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裁きは誰のもの?毒麦のたとえが問う私たちの役割

イエスのたとえ話シリーズ No.16「毒麦のたとえ」

2024年10月13日

マタイによる福音書13:24‐30,36-43

13:24 イエスは、また別のたとえを彼らに示して言われた。「天の御国は、こういう人にたとえることができます。ある人が自分の畑に良い種を蒔いた。
13:25 ところが、人々の眠っている間に、彼の敵が来て麦の中に毒麦を蒔いて行った。
13:26 麦が芽ばえ、やがて実ったとき、毒麦も現れた。
13:27 それで、その家の主人のしもべたちが来て言った。『ご主人。畑には良い麦を蒔かれたのではありませんか。どうして毒麦が出たのでしょう。』
13:28 主人は言った。『敵のやったことです。』すると、しもべたちは言った。『では、私たちが行ってそれを抜き集めましょうか。』
13:29 だが、主人は言った。『いやいや。毒麦を抜き集めるうちに、麦もいっしょに抜き取るかもしれない。
13:30 だから、収穫まで、両方とも育つままにしておきなさい。収穫の時期になったら、私は刈る人たちに、まず、毒麦を集め、焼くために束にしなさい。麦のほうは、集めて私の倉に納めなさい、と言いましょう。』」


13:36 それから、イエスは群衆と別れて家に入られた。すると、弟子たちがみもとに来て、「畑の毒麦のたとえを説明してください」と言った。
13:37 イエスは答えてこう言われた。「良い種を蒔く者は人の子です。
13:38 畑はこの世界のことで、良い種とは御国の子どもたち、毒麦とは悪い者の子どもたちのことです。
13:39 毒麦を蒔いた敵は悪魔であり、収穫とはこの世の終わりのことです。そして、刈り手とは御使いたちのことです。
13:40 ですから、毒麦が集められて火で焼かれるように、この世の終わりにもそのようになります。
13:41 人の子はその御使いたちを遣わします。彼らは、つまずきを与える者や不法を行う者たちをみな、御国から取り集めて、
13:42 火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。
13:43 そのとき、正しい者たちは、彼らの父の御国で太陽のように輝きます。耳のある者は聞きなさい。
新改訳改訂第3版 © 一般社団法人 新日本聖書刊行会(SNSK)

タイトル画像:Franz W.によるPixabayからの画像

はじめに


私たちの人生や社会を見回すと、善と悪が混在している現実に気づかされます。正義と不正、愛と憎しみ、誠実さと欺瞞が同じ空間に存在しています。時に、なぜ神はこの世から悪を直ちに取り除かないのかと疑問に思うことがあるかもしれません。

今日、私たちはイエス・キリストが語られた『毒麦のたとえ』を通じて、この問いについて深く考えてみたいと思います。この物語は、一見単純な農業の話のようですが、実は神の国と、この世界における善悪の共存、そして最後の審判について重要な真理を教えてくれます。

マタイによる福音書13章に記されているこのたとえは、私たちが直面する現実世界の複雑さを認識しつつ、同時に神の知恵と最終的な正義の勝利を示しています。この物語を通して、私たちは忍耐、分別、そして神の計画への信頼について学ぶことができるでしょう。

では、一緒にこの意義深いたとえたとえ話に耳を傾け、その意味を探っていきましょう。

毒麦のたとえのストーリー


このたとえ話は、農業を題材にした物語を通じて、神の国と世界の現状、そして最後の審判について教えています。

物語は、ある農夫が自分の畑に良質な小麦の種をまくところから始まります。しかし夜の間に、農夫の敵が忍び込んで毒麦の種をまいてしまいます。時が経ち、作物が成長し始めると、良い麦と一緒に毒麦も育っていることが分かりました。

農夫の使用人たちは、この状況に気づいて主人に報告し、毒麦を抜き取ることを提案します。しかし、農夫は驚くべき決断をします。毒麦を今すぐに抜くのではなく、収穫の時まで両方とも一緒に育てることにしたのです。農夫の考えでは、今毒麦を抜こうとすると、良い麦まで一緒に抜いてしまう危険があったからです。

そして収穫の時期が来たら、農夫は刈り取る人々に特別な指示を出します。まず毒麦を集めて束ね、焼却するように言い、その後で良い麦を刈り取って倉に納めるよう指示します。

