には岩から水が湧き出た出来事は記されていますが、岩が移動したとは書かれていません。
4節のなかで「その岩とはキリストです。」という言葉には深い意味が込められています。旧約時代、ユダヤ人たちは神を「岩」として理解することに慣れ親しんでいました。しかし、その「岩」が実はキリストの予型、つまり神の臨在の表れであったことを、彼らは知りませんでした。新約時代における「肉となって現れた神」であるキリストは、旧約時代においては「岩として現れた神」だったのです。
このように、イスラエルの民に水を与え続けた岩は、単なる物質的な岩ではなく、彼らと共に歩み、命を支え続けた霊的な存在、すなわちキリストの臨在を表していたのです。
しかし、このような特別な恵みの中にありながらも、彼らは厳しい現実に直面しました。エジプトでの奴隷生活には、エジプト社会の最底辺を構成する人々でしたが、それでも皮肉にも最低限の食べ物が保証されてはいました。
それに比べ、荒野では、奴隷という束縛された生活から、解放されたのもつかの間、明日の保証すらない不安な日々を送らねばなりませんでした。見知らぬ土地での放浪生活、約束の地までの長い道のり、そして過酷な自然環境との戦い。これらは彼らの信仰と忍耐を徹底的に試すものでした。
そのような状況の中で、彼らがつぶやきの声を上げたことは、ある意味で人間として自然な反応だったと言えます。パウロも、そのつぶやきを単純に非難してはいません。目の前の困難が、神の約束よりも大きく見えてしまう。不安と不満が心を支配しやすい状況に置かれた彼らの姿は、まさに私たち自身の姿でもあるのです。
しかし、パウロが指摘するより深刻な問題は、そのつぶやきの根底にある神への不信でした。偶像礼拝に走ったのは、目に見える確かさを求めた結果です。「主を試みること」は、神の忍耐を試す反逆でした。結果として、彼らの多くは「神の御心に適わず」倒れてしまいました。これらの出来事は、現代を生きる私たちへの重要な警告となっています。
それでも、試練の中には必ず神の真実があることをパウロは教えています。神は決して人間の力を超えた試練を与えることはありません。むしろ、試練と共に必ず逃れる道を備えてくださるのです。私たちの弱さを知っておられる神が、常に共にいてくださる。試練は、このような神との関係をより深める機会ともなり得るのです。
イスラエルの民の経験は、試練の現実を赤裸々に示していますが、同時に神の真実さをも証ししています。彼らは確かに神の特別な民でしたが、私たちと同じ人間的な弱さを持っていました。パウロはその事実を認めつつ、より本質的な問題に目を向けるよう促しています。試練そのものよりも、その試練にどう向き合うかが重要なのです。
この御言葉は、私たちに試練の現実を直視することを求めながらも、その中で働かれる神の真実に目を向けるよう導いています。私たちの人生における「荒野」の時も、決して無意味な時ではありません。それは神の計画の中にあり、その真実な御手によって導かれているのです。
つぶやきの根源
荒野の旅の中で起こったイスラエルの民のつぶやきは、単なる疲れや苦しみからの不満の表明以上の深い問題を含んでいました。パウロは、そのつぶやきの根源に「偶像礼拝」があることを指摘します。
偶像礼拝と聞きますと、私たちはそれはすぐに仏像や神社、先祖崇拝と直感的に結びつけるものです。表面的は、それは間違いではありません。ところで、その本質は何であるのかと言いますと、見えない神への信頼よりも、目に見える確かなものに希望を求めようとする人間の根源的な弱さを指すものです。
荒野という極限の生存環境下で、彼らは神の約束よりも目の前の現実に心を奪われていきました。エジプトでの生活を懐かしみ、金の子牛を造って拝むという行為は、不安な現実から逃れるために、自分たちで確かさを作り出そうとした試みでした。その行為は、彼らと共に歩み、導いておられた神への深い不信感の表明でもあったのです。
