
『日本人の心と社会の成り立ち ~「甘えの構造」から見えること~』【#4-前半】
前回のやすのさんの記事では、前半に「甘えの構造」第四章から「甘え」の病理について、「とらわれ」の心理と対人恐怖、「気がすまない」の強迫観念、そして同性愛的感情を軸に説明してくださいました。また上記の概念に加えて、くやむ/くやしむ、被害感、そして自分がないの3つも「甘え」の病理を表す状態だとされています。やすのさんの記事では、「甘え」が拗れる、すなわち健全な甘えが学べなかったことで、病理に発展していくことが理解できます。甘えが拒絶される、また裏切られることによる心理的ショックからのトラウマとも言えるかもしれません。また西洋的な文脈では、愛着がうまく形成されず、インセキュア(不安定)な愛着が形成されたことで、生きづらさにつながるとも言えるでしょう。
そこで大事なのは、私たちの主体性をどのように育んでいくのか?という点です。やすのさんの記事の後半では、損傷した自己(甘えの拗れ)を回復する過程、すなわち主体性が育まれる過程を、アニメ『PSYCHO-PASS』を通して深堀してくださいました。主体性を育む上で必要不可欠なのは、やはり関係性。特に親との関係性からくる影響は大きいと言えるでしょう。このアニメ『PSYCHO-PASS』は、父親との関係性を通して主人公が変化する様子が描かれています。
前回のやすのさんの記事でも触れられているように、母親との関係性が子どもにとって一体感を体験する存在であるのに対し、父親は子どもにとって初めて出会う「自分とは異なる他者(第三者)」となります。このように私たちは、生まれて最初に関係を築く親(保護者)との関わりを通して、そしてその後に広がるさまざまな人間関係を通じて、自立へと向かう道を進むことになります。
しかし最初に築く親との関係が不健全である場合、子どもの自立は妨げられ「甘え」の拗れが問題化することがあります。そしてこの拗れによる問題は、個人のレベルを超えて、社会現象として表面化することがあります。「甘えの構造」第五章では、現代社会に見られるさまざまな問題や現象が、「甘え」の視点からどのように説明できるのかについて書かれています。
第五章「甘え」と現代社会
この本が最初に出版されたのが昭和46年(1971年)。この頃の日本は戦後25年を過ぎた頃で、学生運動が盛んな時代でした。土居氏は、必ずしも日本の若者だけに起こった現象ではないことも本章では語っています。戦後25年を過ぎた世界は冷戦下においてベトナム戦争が勃発したりと反戦運動含めた、さまざまなムーヴメントや運動が起こっていた時代です。また世界で起こる様々な出来事や情報は、科学技術の発展によって世界同時に発信されるようなった時代だと土居氏はいっています。この土居氏が当時指摘している情報化社会は、50数年経った今、SNSやAIの登場によりさらに加速しています。現代も私たち個人の発達に、何らかの影響をしていると言えるでしょう。
では現代に通じる日本の社会問題は「甘え」の構造のレンズで見ると、どのようなことが見えてくるでしょうか? 第五章で土居氏は、日本社会において情緒としての「甘え」を体験する機会が少なくなり(甘えの欠如)、その結果、甘えたい人が増えるものの、逆に「甘え」を受けとめる人間も減ってきたといいます。そのような人間関係や社会は、どのような特徴があり、どのような現象が起こっているのでしょうか。
人間疎外感と「甘え」の心理
現代は動乱と危機の時代である。これらの動乱と危機を経ながら世界は、結局ある一つの方向に収斂し、やがては新しい時代が到来するのかもしれない。いや、考えようによってはもうすでに到来しているともいえる。人々はしかし、この新しい時代が果たして人類にとって望ましいモノであるかどうかについて、深い危惧の念を抱いている。
本書が書かれた70年代初頭、すでに世界は「動乱と危機の時代」であったと書かれています。そして土居氏は、現代人が感じる「疎外感」の原因として、急速な科学技術の進歩や理性による自立への疲労・絶望を挙げ、これを「甘え」の心理と関連づけています。
土居氏は、ゲーテの『ファウスト』をあげて、主人公が理性を追求する過程で限界に直面し、絶望を感じた時、理性ではなく、その逆の感覚的な生き方や母性的なものに回帰していく姿を、「甘え」の心理の表れとして示唆しています。また夏目漱石の『三四郎』の主人公が都会に出た時に感じた「置き去りにされる不安」についても、母親から離れた子どもが抱く不安と重ね合わせ、「甘え」の心理が根底にあると指摘しています。科学技術が進むほど、その進歩がいつしか脅威に感じられ、「母親に置き去りにされる」ような生命の不安を覚えるのかもしれません(生まれたばかりの子は母親が生命線)。土居氏はこれを現代人の「人間疎外」と呼んでいます。