イエスは後に弟子たちに、このたとえ話の意味を説明しました。良い種をまく農夫は人の子(イエス自身)を表しており、畑は世界を、良い種は神の国の子どもたち、毒麦は悪い者の子どもたちを象徴しています。敵は悪魔で、収穫は世の終わりを、刈り取る人々は天使たちを表しているのです。

このたとえ話は、現在の世界には善人も悪人も共存しており、最後の審判の時まで神がそれを許していることを教えています。しかし、最後には悪を行う者たちは取り除かれ、義人たちは神の国で輝くことになるのです。このたとえは、信仰者に対して忍耐を教え、同時に最後の審判が確実にあることを示しています。

歴史的背景


 イエスがこのたとえ話を語られた1世紀のパレスチナは、農業が社会の基盤でした。多くの人々にとって、小麦の収穫は生活の糧そのものでした。良質な小麦を育てることは、単なる仕事ではなく、家族の生存がかかった重要な営みだったのです。

この時代、農民たちが最も恐れていた脅威の一つが、毒麦でした。毒麦は、成長の初期段階では小麦とほぼ見分けがつきません。茎や葉の形状が酷似しているため、熟練の農夫でさえ、それらを区別するのは困難でした。この毒麦と小麦の類似性が、たとえ話の中で重要な役割を果たすことになります。

マタイによる福音書13:25
ところが、人々の眠っている間に、彼の敵が来て麦の中に毒麦を蒔いて行った。

毒麦はその名の通り、有毒なのです。その毒性は、実は毒麦それ自体ではなく、種子に寄生する菌類が産生する物質によるものです。人間や家畜がこれを摂取すると、めまいや吐き気、さらには重篤な場合、昏睡状態に陥ることもありました。

問題は、それだけではなく、当時も今も、小麦畑に毒麦を蒔くという行為は悪意や復讐として広く行われていることです。 なぜなら、それは発見することが難しいのと同時に、農家に多大な損失とトラブルの両方を引き起こすからです。

毒麦の特徴は、小麦との類似性にあります。成長の初期段階では、小麦とドクムギを見分けることは非常に困難です。しかし、雑草だとわかるほど成長すると、今度は根が周りの小麦と固く絡み合ってしまいます。そのため、小麦を傷つけることなく毒麦だけを引き抜くことは、ほぼ不可能になってしまうのです。

被害にあったと知るのは、穂が出揃った頃になりますから、それを抜こうとしても、小麦に絡まって引き抜こうにも抜けない。収穫時に完全に取り除くことが難しく、小麦に混ざってしまうと食糧の安全性を脅かしたからです。

敵対関係にある者が相手の畑に雑草の種を蒔くという行為は、単なるいたずらではなく、相手の生計を脅かす重大な加害行為でした。収穫量の減少や、穀物の品質低下は、農民にとって致命的な打撃となりかねなかったのです。

現代では除草剤や選別技術の発達により、農業における毒麦の問題はかなり軽減されていますが、有機農法などでは依然として注意が必要です。一方で、毒麦は農業にとっては厄介者ですが、自然界では生物多様性の一部を担っており、一部の野生動物にとっては食料源や生息地となっています。

精神的苦痛をもたらすものとしての毒麦

こうした特性から、毒麦を蒔いた犯人は、被害者が、長期間被害にあったことを思い悩むことで満足感を得ると同時に、それが発覚した際に生じるであろう深刻な苦悩を知ることでさらなる充足感を得る行為でもありました。

「毒麦の穂」Lolium temulentum:Roger Culos - commons.wikimedia.org

毒麦を蒔くという行為は、一種のテロ行為ともいえ、この脅威は当時の社会で非常に深刻だったため、ローマ法大全さえもこの問題に言及しています。ユスティニアヌス帝の法典である「学説彙纂」には、他人の畑に雑草や野生のオーツ麦の種を蒔くことを禁じる法律が記されています。この法律が制定された背景には、当時の農業社会における深刻な問題であったことが伺えると同時に、この法律の存在は、敵対者が相手の畑に毒麦を蒔くという行為が、実際に行われていた事実を裏付ける資料ともなっています。

