岩倉探訪(2016)
*以下のノートは、2016年2月に所用で京都に行った際、半日ほど空き時間があったので精神保健福祉分野では有名な岩倉を歩いてみたレポートです。
今回は歩いたルートを振り返りながらのレポートで、これを書いた後でさらに調べて考察した内容を次回アップしたいと思います。いずれも2016年当時、別なSNSで福祉関係者の友人たち向けに書いたものです。
以下2016年2月のノートーーーーーー
私的な旅行で京都を訪れた。一人で過ごす時間があったので、かねてから訪ねてみたいと考えていた岩倉に向かった。岩倉は、大雲寺を中心に古くから精神障害者を地域で受け入れてきた場所として知られている。
京都駅から地下鉄に乗り終点の国際会館前で下車。改札を出てすぐの階段を登り、バスターミナルに止まっていた実相院行きのバスに乗り込む。最近よく見かけるコンパクトなタイプの車両だった。バスは、広大な敷地の同志社の高校と小学校の脇を抜け、山間の盆地の街を走る。叡山鉄道の踏切を越えて街並みに歴史を感じるようになると程なくして終点の実相院に到着した。観光地としても知られる実相院だが、ちょうど京都市博物館での展示のため拝観が休止しており、観光客が乗っていないということもあるのだろう。下車する乗客は自分を含めて3人のみだった。
しかし何かのイベントなのか、ウォーキング姿の中高年を多く見かけた。実相院前の公園にもそうした人たちが集まっていた。私にとっては、彼らがいてくれることで精神科病院が並ぶ地域でカメラを手に徘徊する怪しさが軽減されるような気がしてありがたかった。
今回の岩倉訪問は、京都に向かう新幹線の中で思いついたため、事前に文献などで調べておくことができず、ネットを使って幾つかの情報を集めただけの知識で歩き出している。幸い、何人かの人が大雲寺と精神病と眼病に効くといわれた井戸の場所を訪ねたことを書かれており、概ねの場所を把握しておくことができた。後述する岩倉図書館で事前に調べることもできたと思うが、少ない情報をもとに感じ取れるものを大事にしてみようと、今回はあえて詳細を確認しないで歩いてみることにした。
実相院の門に向かって右側に大雲寺に続く参道のような緩い石段の道が伸びている。その入り口に立って写真を撮っていると、石段に面した右側の建物が少々気になった。蔵のある民家だが、妙な雰囲気を感じる。後から調べるとやはり古くからある保養所の一つだった家であることが解った。
石段を上がると正面に石座神社がある。まずは精神病を治したという伝説の井戸と水垢離が行われた滝を探して神社の境内に上がってみた。社殿の前に能舞台のような建物があり、結界が張られている。石座神社の由来を書いた石碑があり、中身を読んでみるとどうも大雲寺とは別な由来を持つ神社らしい。
これも後から調べてみると、巨石や岩山を神体とする信仰による神社であり、ここから少し岩倉駅方向に戻ったところにある神社から御神体を移して祀られた場所であるとのことだった。石の神が宿る場所である「石座」を意味するのが「岩倉」であり、この地の地名の由来となったらしい。
石座神社の右手には、現在の大雲寺があるが、こちらは後で立ち寄ることとし、井戸の場所を探す。左手に北山病院の建物が見える。境内から北山病院の方向に抜けるとそこにも石段の道があるが、これは大雲寺に祀られた皇族の墓所に続くもので宮内庁の看板が立っている。
一旦、石座神社の入り口まで戻り、現在の大雲寺とは逆の方向、北山病院の敷地内と思われる道を進む。病院の建物に挟まれた道だが、特に門や柵があるわけではなく、一般道がそのまま伸びている。100メートルほど進むと駐車場のような砂利の広場があり、その一角に木造の古い社と細い水が流れる滝がある。ここが大雲寺の伝説の場となる眼病と精神の病に効くという霊水が湧いたとされる閼伽井(あかい)であり、智弁水とも呼ばれている場所であった。
