ただの水に「ほぐし水」などと大層な名前を付けるんじゃないと思っていたのだけれども
はじめに は? ただの水でしょ?
コンビニで蕎麦的な食べ物を買った時、硬くなった麺をほぐすために、専用の袋に入った水が付属していることがある。
てめ〜〜〜〜〜っ、ただの水のくせに生意気だぞ! という気持ちだ。
本来、カップ麺やコンビニの弁当などの中に入っている小袋には、それ相応の液体が入っている。
我らが道民の誇り「やきそば弁当」の小袋には、美味しさの根幹をなすソースやかやく、伝説の中華スープの元など、キャラの濃いメンツが揃っている。
https://www.maruchan.co.jp/products/search/205405.html
私たちはカップ麺については、少なくともあの小袋達に金を支払っている部分がある。
一方、蕎麦についてくる「ほぐし水」はどうだろうか。もちろん外で食べるときに水が近くになく、ほぐす必要があるということはよーくわかる。
だがなぁ、入っているものに対して、その扱われ方は丁重すぎないか? と思うことも多いのだ。
例えば近世大名が使う輿のなかに俺が入っていたらおかしい。もう少し現代的に譬えると、アホみたいにでかくて黒塗りのリムジンの後ろの方から颯爽と俺が飛び出てきらたおかしい。
生意気と思われるかもしれないが、俺はほぐし水にそんなに偉さを感じない。小袋の中に入る液体にも格というものがあるだろう。
ということで俺は社会に対し反抗的な態度に出て、ほぐし水をぶん投げ、水道水先輩をコンビニ弁当の蕎麦にかけてほぐしていた時期がある。
理解するための「役割水」という概念を提唱してみよう
役割語という概念がある。
主に日本語において、特定の属性(「博士キャラ」「おじいさんキャラ」や「お嬢様キャラ」みたいな)に、役割を持たせる特徴的な口調や語尾があることについて指摘し、その淵源や効果について論じたもの。身近でキャッチーな研究で、2020年代でも参照され語られる概念だ。
さてこの成果を水に対して援用? してみよう。
「ほぐし水」はただの水なのだが、大層な名前と包装で我々を出迎える。水と丁寧な梱包とにギャップを感じることもあるが、そのギャップは「役割」で読み解くと「ほぐせる」のかもしれない。
実際水には、ただの水だがその場で役割を果たしている言葉がある。
呼び水
呼び水という言葉がある。井戸からポンプで水を汲み上げる際に、ポンプの中に水が入っていないと地下の水を汲み上げられない。
もちろん呼び水はただの水だが、水を汲み上げるために立派な役割を果たしている。手押しポンプの時代は遠くなったけれども、現代の機械式ポンプでも呼び水は使われているし、そしてなにより「物事のきっかけになる」という比喩表現としても現役だ。
死に水
人が最期の時を迎えるとき、役割を果たす水がある。
最期に水を飲ませてあげるってのは、逃れられない死に対して、現世に残る人間がこれから旅に出る人にできるわずかな行動だ。またより儀式的に、死後に脱脂綿などで水を唇に添える行為も行われる。
そんな人間らしい、優しい行動に使われる水は、ただの水だ。
でも、ここでは確かに、ただの水なのに大切な役割を担ってる。
おわりに 役割を持つ水には名前がつき、丁重に扱われる
挙げた事例以外にも、例えば「冷却水」みたいに近代の工業化の中で熟語的に役割水となった水もある。
こんな感じで、特定の役割を果たす水は概念化され、そして役割を果たすゆえに丁重さを以て扱われる。
川の水や蛇口から出る水とは、似て非なるものなのだろう。いや、そのものでありながら、同時に非なるものなのだろう。
ということで、俺は「ほぐし水」とちゃんと仲良くなれそうな気がしてきたのだ。