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「話が脱線する」の言葉としての終わり


はじめに

「話が脱線する」という慣用句がある。話の流れから逸れてしまい、違う話題になってしまった時に使われる。

話の流れが逸れてしまうことってのは実際に結構ある。「話が脱線する」というのは、自分でも「話が脱線してしまいましたが……」と発話することもあるし、相手から「話が脱線してるぞ」と言われることもあるし、第三者から指摘することも可能である。便利な言葉だ。

ただこの言葉は、そろそろ終わりかなと個人的には感じている。その理由について述べていこう。

1 「脱線する」の大ごと具合

端的に理由を述べると、「脱線」があまりに大事だからだ。「話が脱線してしまいましたが……」と言うとき、実際の脱線事故とことの重大さについて比較してみてほしい。

話の脱線は、あまりに状況がカジュアルで軽微ではないだろうか。

個人的に、この例えはたとえ元(脱線)とたとえ先(話)とに、ことの重大さに著しい乖離があるように思っている。そのため次第に言葉としては活性を失い、話す人が少なくなっていくのではないかと思っている。

このことについて、「脱線」という状態についてもう少し深掘りしてみよう。

2 古い時代、「脱線」はもう少しカジュアルだったのではないか?

鉄道と言っても昔はいろんな種類のものがあって例えば北海道の道東では簡易軌道という小さな鉄路があった。

釧路の博物館でこの記録集を購入して手元に持っているのだが、昭和の当時だと結構簡単に脱線していたようだ。根釧台地では雪や雪解け、あるいは雨で大地が緩み、線路から脱線してしまうことが頻繁にあったという。地域の人々が協力して立て直して、再び鉄道を走らせていた。

またちょっと想像になってしまうのだけれど、昭和の時代では炭鉱や工場や土場などでトロッコを使うことも多く、これらも業務のなかでそれなりの頻度で脱線していた可能性が高い。

こうした脱線は現代の脱線と比べるとより軽微で身近な存在だ。簡易軌道もトロッコもスピードは速くなく、よって脱線によるダメージも軽微。先述の通り線路としての脆弱さによる脱線の頻度も高い。

「脱線」は昭和の時代は現代よりカジュアルに発生してたと考えられる。

3 現代の「脱線」の重篤化

ひるがえって現代では、脱線が重大な事故につながりやすくなっている。

これは、昭和の時代の裏返しの事態が進行しているために他ならない。すなわち鉄道がものすごく高速化し、かつ安全意識の高まりから脱線を起こしにくい機構へと整備されている。事故が起こったら一つ一つを重く受け止め、再発防止に努める社会へと変貌している。

脱線事故が重篤な問題を引き起こすために、なるべく起こらないように整備をしているということになる。

2024年末も熊本市電の脱線がニュースになっていた。鉄道は脱線しないことが当然になり、脱線は重要な事態として受け止められる。

他方、お話ってのは論文じゃないんだからはずみでいろんな方向に行く。これが日常のコミュニケーションというものだ。ある種カジュアルで、昭和の時代から性質は変わらない。

ここにおいて、慣用句としての「話が脱線する」と実際の脱線との間に乖離が生ずる結果となった。

4 「話が脱線する」の他の言い方

話を「話が脱線する」という言葉に次第に戻していくと、こうした事情のある「脱線」という言葉なのだが、わりと言葉としてライバルが多いことに気がつく。

例えば「話が横道に逸れる」で簡単に言い換えができてしまう。横道と脱線。脱線にことさらなインセンティブはないように感じる。他にも「話が本筋から逸れる」などの言い方もあるだろう。

言い換えができてしまうところも「話が脱線する」の弱点だ。

おわりに

ということで、私たちはそろそろ「話が脱線する」を使わなくなっていくのではないか? という文章を書いてみた。社会の変動で言葉の重さが変わり、慣用句が次第に使われなくなっていくのではないか、ということだ。

その際、後半で述べたような代替候補があるかどうかも重要な気がしている。

例えば「呼び水になる」という言葉がある。「呼び水」をカジュアルに使う時代は遠くなったのだが、いまだ代替候補のない言葉と思う。こうした言葉はしたたかに生き残るだろう。

一方でライバルの多い言葉はとって変わられてしまう可能性が高い気がしている。

「話が脱線する」は、みんなで脱線を直していた行きし世とともに去っていく存在なのかもしれない。



note書き初めということで、今年初の執筆。こんな感じの内容を今年もどんどん書いていこうと思います。どうぞよろしく。

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