岩倉とは何だったのか?
*前回のノートに続き、京都府岩倉について2016年に書いていた内容です。前回の探訪録から1週間後にアップしていました。乱暴な推論に過ぎませんが、なぜこのような歴史を辿ったのか、私たちはもっと考えてみるべきかもしれません。
2016年のノートーーーーーーーーーーーーー
京都の旅から戻り、岩倉の精神医療の歴史を調べていくうちに様々な思いが交錯しまとまりがつかなくなってしまった。「洛北岩倉と精神医療」などの中村治氏による岩倉の資料は、多くの情報を提供してくれたが、私の気持ちはモヤモヤしたままである。これから書くことは、わずかな時間の見聞と、限られた資料の斜め読みからなる思い込みにすぎないことを最初にお断りしておきたい。(以下、非常に長文で独断的な解りにくい文章が続きます。個人的な資料として書いているだけですのでご容赦ください)
私が引っかかっているのは、日本の精神障害者に対する地域ケアの歴史的な事例として紹介されきた岩倉地域が、なぜ現在においても大きな精神科病院が立ち並ぶ姿を見せているのかということである。もしもこの地域が古来から精神障害者を受け入れ、家族的な看護によって共生してきた場所なのであれば、もっと違った景色になっていたのではないかと考えてしまうのだ。
実際に数値で見てみよう。大雲寺がある京都市岩倉上蔵町の総人口は平成22年の国勢調査を基にした統計では2312人。(人口統計ラボ:http://toukei-labo.com)そしてここにある精神科病院のいわくら病院、北山病院、第二北山病院の病床数の合計は、1300床近くになる。人口の55%にあたる入院病床数を持つ地域であることがわかる。(2016年当時調べ)
中村氏の年表によれば、大雲寺に妙見の滝が作られ、参籠所が建てられたのが1709年である。欧米においても統合失調症の患者が急増するのは18世紀に入ってからであることから、患者数の増加に大雲寺が対応し始めた時期と考えてよいだろう。実に300年近い時間が経っていることとなる。この間、岩倉では精神障害者の受け入れを形を変えながら続けられていくのだが、以下中村氏の資料をもとにその経過をまとめてみる。
当初の形態は、大雲寺において精神の病を治療したい人々が集まり、参籠所にこもりながら加持祈祷や水垢離を受けるものであった。人々が集まってくるに従い、大雲寺の周辺に茶屋が出き、参籠所にいる人々へ食事の提供を行ったりしていたという。大雲寺に集まる人が多くなってくると、参籠所では足りなくなり、茶屋を営んでいた家が宿屋となったりしていく。この時代にも患者を参籠所以外に収容するのは問題視されていたようで大雲寺や実相院から宿泊の禁止の令が出ていたりしたらしい。しかし増加する患者に対応できず、寺が許可を与えて茶屋に泊まらせるようになっていく。こうした茶屋が保養所と名を変えて患者預かりを営んでいくことになる。さらに保養所にも入りきれなくなると、近隣の民家に預けるということも行われていった。実は、岩倉の地は公家とのつながりがあり、保養所を利用したり、民家に患者預かりを頼んでいた者の中には、身分の高い人々が多かったようである。そうでなくてもこの時代に患者を預けることができる人々は相当裕福であったはずである。
すなわち大雲寺の患者預かりの賑わいは、大雲寺にとっても茶屋や保養所にとっても大きな利益を生むものであったと考えられる。患者預かりを行った一般の民家にしても、貴重な現金収入の手段であったことであろう。ここまでが大雲寺・茶屋(保養所)・民家によって成り立っていた時代である。
大雲寺を中心とした患者預かりが知られている岩倉だが、実際にこの地の保養所がもっとも賑わったのは明治から昭和にかけての時代である。明治に入ると廃仏毀釈が進められ、大雲寺の後ろ盾であった実相院も力を失う。また1875年には、日本における最初の精神科病院として京都府癲狂院が南禅寺内に建てられ、岩倉の患者預かりは禁止されることとなる。ところが1882年に京都府癲狂院が財政難で閉院すると、患者の受け入れ先として再び岩倉に精神障害者が送られていくことになる。この時、岩倉の有力者たちは岩倉癲狂院を設立し、大雲寺の加持祈祷から、精神科病院での入院治療へと患者受け入れの中心を転換させている。しかし当時の保養所と精神科病院との間では対立があり、すぐには大雲寺時代のように相互依存の形とならなかったようだ。結局、行政が介入し、保養所の経営者たちも含んだ株式会社として岩倉癲狂院が運営され、後に岩倉病院となっていく。岩倉病院は、火災によって焼失するが火災保険によって再建され、日本でも有数の病床数を持つ病院へと大きくなっていった。(昭和10年の時点で440人の入院患者がいたとされている)