しかし、この問題は古代イスラエルに限ったことではありません。私はかつて、零下50度のマグロの冷凍庫での仕事に立ち会ったことがあります。冷凍庫のセンサーの確認をするだけの作業でしたが、防寒着を上下羽織っても、10分も滞在することすら困難であったことを思い出します。庫外に出てもストーブの前でしばらく暖を取らなければならないほどでした。
私たちも同様に、人生の困難や極限状態に直面する時、目に見える確かなものに安心を求めようとします。それは時として、富や地位、人間関係であったり、また自分の能力や経験であったりします。実際は、目に見えない神よりも目に見える安心こそが、私たちの真の拠り所なのではないでしょうか。真の神以外のものに究極的な価値を置くことがつまり、現代的な形の偶像礼拝なのです。
パウロが「主を試みること」と呼ぶ行為も、このような不信仰の現れでした。それは、神の忍耐をためし、恵み深さがどこまで続くのかを反逆によって試すことでした。彼らは神の真実さを信頼できず、繰り返し神の愛を試そうとしたのです。
特に注目すべきは、彼らがすでに神の特別な恵みを経験していたという事実です。雲の導き、紅海の奇跡、マナによる養いや、岩からの水。これらの驚くべき神の御業を目撃していながら、なお彼らは不信仰に陥っていきました。これは、外面的な宗教的経験や儀式だけでは、真の信仰を保証しないことを示しています。
現代の私たちも、バプテスマや聖餐にあずかっているという事実に安住し、自分の救いは揺るがないと盲信することがあります。しかし、パウロは警告します。「立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。」(12節)と言います。つぶやきの根源である不信仰は、私たちの心の中にも常に潜んでいることです。
しかし、この警告は絶望的なものではありません。むしろ、私たちに謙虚さと警戒心を促し、常に神への信頼を新たにするように導くものです。試練の中で真に必要なのは、目に見えるものに頼ることではなく、見えない神の真実さにより頼むことなのです。
キリストの十字架という視点
荒野の試練でつぶやいた選民イスラエルの姿は、まるで鏡に映った私たち自身の姿のようです。しかし、私たち異邦人には、彼らにはなかった比類のない特権が与えられています。それは、キリストの十字架という永遠の視点です。
古のイスラエルの民と共に歩んだ霊的な岩。パウロはそれがキリストであったと語ります。砂漠の灼熱の中、渇きに喘ぐ民を潤し続けたその岩の奇跡。しかし今や、その同じキリストが人となって私たちの前に現れ、さらには私たち一人一人の心の内に宿ってくださっているのです。
かつて荒野の宿営を潤した岩からの水。その古の伝承は、今や私たちの内なる現実となりました。生ける水であるキリストは、決して枯れることのない泉として、私たちの心に湧き続けているのです。砂漠の岩から湧き出る水が命をつなぐ奇跡であったように、私たちの内に注がれる御霊の水は、永遠のいのちへと続く豊かな流れとなっているのです。
私たちの「荒野」の試練は深く、そして時に耐え難いものです。しかし、主イエスが歩まれた荒野は、人知を超えた深さを持っていました。四十日四十夜、一切の糧も絶たれた荒野での孤独な戦い。渇きと空腹の中で、サタンとの激しい霊的戦いを耐え忍ばれました。
しかし、それはまだ序章に過ぎませんでした。
十字架への道は、人類が経験したことのない究極の荒野でした。肉体の痛みよりも、もっと深い苦しみがそこにはありました。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」。この魂の叫びは、永遠の昔から共にあった父なる神との断絶という、想像を絶する孤独と暗闇を表していました。それは私たちの罪を負うために、神の御子が経験されねばならなかった、最も深い荒野でした。
しかし、驚くべきことに、この究極の試練の中で、主は決してつぶやかれませんでした。むしろ、ご自身を十字架に打ち付けた者たちのために「父よ、彼らをお赦しください」と祈られたのです。最後の息をひきとられるまで、主は完全な信頼と従順を貫かれました。私たちの小さなつぶやきが、この方の前で砕かれ、深い感謝へと変えられていくのは、何という恵みでしょうか。