2020年代の私たちは、70年代よりはるかに進んだ科学技術の中で生きています。特にAIの登場でその進歩は加速しています。このような急激な進歩が脅威となれば、私たちもまた、母性的なものに惹かれ、そこへ導かれていっているのかもしれません。そのような心理はもしかしたら、自分の好きな世界観だけで生きることのできる空間(現代のデジタル環境としてのフィルターバブルやVRの世界、異世界などの構築)にも影響しているのかもしれません。
自立が促されない社会
「人間疎外」を感じやすい現代の中で、私たちの心の成長はどのように進むのしょうか。土居氏は、フロイトの精神分析学視点から、古典的な世代間の葛藤である「エディプス・コンプレックス(エディプス複合)」をあげて、現代社会において成長が促されにくい点をあげています。ここは第四章でもやすのさんが書かれていた愛着の形成にもつながります。
エディプス・コンプレックス(エディプス複合)
エディプスコンプレックスとは、オーストリアの心理学者・精神科医であるジークムント・フロイトが提唱した概念で、男子が異性の親である母親に強い好意感情を抱き、母親を自分のものにしたいという感情から、同性の親である父親に敵意や対抗心を抱くという子どもの時に見られる無意識の心理状態のことを言います。
フロイトのこの理論についての詳しい説明や様々な視点については割愛しますが(詳しくはこちらを参考にしてください)、男子の場合はエディプス・コンプレックス、そして女子の場合はエレクトラ・コンプレックスと言われています。
これらは、子どもと両親との間で形成される三角関係の中で生じる葛藤を乗り越えることをテーマとし、子どもが自立へと向かう重要なプロセスであるとされています。この葛藤体験を通じて、子どもは自分の限界や能力を知り、同性の親との健康的な同一化(同性の親の肯定的な特性をモデルとして取り入れるプロセス)を果たすと考えられています。ここは前回もやすのさんが書かれていたように、父親の存在が子の自立に、どのような影響があるのかと同じです。その逆に、この段階での葛藤を抱えたままになれば(成長課題がこの時期にとどまっているのであれば)それが後の神経症(不安障害や鬱など)の元となると土居氏は言います。
葛藤を乗り越えるということ
子どもの心の成長には、まずは第一養育者(プライマリーケアギバー)、多くは母親との一体感から始まります。この段階で愛着が育まれますが、同時にこの一体感から「自分」という個へ分離していくことも成長プロセスの過程にあります。そのためには、父親(または第二の養育者)という「自分とは違う他者」が必要になり、その存在は、子どもに「自分だけではない世界」を教える役割を果たします。ここで出てくる葛藤は、典型的な世代間の葛藤だと本書では書かれています。
土居氏は、現代の若者は「親との葛藤を乗り越える体験(もしくは通過儀礼)」のないまま成長していることが多いのではないかと指摘しています。特に父親が象徴する「権威」や規律が欠け、母親との馴れ合いや、甘え・甘やかす関係のみがある状態だと指摘し、そこに問題が生じると言っています(※ここで言う「権威」は「権威主義的なもの」とは違います)。これについては、ユング心理学でも、個人が自立に向かうプロセスの過程で、かつて存在していた通過儀礼(葛藤を乗り越える体験)が現代社会において、その機会は失われた状態なのではないかと言われています。
ここで土居氏は、70年代の体制に反抗し戦う若者から、『桃太郎』の物語を例に挙げています。桃太郎は、お爺さんとお婆さんに愛情深く育てられますが、大人になるための試練や教えを受けていません。そのため、親への葛藤を十分に経験できませんでした。しかしその葛藤を「鬼退治」という行動に向けました。鬼退治は、力を試し、自分の限界を知る通過儀礼のような役割を果たします。桃太郎はこれを通して大人になったと本書では解釈されています。ただここには一つ、桃太郎と現代(70年代当時の)若者の違いがあるといます。土居氏は、外の敵というわかりやすいものを倒すことは、その試練をのりこえ、結果的に家族や村のためになり、桃太郎のようにめでたし、めでたしとなりますが、現代はそのような状況ではないと言います。自分の力試しをしても限界を知る体験にはならず、またそれを教えてくれる存在も見当たりません。結果的に、桃太郎でいうところの、愛情深く育てられても、大人になるための試練や教えは受けていない状態です。そうなると若者自身は自分の力を過信して、若者自体が鬼になる可能性もあると指摘しています。