社は井戸を囲ったもので、その前には水場が作られている。水を貯めている石桶には「大雲寺」の文字が彫られていた。古くはここも大雲寺の敷地だったことがわかる。
智弁水の手前には、妙見の滝があり、ここで水垢離が行われたとされている。伝説だけでなく、実際に水治療として近年まで使われていたらしい。
さらに山に分け入る道が伸びており、苔むした石段を登ると、そこにも宮家の墓所が残されていて、宮内庁の看板が立っている。しかし閼伽井(あかい)にも妙見の滝にも一応解説の看板は立っているものの、辺りに人気はなく、病棟の裏の忘れ去られたような一角となっている。岩倉に精神病を患った人々が集まるきっかけとなった場所は、精神科病院の片隅にひっそりと残されているのみであった。
閼伽井(あかい)でしばらく過ごした後、現在(2016)の大雲寺に向かう。こちらはさらに寂れた場所となっていた。
1000年以上の歴史を持ち、実相院の下で大きな力を持っていた大雲寺だが、度重なる戦火や金銭上の問題などで現在は見る影もないほど小さな寺となっている。境内も荒れた感じがあり、人の気配が全くない。
境内の様子やお地蔵さんの写真を撮った後、大雲寺を出て辺りを歩いてみることにする。大雲寺の衰退した様子と対照的に精神科病院の大きな建物が目立つ。狭い地域にこれほど精神科病院が密集している場所も他にないのではないだろうか。
北山病院を背にして大雲寺前の道を少し下ると、正面に第二北山病院と洛陽病院が見えてくる。二つの病院との間に立つ民家がかつての保養所跡であり、大雲寺の茶屋の一つだった城守家である。城守家の敷地には、城守保養所資料館があり、患者預かりの歴史的な資料が残されているとのことだが、入館には事前予約が必要とのことで今回は外観を眺めるだけとなった。
城守家の様子を見るために第二北山病院の前まで下り、洛陽病院との間にある細い道を抜ける。途中、北山病院を経営する法人の「生活サポートセンター」の看板を揚げた建物があるが、古びたアパートのようだった。対する城守家は、立派な住宅が外観からもうかがうことができ、かなり裕福な印象を持った。
再び実相院前に戻り、今度は街中の様子を観察する。実相院の前には、岩倉病院があったとされる公園がある。公園の隣には、先述した保養所跡の民家がある。
そこから現在のいわくら病院の前を抜けて住宅街を歩くが、どの家も塀が高く、蔵があるなど特徴的な佇まいを見せる。そうした中に一般の民家としては違和感のある建物がある家が幾つか見られる。細長く窓の少ない建物が庭の一角にあり、今は何に使われているのかはっきりしない。多くは古い家であった。後で調べてみるとそれらの幾つかはやはりかつて保養所を営んでいた家であった。
岩倉の街は細い道と坂道が多い。そんな山間部に大きな団地が建っていて不思議に思った。近くまで登って行ってみると、北山病院の建物に隣している。おそらくここも大雲寺の敷地の一部だったのだろう。
団地は京都府営岩倉団地で、8つの棟がある。これも後に調べてみると、かつて岩倉病院が立っていた場所であり、戦時中に軍の施設として明け渡され、終戦後に岩倉病院に戻されるが、岩倉病院が京都府に売ったのだという。岩倉団地の脇に古い民家があり、その形が気になっていたが、やはりそこもかつての保養所であった。こうして大雲寺周辺の街中を歩き回り、行きはバスで来た道を歩いて地下鉄駅まで戻ることにした。大雲寺界隈を離れると岩倉の街は静かな農村といった雰囲気になる。また街中のあちこちに石仏や小さな祠があり、信仰の地であったことを感じさせられる。
