善に熱心なるということ Ⅰペテロ3章13節
もし、あなたがたが善に熱心であるなら、だれがあなたがたに害を加えるでしょう。Ⅰペテ 3:13
Καὶ τίς ὁ κακώσων ὑμᾶς ἐὰν τοῦ ἀγαθοῦ ζηλωταὶ γένησθε;
■ はじめに
奴隷や主人の妻といった身分の保証のない人々に向けて、ペテロは一つの格言を残しました。
その言葉は、悪から離れ、善を行うこと、平和を追い求めることを読者に勧めました。単にペテロは非道な主人に対して隷属することを求めたのではありません。これらの善を行うにあたり、忖度するとか良い顔を見せるといったテクニックを伝えたのではありません。なぜ、善を行うのかといえば、それは、信仰がどこにあるかということです。主は、逆境にある者、ハラスメントにある者といった低い身分の人々を見ており、そのハラスメントにある人々を現実の世界において非道な主人たちから救いをもたらすお方だということでした。そのことを知っているからこそ、善を行うのだということを教えてくれました。今回は、その格言の適用ということになりますが、ペテロが語る、善に熱心になるということの意味について見ていきたいと思います。
■ 良心について
Καὶ τίς ὁ κακώσων ὑμᾶς ἐὰν τοῦ ἀγαθοῦ ζηλωταὶ γένησθε;
直訳しますと もし、あなた方の善い行いを熱心になるならば、誰があなた方を苦しめるでしょう。ということです。
ペテロが言う通りに『舌を押えて悪を言わず、くちびるを閉ざして偽りを語らず、悪から遠ざかって善を行ない、平和を求めてこれを追い求めよ。』と3章11節にある生き方をするならば、誰も虐げることはしないと言います。これは、たしかにそのとおりでしょう。
なぜ、ペテロが、善い行いに熱心になるべきかと諭すことを考えるときに、まずは、良心について考えなければならないと思います。
良心をもつ人間
興味深いことに、どんな悪人であっても、神は良心を与えているという事実があることです。
ローマ人への手紙2:14-15には次のように書かれています。
聖書では、良心の存在は、あらゆる人間が、神によって定められた倫理にしたがうように責任を負っているという事実があります。どのような国家、民族にしても、十戒に定められている倫理的規範から大幅に逸脱することはありません。たとえ、罪人が神から離反しているとしても、神に応答するように定められた良心を人間が自らの手で捨て去ることができないのです。たとえは悪いのですが、いかなる凶悪犯であっても、『殺してはならない。』ということを知らないはずはありません。凶悪犯は、心の書かれた良心(律法)に背いて殺人を実行したということです。殺人だけではなく、あらゆる罪は、良心に背くことに端を発しています。
十戒からみる良心
ところで、モーセの十戒はどのように、私たちに語っているのでしょうか。『十戒』とは、出エジプト記20:3-17の要点をまとめたものが十戒として紹介されていますが、その内容は下記のようになります。
ご覧になられるとわかると思いますが、十戒を見ますと、決して奇異なものでもないし、むしろ、当然と思う種類の倫理的規定です。十戒は良心に照らしてみて良心に嘘をつかない限り、肯定しうる規定であることがわかります。
ただし、十戒を認めることができないという人ももちろん存在します。例えば、第一戎を見ますと、『あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない』といきなりあります。この言葉に引っかかる人は当然いるわけです。
分裂した心の原因
聖書は、良心は、神によってもたらされたものであると教えますが、人間の堕落によって良心も罪の影響を受けており、良心が汚れている麻痺するということが見られるのです。
どの世界、どの時代におきましても、良心に背く行為や、思想があるものです。クリスチャンであってもそうです。御言葉には書かれていることを行えず、自分の欲望に引き回されるということがあります。パウロはこう言います。
パウロが言うまでもなく、多くの人は、パウロが抱えていた分裂した心に苦悩しています。なぜ、こうなってしまうのかというように自分を責めるわけです。これを多くの日本人は『業』と理解していますが、クリスチャンである私たちは、『罪』として認識しています。
罪と聞きますと、避けるべきものであるとか、ネガティブにとらえてしまうものですが、パウロのように自分に内在する心のありようを正しく認識できるならば、解決の道がひらけています。
地の塩として遣わされること
こうして、分裂した心の苦悩を持つ人間の根本的な問題は、『罪』にあることを聖書は伝えますが、クリスチャンには、神の照明によって、罪への理解と洞察があります。これは、特権です。
罪に悩み苦しむだけでなく、この罪への深い理解があることで、罪は許されるべきものではないということと、その解決はイエス・キリストの十字架による贖いのみであることを受け入れることができるのです。
こうして、私たちは、神の恵みとして罪の赦しを豊かに受ける者とされているわけですが、この結果私たちは、この世において『地の塩』として遣わされているのです。
この『地の塩』としての存在は、罪への認識と理解に基づいています。倫理的に正しいことを行うということのみを要求しているのではありません。
この世での塩気とは何かといえば、
