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こら〜〜! ラーメン屋に対して「昔と比べて味が落ちた」とか言うやつ〜〜〜〜!!


「昔より味が落ちた」とか言うやつ

よく、「一家言あります」的なおじさんやおばさん、あるいは若者、あるいはいずれかの人々が、地元の長くあるラーメン屋に対して

あそこは昔より味が落ちた。
代替わりして味が変わった。
高校時代の想い出のラーメンと味が変わってしまい残念

一家言ありますおじさんと一家言ありますおばさん、あるいは若者の評言

とか言うことがある。

こら〜〜〜〜〜〜〜〜〜!! という気持ちだ。

今日はこの台詞がいかに良くないかについて語る。

「昔より味が落ちた」というセリフの問題点

「昔より味が落ちた」はかなり生産性のない台詞だ。この言葉は結構言われがちだ。皆さんの中にも聞いたことのある方いらっしゃるのではないか。

もちろん実際に味が落ちた事例もあるだろうし、そうしたことを食べた際に感じることもあるだろう。今回は、それをわざわざ口に出して何かのタイミングに表明するところに批判の焦点を合わせたい。

以下いくつかの論点から具体的に考えてみよう。

1-1 普通にお店の人に失礼

この「昔より味が落ちた」は当事者にとってつらい台詞だ。ラーメンを批評する職能にある人物でもない限り、言葉にしない方が良い。

たとえば、ご主人が亡くなって、奥さんだけになって味を継いでいる店がある。うちのちかくには、老齢になった奥さんが娘さんと一緒になって作っている店がある。普通に食べていればうまいのだが、頻繁に「あそこは先代が死んでから味が落ちた」と言われまくる。

これは本人たちにとってはかなり辛いことなのではないだろうか。もしかしたら本当に味は落ちたのかもしれないが、そこは黙っておれよという話だ。

ちなみにその店は先代の味がどうとか考えなければ普通にうまいので、客足は悪くない。「昔より味が落ちた」という論評があろうとなかろうと店が潰れることは今のところなさそうだ。

1-2 自分の味覚が不確かな可能性

「昔より味が落ちた」と本当に言い切れるのか? いつも疑問に思っている。たとえば、若い頃と味覚が変わった可能性はないだろうか。あるいは、自分の中で味の思い出を美化させすぎていないだろうか。

味は極めて抽象的だ。日記とか、条例の制定とかと真っ向から対立する。流動的な存在だ。味ははっきり記録できない。味は私たちの身体で覚え、脳内の思い出に刻まれている。

ここにはあまり客観性がない。「昔より味が落ちた」を証明する手立てが極めて乏しい。自分の身体や脳みその思い出の方が変質してしまっている可能性がある。

そのため、ラーメンについて述べるのであれば何味で何が入っているのかなど客観的な話から始めて、今時点でそれが美味しいかどうかを論じるべきし、今の美味しさを楽しむべきだ。他者に伝える際、その他者は「味が良かった昔」は絶対に味わえない。現在のラーメンを基準に思考し、楽しむべきだろう。

1-3 あえて味を変えている可能性

時代の中でラーメン屋があえて味を変えている可能性がある。そうして現在生き残っているのであるから「昔より味が落ちた」批判はここでは完全に空振りになる。

もう届かない昔を主語に語るべきではない

おおよその問題点は、比較検討ができない昔の味と今の味とを比べてしまっているところに尽きる。

「昔より味が落ちた」勢力は完全に見えない敵と戦っている。あるいは闇の中で自分自身の幻影と闘っている。

もちろんまずいラーメンはある。そして、昔より味が落ちたラーメン屋もある。問題はそこではない。「昔より味が落ちた」と表明しラーメンを描写するところにある。

「昔より味が落ちた」は今を全く語っていない。今のラーメンが今うまいかどうかをほとんど見ておらず、昔の味に全てが引っ張られている。今ラーメンを食べているのに、頭の中はもうどうすることもできない昔のことを考えている。

説明は他者に伝えるために行うものなので、この「昔より味が落ちた」という説明は客観性を担保し得ない。何回も書くが今どうなのか? に重点を置いて、過去との比較に比重を置かずに説明したほうがいい。

ラーメンは今うまいか、まずいと感じるかで判断するべきだ。うまくないなと思ったら別の店を考えればいい。今と未来を考える所作をとるべきだ。

昔と比べてうまいかどうか? は悪手だ。大抵の場合思い出は美化され、昔が勝ってしまう。昔は今に対してハンデを持っている。そうしてなされる評言「昔と比べて味が落ちた」は発言として意味をあまり有しない。

おわりに

こんな感じで「昔より味が落ちた」はかなり危険な発想だ。自分の中で答えが決まっているものを、さも大きな理由として掲げてしまう危険な構造がある。

これらのセリフを臆面もなく発する人々は、記憶にがんじがらめになり今目の前にあるラーメンの是非を、今ここの味覚においてすら判断し得なくなる。昔という強き幻影の前に食べているラーメンを引き摺り出し、半ば決まり切った神事の相撲のように思い出のラーメンを勝たせている。

この台詞を、さも一家言ありますという振る舞いで言われたらたまったものではない。記憶の袋小路に自ら無自覚に入り込んでいる。ところがセリフを言っている側は、自分がラーメンを判断する側であるという自信に満ち溢れ、言葉にする。

この切なさに、私はいたたまれなくなる。

「昔と比べて味が落ちた」という人は、畢竟今を生きていないのだ。眼前のラーメンは思い出のためのダシにすぎないのだ。

以上述べてきた通り、私はこの評言に断固として反対する次第だ。

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