マタイによる福音書13:28
主人は言った。『敵のやったことです。』すると、しもべたちは言った。『では、私たちが行ってそれを抜き集めましょうか。』

イエスのたとえ話に登場する「敵が来て毒麦を蒔いた」という場面は、当時の聴衆にとって、単なる比喩ではなく、現実的な脅威として理解されたのです。彼らは、このような悪意ある行為が自分たちの生活を脅かす可能性を、彼らは身をもって知っていたことです。

イエスが語った毒麦のたとえは、当時の農業社会の文脈で語られましたが、その本質的な意味は現代においても深く共鳴しています。現代の視点からこのたとえを見ると、毒麦の役割は、まさに戦争における対人地雷兵器のようなものだと考えられます。

対人地雷は、即座に人を殺すことが目的ではなく、長期的な被害をもたらすことを意図しています。それは被害者に恒久的な身体的・精神的傷を負わせ、社会全体に長期的な恐怖と不安をもたらします。同様に、たとえ話の中の毒麦も、即座の破壊ではなく、長期的かつ広範囲に及ぶ被害を意図していたのです。

このような歴史的背景を理解することで、私たちはこのたとえ話の深さと、当時の人々にとって重大な問題であったことをより鮮明に感じ取ることができるのではないでしょうか。イエスは、彼らの日常生活に深く根ざした事例を用いて、神の国についての真理を理解させようとしたのです。

たとえ話の解説


イエスのたとえ話に登場する人物や要素には、それぞれ深い象徴的意味があります。まず、畑の主人である農夫は神を表しています。神は、この世界という畑に良い種を蒔かれます。その良い種とは、神の言葉を受け入れ、神の国の子どもとなる人々のことです。

一方、夜陰に紛れて毒麦を蒔く敵は、悪魔の象徴です。悪魔は、神の働きを妨げ、混乱をもたらそうとします。毒麦は、悪魔の影響下にある人々や、偽りの教えを表しています。これは単に「悪い人」を指すのではなく、真理に反する思想や行動のことも含んでいます。

敵の行動、つまり夜中に忍び込んで毒麦を蒔く行為は、悪魔の巧妙な戦略を表しています。悪魔は、人々が気づかないうちに、偽りの教えや誤った価値観を広めようとします。それは、表面的には真理のように見えるかもしれません。ちょうど毒麦が初期段階では小麦と見分けがつかないように、偽りの教えも時に真理のように装われるのです。

たとえ話の中で、下僕たちは毒麦を発見するとすぐに抜き取ろうとします。これは、私たちがしばしば、即座に危険と判断し、除去する行動を望む傾向を示しています。悪いものは直ちに取り除くべきだ、という考えは一見正しいように思えます。

しかし、主人の対応は異なります。主人は忍耐を示し、収穫の時まで両方を育てるよう指示します。
この指示は、一見すると当時の農業慣行と矛盾するように見えますが、実際には古代パレスチナの農業の現実を巧みに反映しています。

当時の小麦栽培は現代の整然とした畝作りとは異なり、直播き法が一般的でした。この方法では、小麦の種子が畑全体に散布されるため、雑草である毒麦(ダーネル)が混在して生えてくることがありました。問題は、生長の初期段階では毒麦と小麦の苗がほとんど見分けがつかないことです。

一般的に、有害な雑草はできるだけ早く除去することが推奨されます。しかし、直播きの畑で毒麦を抜こうとすれば、周囲の小麦も踏みつけたり引き抜いたりしてしまう可能性が高く、結果として小麦の収穫に大きな悪影響を与えかねませんでした。

このような状況下では、農夫たちは毒麦が十分に成長し、小麦と明確に区別できるようになるまで待つことがあったでしょう。これは、たとえ話の中で主人が下した判断、すなわち「収穫の時まで両方を育てる」という指示と一致します。

このたとえ話は、単に農業の知恵を述べているだけではありません。むしろ、この農業の現実を用いて、より深い霊的な真理を伝えようとしています。

つまり、すぐに判断し、行動に移すことが、意図せずして善いものまで傷つけてしまう可能性があること、そして最終的な判断は適切な時期まで待つべきであることを示唆しているのです。そこに、神の知恵と忍耐が示されています。神は、私たちには見えない全体像を把握しておられ、最終的な裁きの時まで忍耐を持って待たれるのです。

