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「合理的配慮の限界」
いつものように、バスに乗った。
昼下がりだったためかバスはさほど混み合っておらず、電動車椅子でも比較的スムーズに乗り込むことができた。
運転手の対応も丁寧で、物腰も柔らかい。
障害者対応には、慣れているのだろう。
いつものようにスマホのメモ帳を運転手に見せ、終点で降りることを伝える。終点ならば次の発車までに時間があるから、降りるのも余裕があるだろう。
終点に着いた。
乗客がひと通り降りるのを待って、運転手が電動車椅子の固定を解除し、バスのスロープを用意する。
そして、いつものようにバックの恰好でスロープを下り、バスから降車。
運転手の的確なガイドのおかげで、特に危なげもなく降りることができた。
バスに乗り、最寄り駅まで外出をする。
ありふれた、日常の光景になるはずだった。
バスから降り、目的のコンビニに向かって進んでいこうとする私の背中に、運転手の吐き捨てるような声が聞こえた。
「礼ぐらい言えよ」
聞こえるか聞こえないか微妙なボリュームではあったが、確かに私の耳に届いた。
北野映画なら「バカヤロー」とついていてもおかしくないような、粗雑な口調だった。
運転手としては、「聞こえてしまっても仕方ない」と思っていたのだろう。
あるいは、聞こえるように言ったのかもしれない。
もちろん、誰かからサポートを受けたら「ありがとう」というのは当たり前の礼儀だ。
だから私も、言語障害のため声こそ出せないものの、相手の目を見て軽く頭を下げることで感謝の気持ちを伝えるようにしている。
だが、シチュエーションによってはそのアクションがうまく伝わらないことも多い。
基本的には、「気持ちをうまく伝えられなかった私のほうが悪い」と思うようにしている。
だが、その一方で……。
バスの運転手側には、「合理的配慮」というものがある。
合理的配慮をものすごく乱暴に言い換えれば、「やって当たり前」ということだ。
そもそも、仕事なのだから。
にもかかわらず、そのうえで「礼」を求めるというのはつまり、「障害者へのサポートは善意である」という意識がはたらいているのではないか。
善意とはすなわちプラスアルファであり、「ありがたいもの」である。
「サポート=プラスアルファ論」の視点に立てば、運転手の粗雑なひと言にも納得できる。
プラスアルファであればなおのこと、礼を言うのが当たり前だからだ。
だが、「サポート=プラスアルファ論」は明らかに、合理的配慮の理念に反している。
あらゆるサポートが「あって当たり前」の社会にするために、合理的配慮という概念が生まれたのではないか。
サポートを受けた側が気持ちよく「ありがとう」と言うのと、サポートをする側が最初から「ありがとう」を期待し、要求するのは根本的に違う。
少なくとも件の運転手には、「合理的配慮」の理念が充分に浸透していないのではないか。
同じような「すれ違い」は、日本のあちこちで起きているのかもしれない……。
取るに足らない光景かもしれないが、「合理的配慮の限界」を感じずにはいられないのである。