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養老孟司さんの『死の壁』を読んで

年末に、とある美容外科医が解剖の写真をSNSにアップして不謹慎だと炎上した事件の記事を目にしました。その出来事がきっかけで、養老孟司さんの『死の壁』を手に取りました。養老さんといえば『バカの壁』が有名ですが、私は未読で、『死の壁』が初めて読む作品でした。


死恐怖症との向き合い

実は私は、いつからか「死恐怖症」ともいえる症状に悩まされることがあります。四六時中考えているわけではありませんが、ふとしたときに思い出し、そのたびに戦慄を感じるのです。今回、『死の壁』を読んで、その恐怖が若干薄らいだ気がしています。死ぬことへの恐怖を抱えている方には、ぜひ読んでみてほしい一冊です。

なぜ死ぬのが怖いのか

私が死を恐れる理由は、自分とは意識であると思っているからです。肉体が死ぬことで自分だと思っている意識が消え去る、それも永遠に!自我が永遠に無となるという感覚が怖いのです。永遠の無。これが私にとって恐怖の核心です。20代の頃から意識していたことですが、年を重ね、死が近づくにつれて、恐怖が増している気がします。
ただし、日常生活や仕事に支障が出るわけではありません。しかし、場合によっては「死恐怖症」が高まり、自ら命を絶つ方もいると聞きます。この症状を軽視してはいけないと思います。

死を怖がらない人がいる理由

『死の壁』では、「死ぬ→肉体は死ぬ→意識は魂として残る」と昔は考えられていたが、近代科学は魂の存在を否定した、と書かれています。しかし、それでもなお「意識だけはずっと残る」という論理がどこかに残っていると。たしかに、魂があろうとなかろうと意識が残るなら、私だって死ぬのは怖くありません。
私の周りにも特に信仰心がない人でも、「死んだらあの世に行く」と薄っすら思っているようなフシがあります。これが、死の恐怖を軽減しているのかもしれません。

人間は変わり続ける存在

『死の壁』のみならず、多くの場所で言われることですが、人間は新陳代謝で細胞が入れ替わり、身体も脳細胞も変化しています。つまり、絶対の自分なんてものは存在しません。
それを踏まえれば、死ぬことだって変化の一つなのだと考えられるのですが、それでも「絶対の無」の恐怖は消えません。こればかりは仕方がないのかもしれません。

『死の壁』の面白さ

『死の壁』では、死を「一人称の死(自分の死)」「二人称の死(親しい人の死)」「三人称の死(他人の死)」の三つに分類しています。その中で、一人称の死、つまり「自分の死体」は概念上にしか存在しないと書かれています。
科学的には、観察する主体が必要ですが、自分の死体を観察する主体がいない以上、それは存在しないのだと。そして、自分の死体は「口」と同じとも書かれています。唇や舌はあるけれど、「口」というのは解剖学的には実体がない、概念上のものなのです。
この考え方にはっとさせられました。一人称の死を考えるよりも、二人称の死、三人称の死を考えるべきだという主張は、非常に新鮮でした。

死恐怖症が和らいだ理由

一人称の死、つまり自分の死は考えても仕方がない。それよりも二人称の死、三人称の死を考えるべきだ。このことは、逆に言えば、「エゴにとらわれず、家族や社会のために生きろ」とも解釈できます。
もともと私は家族や友人、同僚を大切にしてきましたし、人間一般に対しても薄っすら愛情を持っています。蚊や蠅やゴキブリであっても、できる限り殺さないように生きてきました。それでよかったのだと、今回改めて気づきました。
死を考えることは、生を考えることです。これからは「自分の死」を恐れるのではなく、「自分がいずれ二人称の死になる」と考えます。そして、親しい人や社会の幸福を願い、そのために自分が何をできるかを考えながら生きていきます。それだけで十分だと思えるようになりました。

あとがき

死を考えることは、生を考えることに繋がります。死に触れることを過剰に避けるのではなく、一度死について考えてみれば、この先どう生きるべきかという気づきが得られるかもしれません。
養老さんの『死の壁』は、そんなきっかけを与えてくれる一冊です。よろしければ、ぜひ読んでみてください。
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