異物を排除したい欲求について

この主人の対応には重要な理由があります。毒麦を抜こうとすると、良い麦まで傷つけてしまう可能性があることを示しています。これは、人間の判断の限界を示しています。私たちは、表面的な情報だけで他者や状況を完全に理解し、正しく判断することはできません。時に、善悪の区別は私たちの想像以上に複雑なのです。

毒麦のたとえが私たちに投げかける問いは、現代社会においても深い共鳴もたらします。29節に「いやいや。毒麦を抜き集めるうちに、麦もいっしょに抜き取るかもしれない。」という警告は、単純な二分法では捉えきれない、人間社会の複雑さを示しています。

例えば、私たちの周りには様々な信仰、思想が存在します。その中には、主流から外れた、あるいは問題があると見なされる異端的な教えも含まれるでしょう。しかし、それらを性急に排除しようとすると、思わぬ弊害が生じる可能性があります。真摯に真理を求める人々の成長の機会を奪ってしまったり、善意の信者を傷つけたりする恐れがあるのです。

また、この原則は信仰の領域にとどまりません。社会全体を「浄化」しようとする動きや、人間関係における即座の批判と修正の試み、さらには自己の内面における急激な変革の願望なども、同様の危険をはらんでいます。善意から発した行動が、思わぬ形で周囲や自分自身を傷つけてしまう———
そんな皮肉な結果を生み出すことさえあるのです。

しかし、これは決して「何もしない」ことを勧めているわけではありません。むしろ、より慎重で、愛に満ちた対応を求めているのです。明らかに有害な教えや行為には適切に対処する必要がありますが、その判断と方法には細心の注意が必要です。批判や排除ではなく、愛を持って真理へと導く姿勢が求められているのです。

同時に、私たち自身の判断も完全ではないという謙虚さも必要でしょう。間違いや不完全さを、否定すべきものとしてではなく、学びと成長の機会として捉える視点が大切です。そして何より、最終的な裁きは神に委ねるという姿勢が重要です。

このたとえ話は、即座の判断や行動を控え、忍耐と愛を持って対処することの重要性を教えています。しかし同時に、真理と正義を追求することの大切さも忘れてはいけません。この一見相反する二つの要請のバランスを取ること———それこそが、このたとえ話が私たちに突きつけている難しくも重要な課題なのです。私たちは日々の生活の中で、この難題と向き合い続けることを求められているのかもしれません。

このたとえ話は、私たちの世界と信仰生活における意味深い神学的真理を明らかにしています。まず、善と悪の共存という現実に目を向けてみましょう。私たちの世界は、神の創造による善なるものと、罪によって歪められたものが入り混じる場となっています。この現実は、エデンの園での出来事以来、人類の歴史を通じて続いています。毒麦のたとえは、この世界が完全な楽園でも、絶望的な地獄でもなく、善悪が共存する戦いの場であることを示しています。

この共存状態に対する神の対応は、驚くべき忍耐と最終的な裁きの均衡を示しています。神は、即座に悪を根絶やしにするのではなく、収穫の時まで待つという選択をされました。これは神の長き忍耐を表しています。

使徒ペテロはこう言います。「主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」(ペテロの手紙第二3:9)と述べているように、神の忍耐は救いの機会を与えるためのものです。

最後に、収穫の時に毒麦と小麦が分けられる場面があります。これは、最後の審判を象徴しています。その時こそ、神の完全な知識と正義によって、真の分離が行われるのです。このたとえは最終的な裁きの確実性も示しています。収穫の時が来れば、毒麦は必ず分離され、焼き捨てられます。これは、神の正義が最終的には必ず実現することを意味しています。神の忍耐は無限ではなく、最後には公正な裁きが下されるのです。

このたとえ話を通して、イエスは私たちに重要な教訓を与えています。それは、即断を避け、忍耐を持つこと、最終的な判断は神に委ねること、そして自分自身が良い実を結ぶ者となるよう努めることの大切さです。同時に、この世界には善と悪が共存し、最後まで闘いが続くことを認識しつつも、最終的には神の正義が勝利するという希望を持つことの重要性も教えられているのです。