聖霊の支配のうちに、神の愛に満たされて、神の御心にある道徳的責務に対して誠実に心から服従することを意味するのです。
良心は御言葉にしたがうことよって、聖められ、同時に精度を増すわけです。なぜ、良心が御言葉によって強化されるのかといいますと、
ウエストミンスター信仰告白にありますように、神のみが良心の主であるということです。ですから、私たちは、自分の悟りに頼らず神のご支配に心を委ねるという姿勢が尊重されるのです。
■ 善に熱心であること
もし、あなたがたが善に熱心であるなら、だれがあなたがたに害を加えるでしょう。Ⅰペテ 3:13
今回取り上げる御言葉を見ますと、『善に熱心であるなら』とあります。この善とは、良心とは不可分の関係にあることがわかります。つまり、良心にしたがうことすなわち、善であると言い換えることができます。しかも、熱心であることを求めています。
熱心をギリシャ語本文では、ζηλωταὶ(ゼーロータイ)と書いてあります。原型は、ζηλωτής(ゼーロテース)という言葉で、その意味は、
つまり、善に対しては、熱意をもって支持し、活動するものであることを神は信徒に期待しているということです。ですから、私たちは、良心にしたがうにとどまらず、より積極的に良心を求める者であるべきであることを示しています。
善に生きたイエス
主イエスこそ、善に熱心に生きた人の模範でした。彼は、十字架の死に至るまで、御言葉と御霊によって生きていました。その姿について聖書は次のように語っています。
この姿を謙卑といいますが、イエス・キリストは、神であられるお方であっったのにも関わらず、十字架の上で、十字架につけた人々をのろうこともせず、非難することもありませんでした。ただ、十字架につけた人々への執り成しをするのみでした。
こうした、徹底的なイエス・キリストの謙卑の姿は、多くの人の心を打つものでした。イエス・キリストの十字架の死を目撃していたローマ軍の百人隊長は、次のように語っています。
未信者の人の心をも変えた善
当時のローマ帝国の人々は、皇帝が死ぬと神格化され、生きている間は神の子と呼ばれていました。ですから、ローマの百人隊長がイエスを神の子と言ったのは、異教徒でありながら、イエスを神と認めたという告白でありました。ここまでの気持ちを起こさせたのは、イエスが死ぬ時起こった超常的な現象に加え、息を引き取るまでの間ずっと謙卑の姿を取り続けたということにあったと思われます。イエスは、その死に至るまで、未信者の良心を揺さぶるパッションを示し続けていたといえましょう。
イエス・キリストの善行は、人々の心を変えたのです。それは、徹底的に良心に従った結果でした。
今回の御言葉で、『だれがあなたがたに害を加えるでしょう。』とありますが、良心にしたがう歩みは、人々の良心に訴えかける力を持つということです。
たしかに、イエス・キリストは、ユダヤ人たちの秘密裁判によって神の子であることを認めたという罪状でもって死刑にさせられましたが、その事実をねじ曲げた裁判の結果ですら、文句一つも言わず、刑に処せられていきました。不条理な公権力の暴力とも言える中にあったとしても、歯向かうことすらせず、刑は刑として甘んじて受けていく姿勢の中に、理性的に良心にしたがう姿勢を最後まで貫き通したのです。
こうした、人間の権利を捨ててまで良心に従い通したのは、なぜでしょうか。イエスにとって十字架は、自分にとってなんの益もないことです。無益どころかいのちを落とす場面にあっても、自分を捨て続けたのは、『人を救う』という目的のためでした。
彼が、最後まで、善を追求し続けたのは、自分が滅んだとしても、人のいのちが救われることが、神が求める良心であることを強く認識していたからです。
愛ある関係性へ
善に熱心であることは、つまり、人々の救いに対して熱心であるということに繋がります。私たちも、相手を尊重するなら、相手も尊重するということを知っているでしょう。救いとは、相手を愛する愛が源です。相手の救いを熱心に求めるならば、それは愛が根底にあるわけです。
人は愛されていることが理解できれば、愛してくれる人を愛するはずです。つまり、善、良心とは何かと言うならば、それは、『他者への愛と尊重』であるということです。愛されていることを相手が知るならば、当然、『害を加える』はずはないのです。
イエス・キリストはその十字架において、全人類に対する愛をあきらかにしました。それは、良心に従い通したことはもちろんですが、その根底には全人類に対する愛が根底にあったのです。
もし、あなたが、人を変えたいと思うならば、自分が変わるしかないとよく言われますが、聖書はもっと積極的です。その人を愛しているかどうかです。嫌いな人を愛するなんて無理だと思う人がいるかも知れません。
しかし、神の力なら可能です。
ぜひ、嫌いな人であっても、愛することを学んでいただきたいのです。
愛は、好きになるということではありません。新約聖書で用いられる愛とは、神的、自己犠牲的、他者中心的な愛という意味ですが、これは、自分の力では無理です。しかし、神を心の底から信頼する者には、聖霊によって新しい愛の人格が可能となるのです。
ですから、熱心に聖霊に満たされることを求めていきましょう。
そのことが、人間関係においての解決の基盤となるものです。
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