ここまでの時代は、病院と保養所によって成り立っていた時代と言っていいだろう。1900年に精神病者監護法、1919年に精神病院法が成立していたにもかかわらず、なぜ保養所が黙認されていたのかについては、岩倉病院の院長であった土屋医師が岩倉の患者預かりによる家族的看護を精神病の治療に役立つものとして病院の管理に置くと位置付けたためとされている。確かに岩倉の家族的看護の様子は呉秀三も評価し「日本のゲール」と呼んだとの記録が残されており、土屋医師もこの言葉を宣伝に用いていたという。ただしこれら家族的看護は正式に認められていたというよりは、行政との力関係で黙認されていたというのが実際なのかもしれない。しかし巨大化した岩倉病院は、第二次世界大戦中の1945年に軍によって接収され、事実上廃院となった。戦後、土地が戻されるが、結局京都府に売却され、府営団地となっている。
さて、現代につながるいわくら病院と北山病院の二つの精神科病院はどのように誕生したのか。いわくら病院は1952年(昭和27年)に岡山保養所の経営者によって設立されている。現在いわくら病院が建っている場所がかつて岡山保養所があった場所であり、病院を経営する医療法人の理事長の名前が岡山氏であることからも岡山保養所がそのまま現在に生き続けてきたということがわかる。もう一つの北山病院は、1954年(昭和29年)に城守保養所の経営者が設立した病院である。城守保養所は、かつての大雲寺の前に建てられており、現在の北山病院もその位置に建っている。1985年(昭和60年)に大雲寺が人災(大雲寺HPによる)によって焼失すると、その跡地にも北山病院系列の老人保健施設が建てられた。二つの病院が誕生した時代を考えると精神衛生法施行後であり、保養所の運営が事実上困難になった時期であることがわかる。さらにはいわゆる精神病院ブームの時期にも重なってくる。有力な保養所が精神科病院に転身したが、他の保養所や一般家庭では経営的にもメリットがなく、法的にも問題を抱えたことから、患者預かりを止めていった。岩倉における家族的看護の患者預かりの歴史は、ここに終焉を迎えることになる。
以上、大雲寺の加持祈祷から、大雲寺を中心とした茶屋や地域での受け入れの時代、精神科病院と保養所の時代、精神科病院の時代へとの変遷を駆け足で追ってみた。ここまで振り返ってみるとあることに気づかされる。
それは、岩倉の精神医療の長い歴史において、生き残ったのは2つの大きな保養所であったということである。北山病院につながる城守保養所の前身の若狭屋は1815年、いわくら病院につながる岡山保養所の藤屋は1882年に始まっている。(医療法人三幸会HPより)実相院と大雲寺に頼って営業を続けてきた茶屋は、保養所と名前を変えて精神科病院に付随することで精神病者監護法と精神病院法の時代を生き残り、第二次世界大戦後は精神科病院の不足を解消しようとする国の方策に乗って自らが精神科病院となることで現在に至るまでこの地で精神障害者の受け入れ先として存在し続けている。これはどういうことを意味しているのだろうか。
以下は、私の勝手な推論(暴論?)である。岩倉の地が精神障害者に対する地域住民による家族的な看護が展開された場所である事は、歴史を見てきた通り事実であるといえよう。しかしながらそれは、この地が精神障害者に対して理解があり、地域医療の先進地として共生社会を築いてきたということではないのではないか。
大雲寺及び実相院の経済基盤として、また地域の有力者となっていく保養所の経営とそれらに付随する地域住民の現金収入の手段として精神障害者の受け入れが積極的に行われたという視点で岩倉を理解すると、この地が共生の場ではなく、(他の地域、特に京都市街からの)社会的排除の受け入れ先としての機能を持つことで成り立ってきた地域であると考えることができる。