結局のところ、このたとえ話は神の主権と人間の責任のバランスを教えています。神が最終的な裁き手であることを認識しつつ、私たちは自らの生き方に責任を持ち、良い実を結ぶ者となるよう努めるべきなのです。同時に、他者に対しては慈悲深く、裁く態度を避けることの重要性も示されています。

このように、毒麦のたとえは、神の性質、この世界の現実、人間の限界、そして終末の希望について、豊かな神学的洞察を提供しているのです。

現代への適用


毒麦のたとえは、2000年以上前に語られたにもかかわらず、現代の私たちの生活に驚くほど適用可能な知恵を提供しています。まず、教会内の不完全性について考えてみましょう。

現代の教会も、完璧な聖人たちの集まりではありません。そこには様々な背景、成熟度、理解度を持つ人々が集っています。時に意見の相違や、誤った教えの影響さえも見られるかもしれません。このような状況で、毒麦のたとえは私たちに忍耐と慎重さを教えています。

即座に「それは正しくない」と思われる要素を排除しようとするのではなく、愛と忍耐を持って互いに成長を促すことが大切です。同時に、明らかに有害な教えや行為に対しては、教会全体の健全性を守るために適切に対処する必要があります。これは、個々の状況に応じて祈りと知恵を持って判断すべき繊細な課題です。

個人の生活においても、私たちは日々「毒麦」的な要素と向き合っています。これは、自分の内なる罪の性質かもしれませんし、周囲の誘惑や否定的な影響かもしれません。ここでも、バランスが重要です。

一方で、自分の弱さや欠点を認識し、それらと真摯に向き合う勇気が必要です。しかし他方で、自分自身や他者を過度に厳しく裁くことは避けるべきです。成長は一朝一夕には実現しません。長期的な視点を持ち、日々の小さな進歩を大切にしながら、神の恵みと聖霊に頼って歩んでいく姿勢が求められます。

最後に、判断と寛容のバランスについて考えましょう。現代社会では、極端な相対主義と厳格な絶対主義の両極端が見られます。毒麦のたとえは、この両極端を避け、賢明なバランスを取ることの重要性を教えています。

確かに、明らかな悪や有害な影響に対しては、毅然とした態度で立ち向かう必要があります。しかし同時に、自分とは異なる意見や生き方を持つ人々に対して、即座に判断を下すのではなく、理解と共感を持って接することも大切です。

実際の適用としては、例えば社会問題に対する姿勢が挙げられます。特定の問題に対して異なる見解を持つ人々と対話する際、相手を即座に「敵」「右だ左だ」と見なすのではなく、その人の背景や動機を理解しようと努めることが大切です。同時に、基本的な価値観や倫理観を堅持することも忘れてはいけません。

また、デジタルメディアが発達した現代では、SNSなどで簡単に他者を裁いたり、批判したりすることができます。しかし、このたとえは私たちに、そうした即断を避け、より深い理解と寛容を持つことの重要性を教えています。

結局のところ、現代的適用の核心は、神の知恵と導きを常に求めながら、愛と真理のバランスを保つことにあります。完璧を求めるのではなく、日々の小さな選択の中で、このバランスを実践していくことが、私たちに与えられたチャレンジなのです。

実践的な応答


毒麦のたとえは、私たちに理論的な洞察を与えるだけでなく、日々の生活における実践的な応答を求めています。まず、自己吟味の重要性から考えてみましょう。

このたとえは、私たち自身の内なる「毒麦」に目を向けることの大切さを教えています。毎日の終わりに、自分の言動や思いを振り返る時間を持つことは有益な習慣となるでしょう。「今日、私は良い麦として成長したか、それとも毒麦的な要素を許してしまったか」と自問することで、自己の成長と向上につながります。しかし、この自己吟味は自己否定や過度の自責に陥るためではなく、神の恵みを再確認し、明日への希望を見出すためのものです。

次に、群れにおける忍耐と愛の実践について考えましょう。教会や職場、家庭など、私たちが属するどの社会にも不完全さがつきものです。そこでは、即座の判断や批判ではなく、忍耐と愛を持って互いに接することが求められます。例えば、意見の相違がある場合、相手を非難するのではなく、その人の背景や動機を理解しようと努めることから始めましょう。また、誰かの成長や変化のプロセスに立ち会う機会があれば、長期的な視点を持って励まし、支え続けることが大切です。

