見出し画像

マイクに対する無力感は異常だ


マイクという道具の役割

人前で話す機会があるので、マイクを使うことがある。いろんなマイクがあるけれどもいつも笑ってしまいそうになる。費用対効果が謎だからだ。

特に固定式のマイクはやばい。

私は喋っているだけだ。するとマイクが音を拾う。適切に音量が調整されており(あるいはそうでなければ適切に音量が調整されることになり)、たくさんの人に声が届けられる。

講演会とかならまだいい。その場の人に声が届く。ところが最近気がついてしまったのだがzoomとかで会議するのがかなりやばい。

ここ10年くらいだろうか、最近になりマイクは、ついにインターネットの向こう側にも声を届け始めた。

講演会なら、まだ俺が大声を出しまくればなんとかなるレヴェルだった。俺がいくらヨーデルとか遠くまで声を届ける技術に優れていたとしても、インターネットの向こう側には声を届けられない。マイクはしれっとそれを可能にしている。ついにここまできていたか、ということに改めて認識されされる。

しかのみならず、このウェブ会議は録画されています、ですって!! これでついにマイクは時空間を超えてきた。俺の声を時空間を超越させにきている。

マイクのヤバいところ

でだ、遠くに声を届けるというマイクの特性を述べてきたのだが、これはマイクのヤバさの本質的な部分ではないと、個人的には思っている。

マイクのヤバさを奈辺に求めるかというと、それは自分で何もしていない度合いがクソ高いところにある。

たとえば、お箸は便利だ。ご飯を食べる時に使う。この時私はお箸を持ってご飯を食べるわけだが、それなりにお箸を身体というか手先で動かして使用する。このパソコンだってそうで、キーボードやマウスを操作しながら物事をこなしていく。服を切る時だって脱ぐ時だって身体を用いる。

大体の道具や身の回りのものは、身体を動かしてそれを操作する。

マイクはどうだろうか。私たちはマイクに対して特に何もしていないのだ。いやマイクに向かっては確かに話してはいる。だが、それだけなのだ。話しているという身体動作のかなり低いものだけで、あとはマイクがなんとかしてくれているのだ。

そしてそのなんとかしている内容は、聴衆に声を届け、インターネットの向こうにいる人に声を届け、そしてアーカイブされて未来の人々に声を届けるという激烈な効果を伴っている。

この費用対効果の謎加減が、私をして「マイクに対して俺なんもやってねえな・・・」という気にさせ、この無力感に笑ってしまいそうになるのである。

マイクに対して私たちができること

マイクに対して私たちができることは思った以上に少ない。以下に、私が講演会などで行なっている、マイクに対する行動について触れてみたい。

スイッチのオンオフを確かめる

これが私たちのマイクにできることの常道である。王道と言ってもいいかもしれない。話始めた時にマイクが入っていないとちょっとつまずくからな。確認をこめてマイクのスイッチを確かめる。このとき、例えマイクのスイッチに明らかにランプがついていてオンになっていたとしても、露見しないように少ない態度で一度オフにするくらいは主催者側に対して失礼にはならないだろう。

これが私たちにとってマイクに対してやってあげられる随意的な身体動作の代表なのだが、最近のマイクは電源が別でコントロールされていたり、パソコン上でマイクの接続を管理したりするのでこの素晴らしい営為が実現困難になっていることを付言せねばなるまい。

マイクをトントンし、あーあーとかいう

これも自然な営為だ。マイクの接続を確かめるあれだ。特に細かくは論じない。

マイクの電池を確かめる

マイクの中にある電池を確かめるという行為も、私たち人類がマイクに対して行える少ない行動の一つと言えるだろう。ただし、前述のオンオフを確かめる行為と比較する時、この行為はかなり生産性が低いと言わざるを得ない。

まず、電池が入っているかどうかを確かめたとして、電池の残量までは確認できない。それにガチャガチャと講演会や研究発表の前に電池を確認するのは衆目や主催者に対していささか礼を欠く振る舞いに思う。また遠隔で電源を取るマイクも多い。

以上をまとめると、マイクの電池を確かめる行動は費用対効果をかえって下げかねないことが判明してくる。

マイクを握ってぶんぶんする

もちろん振り回すほどではない。マイクをぐっと掴み、前後に振る。揺り籠を動かす時のような緩慢さで、ぐっと掴んだマイクを、講演会や研究発表の前に、揺らす。フリフリする。

これはおすすめだ。かなりマイクに対しでできることのうち、デメリットなく行なうことができる。

私はよくマイクに対する無力感を解消するためにマイクをぐっと掴んでこれをやっている。

弱点は意味がないことだ。だが、マイクに対する我々が持つ無力感を解消するためには重要な意味を持つように思う。

おわりに

いかがだっただろうか? マイクはその効果に対して身体を動かして使用している感が極めて希薄な道具だ。こんな道具は滅多にない。だから私は毎回この道具に無力感を感じたり、あるいはうっすら恐れを感じているのかもしれない。

何か自分から、マイクに振る舞いを向けたい。マイクを道具として身体を以て使いたい。そんな時はマイクを持ってフリフリすることがおすすめだと書いた。この営為は諸賢が明察のとおり無意味だ。だが、無意味でありながらマイクの持つ「身体を使わせなさの絶対性」への対抗手段となりうるのだ。そう信じている。


いいなと思ったら応援しよう!