もちろん精神医療が進んでいなかった時代に幽閉されたり、閉鎖的な施設や後の精神科病院に閉じ込められていた人が多かったことを考えると、岩倉での処遇は家庭的でリハビリテーションや福祉につながる部分も大きかったことと思う。その点において岩倉が評価されることに関して異論はない。しかし結果的に特定の保養所だけが巨大な精神科病院として生き残ったという現状を鑑みると、その家族的看護自体が岩倉の寺院、保養所、精神科病院が存続し続けるための手段の一つにすぎなかったのではないかと思えてくるのである。
いわくら病院のホームページにある文章(2016年当時)を引用して紹介しよう。「1970年、理想に燃えた6人の青年医師たちがやってきました。その時から開放医療を目指すいわくら病院の闘いが始まりました」(http://www.toumonkai.net/co_navi/article/ERx20150519160220-45.html)
1970年代といえば、日本各地の精神科病院で同じような開放化運動が進められた時代である。もしも岩倉が地域住民による家族的看護が当たり前に行われてきた地であるのならば、精神科病院の開放化が他の地域と同様の1970年代であり、「闘い」とまで表現されるようなものであったというのは何とも不思議な印象を受ける。
この辺りのことについて、中村氏は「洛北岩倉と精神医療」の終章でわずかだが触れている。岩倉の精神科病院が開放化を進める中で、作業所開設の反対運動が起きるなど地域との摩擦が生じていたが、昭和60年には病院と地域の協定を結び、病院が地域に貢献する活動を行うようになったという。さらに地域住民の側も高齢化と介護の問題に直面するようになり、1990年代以降、精神科病院が認知症や介護を必要とする人を受け入れる施設を増やしていったことが紹介されている。こうしたことを通して地域の人々に障害を自分のこととして受け止める動きも出てきたとしている。
繰り返しになるが、こうしたことは他の地域でも同じような時期に起きていたことである。そして現在の岩倉が他の地域との違いを見せるのは、狭い範囲に精神科病院が立ち並ぶ姿であり、高い人口比の入院病床数である。さらにいえば、先述の通り現在の岩倉が高齢化問題の受け入れ先として機能し始めていることも象徴的なものを感じさせる。
岩倉の地を訪れて以来、私はずっとモヤモヤした気分を抱え、その正体が何なのかを1週間かけて考えてきた。それは精神保健福祉の分野で働く我々が半ば無邪気に信じ込んでいた岩倉の患者預かりの伝説とその肯定的な評価に対する疑義であった。そして歴史を捉え直していくことによって、この地が精神障害者と住民の共生(確かにそういう一面はあったものの)というよりは、より大きな構造を持つ社会的排除の装置として生き続けてきた場所であり、その中心となったのが保養所(及びその経営者一族)だったのではないかという仮説に思い至ることとなった。
もう一点、岩倉の歴史については、これまで精神医療史から述べられておらず、治療や処遇を行った側の視点からの評価がほとんどだったといえよう。この地に送られた人々にとって、岩倉で暮らすということはどういうことだったのか、精神保健福祉の視点での研究も必要なのではないかとの思いも強く感じられた。
…とはいえ、1週間考えただけで疲れてしまった自分には無理だなあ。
参考文献(サイトのアドレスは2016年当時のもの)
中村治 「洛北岩倉と精神医療 精神病患者家族的看護の伝統のの形成と消失」2013,世界思想社
中村治 「洛北岩倉」2007,明徳小学校創立百周年記念事業実行委員会
呉秀三,樫田五郎 著、金川英雄訳 「現代語訳 精神病者私宅監置の実況」2012,医学書院
小俣和一郎 「精神病院の起源 近代編」2000,太田出版
医療法人稲門会(いわくら病院)ホームページ http://www.toumonkai.net/index.html
医療法人三幸会(北山病院)ホームページ http://www.sankokai.jp/index.html
2024年のノートーーーーーーーーーーーーーー
今読み返しても少々乱暴な推論ではあります。岩倉を排除の歴史として述べていることに異論もあることと思います。もっとしっかり調べれば、この地域で何が行われてきたのか、より深く学ぶこともできるのではないかと思いますが、今はこの旅での想いを振り返るだけにしておきます。