例え話というものは、例え先と常に微妙にズレる
「それは例えとして適切ではない」と言われることがあるが、実はそれって普通なのではないかという話。
例えの共通点と差異を見つけることの虚しさ
何かを何かで例えた時、「その例えは例えとして適切ではない」という批判が必ずと言っていいほど出てくる。私はこれは実は普通のことではないかと思っている。
世の中、完全に同じになる事象はない。何かある物事を別の物事で例えた場合かならずズレる。かならず、多少ズレる。なぜなら、物事Aと物事Bは別のものだからだ。
物事Aを物事Bで例えることで、それらの共通点から物事Aへの理解を深めることが例え話の分かりやすい役割だ。こうした役割に対して、AとBとは実は異なるのだという批判は成立しやすい。例え話として適切か否か? で議論が進んでいく。
つまり「共通点⇄差異」に焦点が当てられるわけだが、これって振る舞いとしてよいのだろうか?
なんだか間違い探しや合ってる探しをしてそれで私たちは話を終わりにしてしまっていないだろうか?
個人的に思う例え話の役割 解像度を上げるデバイスとしての例え
先ほど述べた通り、例え話は絶対に正確な例え話にならないと思っている。だからあってる間違ってるの議論は多分にナンセンスな要素を孕む。
どちらかというと例え話は物差しや分度器や平行器やマスキングテープのように機能すると考えている。
物事Aに対して、物事Bで例える。物事BはAと共通点も差異もあるが、Aを理解するために、Bが物差しの役割を果たす。これが例え話の役割と思う。
ここでAとBを単純に比べるのはナンセンスだ。BでAを推し量ることこそが例え話の役割だ。
繰り返しになってしまうけれども、物事Bで例えてやることで、Aという事象の解像度を上げることが例え話のキモなのではないか、ということだ。
地図にBというポイントを落としてやることで、Aの位置やAへの道筋がはっきりわかるというような感じだろうか。
ということで、AはBと共通点があるかないかをいつまでも話ししていても仕方がない。Bによって、Aのいかなる要素を明らかにし得たかを議論するべきだし、例え話の巧拙や、例え話を用いての議論の成否はこの点において決まるものと思っている。