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大雪だったわけだが、人智を越える現象に諦めざるを得ないと結構気分的に楽だった
はじめに
今日はとにかく大雪が降った。仕事は除雪や大雪による仕事の調整ばかり。
気がついたのだが、除雪の合間にメールを返信すると日本語がおかしくなる。今日のこのnoteももしかしたら絶妙にてにをはが変で、謎に冗句のある文章になっているかもしれない。いつもの悪い癖が増幅する感じだ。
除雪には何かそうした邪悪な効果があるのかもしれない。
1 あまりの大雪に諦めがつく
さて、これだけ降るとなんだか諦めがつく。いろんなお店が休みだったり、行うべき事業が中止になったり。そもそも職場までたどり着けない人がいるし。
しゃーねーわ、って思うわけだ。
するとなぜだか気分的に楽になってくる。除雪するか〜と雪かきを手にとり身体を動かす。雪のせいで調整が必要な仕事先に電話する。
これらの事柄が、あまりの仕方のなさにストレスなく当たり前のこととしてこなせてしまう。
つまり圧倒的に雪が多すぎて、諦めがついてしまうわけだ。
自分に起因する部分が僅少になるためか、不思議にもかなりストレスなく過ごすことができた。
2 現代社会でなぜストレスが溜まるのか 自然と天啓の不足
さて、翻って現代の日常での仕事上での振る舞いは、かなりストレスがたまるケースが多い。
これは、現代社会がかなり個々人にコントロールできると考えられており、個々人に仕事の成否が直接のしかかってくるからではないか。
昔だと、自然現象を中心に生きていて理不尽なことがもっと起こったに相違ない。現代ではいろんなことが科学的にコントロールされているため、安心な社会でありながらもその一方で成功や失敗に自然の理不尽さが入り込む余地が少ないのではないか。
人智の及ばぬ自然や天啓のようなもののせいで、人間が諦める、というシチュエーションが現代では減ってしまって、それがストレスが溜まる要因になっているのではないかということだ。
もちろん、自然災害も人が亡くなったり避難が長期化したりするのは耐え難い困難であり、苦痛である。そしてそうした苦難のなかにいる人は確かに存在する。そこはしっかりと指摘しておきたい。
ただ、日常のなかに自然や天啓のようなものが常にあり、自分自身に全然関係ないところでどうしようもなくなってしまうことがそれなりの頻度で起こる社会ってのは、結構諦めがつけやすく、ある種「楽」なのではないか。
おわりに 自然や天啓のせいにできる「楽」さ
今日の大雪の大変さのなかに、大雪のせいにできる「楽」さがあったためにこんなことを考えた。