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ヒゲを剃るのが3日に1回くらいの社会にならないかな


はじめに 髭はちょっと長いほうが剃りやすい

何年も生きてきて最近ついに気がついてしまったのだが、3日くらい放置したほうが髭が剃りやすい。

長いほうがしっかりと剃れるし、なんだか肌へのダメージも少なそうだ。

髭が伸びるスピードは個人差があるから、3日に1回はあくまで私の頻度だ。今回の趣旨は、ちょっと伸ばしてから剃ったほうが剃りやすいし、肌へのダメージもなさそうということだ。

ちょっと髭生えててもいいじゃないかという世界線

俺たちは仕事をしている。より正確にいうと朝髭を剃って仕事をしている。仕事では成果物をあげる。物理的なものであっても形のないサービスであっても、一定の期限を目安に何か形を残す。

そこに、髭を剃ることは関係があるだろうか? と思うことがある。

たとえば営業職など対人関係に依存する仕事だったら、見た目は重要かもしれない。だが、今日は頑張ってこの点にも踏み込んでみたい。

仮にもし、社会のほとんど大多数の人間が、別に髭は3日に1回くらい剃るのでいいじゃあないか、と思うようになれば、あらゆる職業人が毎日髭を剃らなくても良くなる。

意外に頑張れば、これはクリアできるのではないかと思うのだ。


「清潔感」に対抗するための概念としての「不潔感」

「清潔感」は残酷な言葉だと思う。身だしなみや、時にはその人の挙措すら「清潔感」を図る指標になる。その人を観察する側に「清潔感」を評価する権利があり、自分で自分の「清潔感」を絶対的に定められないところに「清潔感」の残酷さがある。

この「清潔感」で人は他者をコントロールしてしまいうる。

今回の例えで言うと「髭を剃ったほうが「清潔感」がありますよ」「髭を剃らないのは「清潔感」がないですね」と言われてしまってはそれまでなのだ。

ここでは「髭を剃ると清潔になるか」あるいは「髭を剃らないと不潔か」は思いっきり捨象されている、髭を剃らないことで疫病が蔓延するのであれば、髭を剃ったほうがいい。家帰って手を洗ったほうがいいのと同じだ。でも、ちょっと髭生えるくらいで人類は死なない。

「清潔感」はそこに感情と感覚の物差しで残酷にも踏み込む言葉だ。

そこで私は「不潔感」と言う言葉で、これに抗したいと日頃考えている。

「でもそんなに「不潔感」もないですよ実際」とか「髭剃っても「不潔感」にそれほど差異でませんよ」みたいに、「清潔感」の持つ邪悪さを取リ祓うダークヒーローみたいな言葉として「不潔感」を考えているが、まだ言葉として自分の中で醸成されていないのが現状だ。

実際の清潔/不潔の次元と、「清潔感」「不潔感」の次元との機微は、これからも測っていきたい。


おわりに 人口減の時代と楽をすること

私たちは、ほぼ初めて社会経験として人口漸減の時代を過ごしている。疫病とか戦争で一気に人口が減るわけではなく、社会動態としての人口減の時代を生きている。

そんななか、いつまでこの水準のサービス環境を維持できるだろうか? とふと考えることがある。

24時間いつも大変叮嚀な接客をするコンビニエンスストアは、こんなにも必要だろうか。日々送られてくる小口の荷物に、こんなにも梱包をすることは必要だろうか。

次第に社会のどこかを、引き算して過ごすことが必要になってくるのではないか。あるいは、引き算の可能性を模索する必要が出てくるのではないか。

私たちは減っている。だから、どこかを緩めて楽をしてやらないと、パンクしてしまう気がする。

髭剃りの間隔と、剃ってない髭に関する感覚を緩めるのを、社会が楽する一具体例として考えてみた。


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