音姫のうち、自動で音が流れるタイプについては廃止した方がいい
私はこのタイプの音姫に納得がいっていない。
うんちの音を消すシステム 音姫
我々人類というか日本人は、ある段階でうんちぶりぶり音を周りに聞かれない方が快い(恥ずかしい気持ちにならない)ということに気がついて、そして公衆トイレでうんちをするボックスの中に音姫という排便音を誤魔化す装置を実装させた。爽やかな水の流れる音がする。その裏ではぶりぶりとうんちをしているわけだが、それを爽やかな水の流れの音でかき消すのだ。
このこと自体は、私は何らの異論はない。うんちの音が都市部の公衆トイレという人口密度の高いところで放たれることは、確かに恥ずかしい。それを爽やかな音でかき消すことは別に悪いことではないように思う。また元来の出発点である、恥ずかしいから水を流すことで排便音を紛らわせるという環境負荷に対して、鮮やかな解決策を見せたとも思う。
ところがだ。
最近、便座に座った時点で自動的に音姫システムが作動するトイレが増えてきていないだろうか?
今日はこれを問題としたい。
自分でボタンを押すタイプの音姫と、勝手に音姫が作動する音姫
論点を整理すると、音姫には大別二つのグループがある。
我々人類がボタンを押すことで作動するタイプの音姫。そして、最近増えてきているなんか知らんがいいタイミングで勝手に音姫音が流れ始めるタイプの音姫。
似たようなシステムだし、なんなら後者は前者の進化系かのように思う人も多かろう。
ところがこの二つには厳然たる差異があると、私は考えている。
自分でボタンを押すタイプの音姫
自分でボタンを押すタイプの音姫は良い。これは、自分の意思でボタンを押し、あの例の爽やかな水音を惹起させる。自分の随意性をもって、これを行う。私たちはうんちしているときに音がちょっと気になって恥ずかしいから、音姫を自分の意思で発動させてきた。
これは何らの問題もないように思う。
勝手に音姫が起動するタイプ
最近都会で増えてきているこのタイプは本当に良くない。
ちなみに私は、別にうんちの音が他の人に聞こえても気にならない。だってこれは旧石器時代から我々がずっとさせてきた音だからだ。今更個人的に恥ずかしいからといって、うんちする時の音が人類の中で消え去ってしまうわけではない。自分が恥ずかしかろうがなかろうが、ひとまず何万年も私たちはうんちをする際に音を出してきた。この歴史を思う時、乙姫をしてうんち音をかき消すことは、焼け石に水というか暖簾に腕押しというか、効果は薄いような気がするのだ。
すなわち「うんち音はする」という厳然たる事実のまえに、音姫は無力なのだ。
もちろん、気になる人はいるだろうからそうした人が音姫を随意的に用いることは何らも問題ではない。私は気にしないけれども、他の誰かのうち気にする人がいれば使うべきだ。
ところがである。
勝手に音姫が鳴るトイレがあるのである! これは私の、べつにうんち音がしてもいいなぁという思想を侵害してきているのだ。わかりますかね!! 私は別にうんちの音がしていても普通だと思っているんです。それを踏み躙り、勝手に音姫が私のうんちの音をかき消そうとしてくるのである!!
これは私の思想を侵害してはいないだろうか。勝手にうんちの音をかき消してくる。正直やめて欲しい。上の、音姫を鳴動させるかいなかを選べるシステムにして欲しい。
そう思うのは私だけであろうか。
システムが文化を規定する可能性
さて、音姫が私の意思に反して勝手に鳴る問題について論じてきた。単純に私の思想を妨害していくるにとどまらない問題がここには含まれていると考えている。この章でもう少し深掘りしてみよう。
今一度、音姫を自分の意思で鳴らすか、勝手に鳴るかの問題に立ち返りたい。前者の論理は明確だ。自分が恥ずかしいから、鳴らす。自分の意思で判断している。ここでは、別に恥ずかしくないから鳴らさないという選択肢をも含むことは贅言する必要性もないだろう。
さて後者について考えてみよう。私たちが便座に座った時点で勝手になっている音姫は、一体誰の意思で鳴らしているのか?
それは恐らく、世間一般にうんちの音は他の人に聞こえない方がいい、という推論・ふんわりとした合意の上に成り立っている。多分周りの人が気になるだろうからなぁ、という判断により自動で音姫システムが発動するのである。
ここに前者と後者の明確な違いがあることがお分かりいただけるだろうか。前者は個人の意思を出発点に振る舞いが決まっている。
ところが後者は、誰の意思でもない。何となく「世間」「他の人」が「気になるだろうから」という次元で物事が進んでしまっている。ここに明確な個はいない。社会とか世間様とか、そんなふわふわしたものが論の出発点になっている。
よく「みんながそういっているから」といって相手を説得しようとするケースがある。意外に「みんなって誰?」というと反論ができなかったりする、あれだ。
私たちは結構「空気を読む」「場の空気」「巷で話題」みたいなふわふわした誰のものでもない論調に動かされることがある。丸山眞男の論じた「無責任の体系」を引いても良いし、あるいは藤田省三の「「安楽」への全体主義」を想起しても良かろう。
実は自動で起動するタイプの音姫はこれなのではないかと普段から考えている。みんな気にするだろうから・・・という、ふんわりとした世間への配慮の結果、あまねく自動で音が鳴るようになっている。
初めは、世間的に良かれと思ってこうした自動化は実装されたのだろう。
ところがこうしたシステムが実装されることで、かえってこの事実が真であることを補強し続けてしまうという問題がある。すなわち音姫を自動化することで、みんながうんちの音を気にしているし、うんちの音を周りに聞かれない方が良いのだ、という認識を強化させてしまう結果を生じる。
昭和の時代。誰しもが普通にぶりぶりうんちをしていたように思う。水洗トイレですらなかったわけだからね。そこから時が経ち、令和にはうんちの際に水音で誤魔化すシステムが実装された。
それが人々の意思とは関係なく便座に着座した時点で流れ始めることで、私たちは「うんちの音は恥ずかしい」「うんち音は他の人に聞かれない方がいい」と無意識のうちに強固に刷り込まれてしまわないだろうか。
私が真に問題としていることはここにある。
おわりに 私たちの認識が変えられる時
ということで、自動で流れる音姫についての危険性というか可能性について論じてきた。すなわち自動で流れるという無条件化が達成されることで、私たちは「うんちの音は恥ずかしい」「うんち音は他の人に聞かれない方がいい」という常識を得てしまう(少なくとも強化してしまう)可能性があるということだ。
何となく、誰の意思でもないふんわりとした技術革新により、私たちの「常識」が変貌してしまう。はじめは水の節約のために導入された音姫が、ついにはうんち音はすべからくかき消すべし、へと地歩を進めようとしている。そこには主体性のない自動化が影響をしている。
音姫が自動化されることで私たちの恥の感情が変わってしまう。このミーム災害・認識災害をどう処理するか。私は自分でボタンを押す音姫タイプのみ戻すべきと考える。