途中に京都市岩倉図書館があることがわかっていたので、休憩がてら岩倉の歴史を調べるために立ち寄ることとする。岩倉図書館は、平屋の小さな図書館で、木を多く使った内装は柔らかな雰囲気だが、ちょっと狭苦しい感じも否めない。いわゆる郷土史的な本は少なく、地元の人々による研究誌っぽいものと学校で使うようなしっかりした装丁の郷土史本「洛北岩倉」があるのみであった。
研究誌の方は、地元の風習や人々の暮らしについての内容が中心で、9巻ほどあったがいずれにも精神障害や患者預かりに関することは触れられていなかった。
90年代のものと2007年版があった「洛北岩倉」では、90年代には全く触れられていなかった精神障害者に関する内容が2007年版ではかなりの紙面を割いて解説が載せられていた。該当箇所を図書館に申請をしてコピーさせていただいたが、奥付をコピーする段になってこれが「洛北岩倉と精神医療」の著者である中村治氏が書かれたものであることに気がついた。
中村氏は、岩倉に生まれ育ち、京都大学で人間・環境学の学位を取られて、大阪府立大学の人間社会学部の教授をされている。「洛北岩倉と精神医療」によれば、中村氏の娘さんが岩倉小学校に通っていた頃に20年誌として「洛北岩倉」の執筆を依頼され、この地の精神医療史に関心を持ったそうである。後に精神医学史学会で発表されることとなり、それが学位論文へと発展していったという。
帰宅後、数年前に購入して少し眺めただけだった「洛北岩倉と精神医療」を手に取り、改めて読み始めた。膨大な資料をもとに書かれた内容は確かなものであると同時に、地域に対する愛情のこもったものでもあった。
岩倉の精神医療は、大雲寺での祈祷から始まるが、伝説にあるような1000年近く前から続いているというわけではない。大雲寺自体、歴史の中で何度も時の混乱に巻き込まれ焼き討ちにあっている。1573年には、かの明智光秀によって実相院や地域の民家とともに一体が焼き討ちにあっているという。
中村氏によれば、大雲寺の再興は実相院門跡の力であり、以後実相院は大雲寺を傘下におき、参拝者から利益を得ていくことになる。大雲寺に精神障害のある人たちが集まってきた背景には、後三条天皇の第三皇女が大雲寺の井戸の水と祈祷で精神の病が治ったという伝説があることが知られているが、先述した通り大雲寺とその周辺は、幾度にもわたる焼き討ちにあっており、この伝説がすぐに岩倉地域の保養所につながっていったとは考えにくい。中村氏もその点は指摘されており、むしろ後年に実相院や大雲寺がこうした伝説を売りにして比較的身分の高い人たちの家系で精神障害のある人を受け入れていったというのが実際のように思われる。
「洛北岩倉と精神医療」は、岩倉の歴史と精神医療の歴史の通説とを対比させ、岩倉地域の営みの意義を見出そうとしている。その記述は、推測が多くならざるを得ないのだが、可能な限りの資料と現地の人々からの聞き書によって裏付けられているものであり、現時点で最も確実な資料であるといえよう。
しかし今回、岩倉地域を訪れてから改めて「洛北岩倉と精神医療」を読んでいるとどこかモヤモヤとした違和感を持つようになった。現地でわずか2時間ほどを過ごしただけである上に「洛北岩倉と精神医療」も斜め読みの状態での乱暴な考察であることをお断りした上で、次回、私なりの感想の述べてみたい。
以下、2024年の追記ーーーーーーー
以上が旅から帰ってすぐに書いた探訪記です。精神保健福祉士のテキストなどでは、「日本のゲール」や「地域ケアの元祖」的な扱いがされている岩倉ですが、2016年に訪れた時の印象はかなり異なるものでした。
この後、「洛北岩倉と精神医療」を読み返しながら考えたことを書いているのですが、それは次回アップしたいと思います。今回のノートの参考資料については次回のノートにまとめて記載します。