見出し画像

大地讃頌の歌詞の押し付けがましさ

皆さんは大地讃頌を中学校とか高校とかで歌ったことがあるかもしれない。楽しく歌った人もいるだろうし、合唱とか合唱が歌われるシチュエーションってのは人間関係のあれこれが表面化しやすいから、正直楽しくない思い出を持っている人もいるかもしれない。

俺は中学の時にこの歌に出会った。担任が難しい曲だとか厳かさを伝えていた記憶がある。高校の時も歌った気がする。

昔からこの大地讃頌の歌詞があまり好きじゃない。めちゃくちゃ大地アピールしてくるからだ。大地の大切さを無条件に喧伝してくる。そして土を讃えることを強要してくる。

あまりにユートピア過ぎないか。

私は幸いなことに田舎育ちだったから、農家の子息子女が身の回りに多くいた。土を相手取る農民たちは、大地讃頌に歌われるような理念的・理想的な態度や思念を決して取らなかったと思う。遅い霜、台風、早い霜、病虫害、豊作貧乏。油断すると大地はすぐに牙を剥き、農民たちの暮らしを破壊するからだ。これに抗するために、農民たちはえも言われぬ強かさを持っていた。

私の子供時代は農作は安定期を迎えていたが、その少し前、昭和30年代〜40年代では、例えば来年の種の豆を取っておくか売ってしまって現金にするか家族で言い争うこともあった。農閑期に出稼ぎにいき、正月に家族がそろわないことも多かった。離農することになった農家に近隣農家が挙り、農機具や家財道具を買ってやる風習があった。はしごが象徴的にはじめに取引されるのだそうだ。離農せねばならない人々にそうやって現金を渡した。機械化について行けずに離農するものもいた。離農者は都市の労働力になった。都市と農村はこのように連続していた。

こんなことは大人になってから気がついた事柄だ。だが中学生の時期にあっても、大地讃頌で語られる大地へのあり方と、実際の大地への人間のあり方とにはなんとなく懸隔を感じていた。

大地讃頌の歌詞は牧歌的にすぎる。ただ大地を讃頌するだけでは豊かな大地からの恩寵は得られない。大地への謙虚な讃頌の態度はもちろん必要だが、他方で大地の荒々しさに耐えたり、大地の荒々しさを跳ね返すような地力を、農民たちは静かに備えていた。

大地讃頌の歌詞はその点がごっそり捨象されてしまっている。さりながら大地への盲信を強いてくる。極めて農村と断絶した都市的な発想と思う。

これが私の大地讃頌の歌詞が押し付けがましくて好きではない理由だ。

いいなと思ったら応援しよう!