具体的には、教会の小グループ活動や奉仕活動に積極的に参加し、多様な背景を持つ人々と交わることで、この忍耐と愛を実践する機会が得られるでしょう。また、日常生活の中で、家族や同僚との関係において、即座の批判を控え、相手の立場に立って考える習慣を身につけることも重要です。

最後に、最終的な裁きを神に委ねる姿勢について考えましょう。これは、無関心や責任放棄を意味するのではありません。むしろ、自分の限界を認識し、神の全知全能と完全な正義を信頼することを意味します。実践的には、他者や状況を判断する際に「私の見方は限られているかもしれない」という謙虚さを持つことから始まります。

また、祈りの中で、自分の判断や感情を神に委ねる習慣を身につけることも大切です。特に、理解しがたい状況や人々に直面した時、「神様、この状況(この人)のことをあなたに委ねます。あなたの完全な知恵と正義によって、最善の結果がもたらされますように」と祈ることで、私たちの心に平安がもたらされるでしょう。

さらに、この姿勢は私たちを行動の麻痺から解放します。最終的な結果は神に委ねつつ、私たちは自分の役割を果たすために最善を尽くすことができるのです。例えば、社会の不正に対して声を上げる際も、最終的な裁きは神に委ねつつ、自分にできることを勇気を持って行うことができます。

これらの実践を日々の生活に組み込むことで、私たちは毒麦のたとえが教える深い知恵を、単なる理論ではなく、生きた現実として体験することができるでしょう。それは、より成熟したクリスチャンとしての成長につながり、同時に、周囲の人々にも良い影響を与えることになるのです。

最後に


私たちは今、イエス・キリストが語られた毒麦のたとえについて深く見てきました。この旅路の終わりに際し、このたとえ話の中心的なメッセージを再確認し、私たちの日々の歩みに希望と励ましを見出したいと思います。

このたとえ話の核心は、神の国の現実と、私たちの世界における善悪の共存にあります。それは、完璧さを即座に求めるのではなく、忍耐と分別を持って生きることの大切さを教えています。同時に、最終的には神の正義が必ず勝利することを約束しているのです。

私たちの人生や社会、そして教会でさえ、良い麦と毒麦が混在する畑のようです。時に、この現実に失望し、すべてを正そうと焦ることもあるでしょう。しかし、このたとえは私たちに希望を与えます。神は、この不完全な状況をも用いて、ご自身の計画を進めておられるという事実です。

あなたが今、困難な状況に直面していたとしても、それは一時的なものです。良い麦が最後には必ず刈り取られ、神の倉に納められるように、あなたの忠実さと忍耐も必ず報われるのです。ですから、日々の小さな選択において誠実であり続けてください。たとえ周りが理解してくれなくても、あなたの内なる良い麦の穂を育て続けることに励んでください。

また、このたとえは私たちに、他者に対する寛容と理解の心を持つよう促しています。即座の判断を控え、愛を持って接することで、私たちは神の忍耐深さを反映する者となれるのです。

最後に、このたとえは神の国の完成への壮大な展望を与えてくれます。今、私たちは不完全な世界に生きていますが、最終的には神の完全な統治が実現します。その日、すべての悪は取り除かれ、正義と平和が完全に勝利するのです。この希望は、私たちに日々の試練を乗り越える力を与えてくれます。

ですから、愛する兄弟姉妹の皆さん、勇気を出してください。あなたの努力は決して無駄ではありません。日々の小さな選択の中で、良い麦となることを選び続けてください。そして、最後には神がすべてを正しく裁かれることを信頼しましょう。

私たちは今、神の国の「すでに」と「いまだ」の間を生きています。完全ではありませんが、確実に神の国は前進しているのです。この希望を胸に、互いに励まし合いながら、神の国の完成を待ち望みつつ歩んでいきましょう。神の恵みと平安が、あなたがたとともにありますように。アーメン。

皆様のサポートに心から感謝します。信仰と福祉の架け橋として、障がい者支援や高齢者介護の現場で得た経験を活かし、希望の光を灯す活動を続けています。あなたの支えが、この使命をさらに広げる力となります。共に、より良い社会を築いていきましょう。