このキリストの十字架を仰ぎ見る時、私たちの試練に対する視点は大きく変えられます。なぜなら、十字架は神の愛の究極の証だからです。もし神が、私たちの救いのために御子を惜しまれなかったのなら、今の試練の中でも必ず私たちを見捨てることはないという確信が与えられます。
さらに、十字架は試練の意味を変えます。それは単なる苦しみではなく、キリストの苦しみにあずかることとして意味づけられます。パウロが別の箇所で「キリストのために苦しむことは恵みである」と語ったように、試練はキリストとの深い交わりの機会となり得るのです。
また、十字架は勝利の確信を与えます。キリストは死からよみがえられ、最も深い試練に打ち勝たれました。この勝利に結びつけられている私たちも、どのような試練であっても必ず「脱出の道」が備えられているという約束にすがることができます。
このように、十字架という視点は、私たちのつぶやきを感謝と賛美に変える力を持っています。それは、試練そのものが変わるからではなく、試練を見る私たちの目が変えられるからです。十字架を通して、私たちは試練の向こうに働かれる神の愛と計画を見ることができるようになります。
そして最も重要なことは、十字架によって示された神の愛は、私たちの不完全な応答をも包み込む大きな愛だということです。恵まれているはずなのに、つい、つぶやき、ぼやき、弱さを示す、情けない私たちを、神は見捨てることなく愛し続けてくださいます。この確信こそが、試練の中にある私たちの真の慰めとなるのです。ハレルヤ!
結び
日々の生活の中で、私たちはつい嘆きの声を上げてしまいます。仕事の重圧、人間関係の軋轢、先の見えない不安。現実を見つめれば見つめるほど、心は重く沈んでいきます。時には、この暗闇に光はないのかと問いたくなる時もあります。それこそが、偶像礼拝の根源にあるものです。
しかし、そんな時こそ、目を上げましょう。
ゴルゴタの丘に立てられた十字架を。そこには、私たちの全ての嘆きと苦しみを担われた方がおられます。この方は、人類が経験したことのない深い闇を通り抜け、死の力を打ち破って復活されました。私たちの人生のどんな暗闇も、主が既に勝利された闇なのです。
不思議なことですが、この十字架を仰ぎ見る時、私たちの心に変化が起こり始めます。重たいため息が感謝の息吹に変わり、嘆きの声が賛美の調べとなっていくのです。なぜでしょう。それは、全てを克服された主が、今この瞬間も私たちと共に歩んでくださっているからです。
つぶやきたくなる現実は変わっていないかもしれません。しかし、十字架の主と共に歩む時、その現実を見る私たちの目が変えられていくのです。
適用
今週、あなたが直面している試練は何でしょうか。私たちの不満は何でしょうか。その中で、キリストを仰ぎ見ることを選びましょう。つぶやきではなく、感謝と賛美を選び取りましょう。
祈り
愛する天の父なる神様。
私たちは日々の生活の中で、あまりにも容易くあなたから目を離してしまいます。目の前の不安や困難に心を奪われ、この世のものに確かさを求めてしまう弱い者です。それは、かつてイスラエルの民が金の子牛を造ったように、私たちの心の中に偶像を作り出すことなのだと、今日の御言葉を通して教えられました。
主よ、私たちを憐れんでください。 偶像礼拝とは、イエス・キリストを見失うことだと気づかせてください。 十字架の主から目を離す時、私たちは真の慰めと希望を見失ってしまうのです。
どうか私たちの目を開いてください。 荒野で民を導かれた霊の岩であり、十字架で私たちの罪を負われ、今も生ける水として私たちの内に働かれるイエス・キリストを、いつも見上げることができますように。 試練の中にあっても、主の御顔から目を離すことなく歩む信仰を与えてください。
つぶやきと不平の心を、感謝と賛美の心に変えてください。 なぜなら、あなたは既に最も深い苦しみに打ち勝たれ、今も私たちと共にいてくださる真実な神だからです。
この祈りを、私たちの主イエス・キリストの御名によってお捧げいたします。 アーメン。