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【短編】迷宮のバラード
彼は人見知りの陰性な人として通っていた。しかし「高校生の天才シンガーソングライター」がキャッチコピーだった彼の、その美しい高音と陰鬱な歌詞は、多くの人を虜にした。
彼の代表曲は『迷宮のバラード』と言った。叶わない恋の悲哀を語る歌詞と、彼の少年のような歌声はあまりにもミスマッチだったが、それが人々に刺さった。
私はむしろ凡人でありたかった。自らを犠牲にして手にした「天才」と言う評判など少しもいらない。どうしてこんなことになってしまったのだろうか。
小さい頃は、母の前で彼女の好きな歌を歌うだけだった。母が嬉しそうな顔をしてくれるので、歌が好きになった。その頃、母がギターを教えてくれた。慣れると早いもので、小学校を卒業する頃には大抵の曲は弾けるようになった。中学生になり、フォークギタークラブに入った私は、作詞や作曲もするようになった。しばらくして、当時仲の良かった先輩の紹介でライブハウスにも顔を出すようになった。
転機は突然訪れた。15歳の冬、ライブハウスで私の歌を聞いた音楽プロデューサーから、メジャーデビューの誘いが来たのだ。俄然やる気になった母は、彼の言うままに契約を結んだ。私はというと、自分の歌が褒められているので悪い気はしなかった。
デビューしてすぐに私の歌は評判となった。私の陰気な性格を前面に出した歌詞が、同じような気質の人々にウケているらしかった。人々は私を「天才」「神童」と呼んでいた。御祝儀のような意味合いもあったのだろうが、そう言われることには快感を覚えた。ファンレターなるものもいただいた。多かったものは、私の歌詞を自分の境遇に当てはめ、元気をもらったと言う内容だった。私なんかの曲で励まされる人がいるというのは良い気分になった。
さらなる転機はデビューしてしばらく経ってからやってきた。素性を隠して高校に通っていた私だが、人並みの恋愛をするようになったのだ。彼女とは全く青臭い関係だったが、人生で初の悦びに私は夢中になった。ひと月ほど過ぎた頃だろうか。どういうわけかその関係が母の知るところとなった。母は彼女と別れるように迫った。彼女との関係を続けることで、私が陰性でなくなり、ひいては「ウケる」曲が作れなくなることを恐れたのだ。抵抗する私に構わず、母は強引に彼女の両親を通じて彼女に別れを告げ、私の携帯電話を解約した。事務所に働きかけて私の仕事を増やし、登校回数を減らした。
この頃書いた曲が、『迷宮のバラード』だった。歌を辞めたくはないが、これ程まで自己を犠牲にもしたくない。どうすればいいかわからない中で、救難信号のように書き上げた。
これはデビュー以来最大の反響を呼んだ。しかし私の期待したような反応は全く返ってこなかった。皆は自己の境遇に歌詞を重ね合わせ、自己陶酔に浸るだけで、こちらの救難信号は誰にも拾われなかった。これに私は大きく失望した。さらに、私を形容する「天才」という言葉も私を苦しめた。ただ圧力でメッキを体に押し付けられているだけの私が「天才」を名乗れるとは到底思えなかった。
これと並行して、私の体は男になっていった。段々と高い声が出にくくなっていったのだ。これを見た母は、私を病院に連れていった。医者は私に注射を打った。母は「高音が出やすくなる薬」と言った。私はぼんやりと身の危険を感じていたものの、断ることも億劫に思えてそれを受け入れた。もはや、どうでも良かった。この頃になると、私は歌うことすら嫌いになっていた。
二週間に一回、これを打ちに医者に通うようになった。半年ほど過ぎた今、私はこれがホルモン剤であったことを自らの盛り上がった胸で知った。いよいよ私は「天才」そのものを嫌悪した。これは地の世界に住むものが生み出した天才だ。私はこの2度と戻らない「天才」の体への嫌悪感からえずきを繰り返した。
私はどうすればいいのだろうか。その時初めて、迷宮の中にかすかに光る出口が見えた気がした。えずきとそれに伴う頭痛で判然としない意識の中、私はそれを目指してどうにか歩き出した。それに近づき、手をかけた。それの縁に立ち、前方に向けて倒れ込んだ。薄れゆく意識の中で、えずきも頭痛も楽になっていくのがわかった。
翌日、彼が飛び降りをしたことが報じられた。遺書は無かったため、衝動的な自殺だろうとされた。大々的に催された葬儀と告別式には多くのファンが詰めかけた。その中で『迷宮のバラード』が流された。誰かがそれに合わせて歌い出した。それはやがて涙交じりの大合唱となった。出棺の時には、多くのファンが、彼が歌う姿をとらえた写真を振って涙を流した。ワイドショーはそれを感動的に報じた。SNSには彼を追悼する投稿が溢れた。誰も、彼の本名を知らない。
ひと月も経つと、彼のことは全く話題にあがらなくなった。彼を追悼した人々も、その頃には既に新しい偶像を見つけていた。半年後、彼についてのゴシップが週刊誌に掲載された。その記事は、彼の美声がホルモン剤の注射による成長の抑制で維持されていたことを告発していた。それは多くの反響を呼んだが、一週間後には別の事件の記事にかき消された。
了