(感想)星野智幸×豊崎 由美 、ハン・ガン『別れを告げない』(白水社)を読む

筆者は、第三批評創刊号に「アジアに記憶を預ける-『別れを告げない』にみる距離と人情」という批評文を書いた。そこでは、作中におけるソウルと済州島の距離、自分が今いる場所と故郷である神戸の距離、日本とアジアの国々の距離を主題とした。

そして、上記創刊号発売を今週末に控えた今日、ことばの学校三期批評クラスで教わった豊崎由美さんと、筆者が大学時代に参加していた創作のゼミの講師であった星野智幸さんが『別れを告げない』について語るということで、会場のPASSAGE bis!にお邪魔した。

対談は、『別れを告げない』の素晴らしさを語る言葉が尽きないというもので、次々となるほとど頷かされる視点が提示された。

特に、柔らかいものでありつつ堆積することで様々なものを隠ぺいする雪、『すべての、白いものたちの』とのつながり、詩の言葉(時間の経過を描かない)と小説の言葉の融合、死と生を同じ地平で描くための表現など、興味深いものばかりであった。

筆者は最後に質問の機会を得て、本作における加害性の位置づけについて質問すると、本作も含めて、ハン・ガンの作品には「やましさ」が書き込まれているという回答をもらい、様々考えさせられた。

以下、ざっと考えたことを。

本作における加害性が、虐殺行為を行った国家や政権にのみ帰するものではなく、個々の登場人物にやましさを生じさせるという形で描かれるものだとすれば、それは本作が、前述のような詩の言葉を小説に組み込むことと関わりがあるのではないか。

小説では、登場人物の立場や位置関係を描くことが必要になる。またその関係の変化が、時間の経過の表現にもなる。本作のような歴史的事実を素材としたものであれば、より各アクターの関係と関係の変化に興味が集まる。その結果、小説の中に加害者と被害者という関係が生まれる。

だが、詩の言葉は、関係性を描く必要がない(関係を名付ける必要がない)。関係として説明しなくても、今日のイベントで語られたように、自分でもあり、(死んだ)他者でもあるという状態を言葉にできる。

小説でも、加害者「であり」被害者「でもある」登場人物を描くことはできる。だが、小説のそれはしばしば単なる両者の組み合わせに過ぎず、同時に、一つのものとして描くことは容易ではない。詩の言葉の導入は、一つのものとして描くための、手引きとなる。

やましさ、とは分けない(分別をつけない)ということではないか。冒頭に交わされた『別れを告げない』というタイトルに関するお二人の議論と、最後にいただいた回答を併せて、そんなことを思った。

イベント詳細は以下
【現地参加・オンライン視聴】2024/11/27 (水) 19:00 -20:30 星野智幸×豊崎 由美 、ハン・ガン『別れを告げない』(白水社)を読む | ニュース | 好きな書評家、読ませる書評。ALL REVIEWS

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