また土居氏は本書の中で、世代間断絶は見られるものの、その両者の戦い(学生運動に見られる戦い)は公的なもので、実際、家庭内では馴れ合いがあると指摘し、特に母親との馴れ合いが、当時の意識調査にも表れていると言っています。その意識調査によれば、東大生が尊敬している人物には母親をあげる人が多くいました。また安保闘争の学生運動家たちと母親との結びつきは、エール大学のロバート教授の日本での調査で明らかになっていたとあります。
それでは父親とはどうだったのでしょうか?本書には、家庭内で父親ともぶつかることはさほどなかったようだと書かれてれています。それは仲が良いのではなく、父親がそもそも家庭に不在で、あまり子供と関わっていない。土居氏によると、価値観を教える父親がそもそも少なく、稀だと言っています。そして父親たちも疎外感に悩んでいると。
またここで起きている世代間葛藤も、実際には、何の葛藤なのか、どういった価値観の相違があるのかすら明らかにされてない事が指摘されており、そこは、60年代以前の、やはり戦中、戦後といった戦争体験による国民全体のトラウマにも関係しているのではないかと思います。本書には、当時の世代間の問題には、そもそも古い世代の自信喪失にあるのではないかとの指摘があり、それは家庭内において、父親不在という父親の影の薄さになって現れていると指摘しています。
若者たちの葛藤と甘えの氾濫
当時の社会を「父性的権威の喪失」により咎める者は不在、タブーもないと言い、そのような社会はどこか祭りのような雰囲気があったと指摘しています。しかしそんな若者たちは、自由を謳歌しつつも、漠然とした罪悪感に苛まれていたとも土居氏は言っています。そして特に「ニューレフト」の活動家に、そのような傾向があると指摘し、この心理を被害者意識、罪悪感と連帯感という視点から説明しています。
この「ニュー・レフト」の活動家たちは、自分の持つ特権に対して何らかの罪悪感を感じていたといいます。そしてそれを拭うために、自ら被害者に同一化し、社会の特権構造を解体しようとしたと言っています。ここで自己否定(もしくは自分が特権を持っていることへの罪悪感)が強いほど、行動は過激化し、暴力的になったとも言っています。
また暴力が過激化するもう一つの理由に連帯感がありました。ニューレフトの活動家は、連帯のために被害者意識を選び取り「正義」の名のもとに罪悪感による苦しみを感じにくくします。その結果、他者に対して強い攻撃性を持つこともあるとしています。すなわち、罪悪感が「正義」にすり替えられ、攻撃性を帯びたと言っているのです。
権威の喪失と時代の変遷
この暴力性を抑えるための権威や規律が社会に欠けていたことも、この時代の学生運動の暴徒化を招いた要因と考えられるのではないでしょうか。本書を読むと、戦争の傷や時代の変化が世代を通じて影響し、若者たちは自己統合(自立、自己の確立)の道を見失ってきたように見えます。その後日本はバブル、氷河期、そして現代へと移行し、世界的にもこの数十年は、「甘えの氾濫」ともいえるリベラル化も進んだ時代だったのかもしれません。その揺り返しが近年強まっているように思います。現に世界は権威や秩序を強く求める表れとして、極右政党が誕生したりと、政治の転換期にも来ているのではないでしょうか。ただここで重要なのは、健全な権威と抑圧的な権威主義の違いを知り、それを区別し、今までの歴史を繰り返さないことだと思っています。
【80年代以降の考察について(ポストモダンで逃げるを選択した若者から脱力マナーまで)山田玲司さんの解説がとても興味深いです。真面目さ、社会問題に向き合うことをバカにする社会の風潮の根源に納得です】
※「権威的」と「権威主義的」の違いについて:権威主義的な親は、厳しくルールを押し付けるだけで、子どもの感情には配慮しません。一方、権威的な親は、ルールを大切にしながらも、子どもの気持ちや意見を尊重し、柔軟に対応します。この違いは、子どもの成長に大きな影響を与えます。権威と規律と、権威主義的な支配・コントロール、そして暴力は別のものです。
社会と家族の中で起こっていること
この第五章は、母子一体化と父親不在(父性的な権威の欠如)が与える影響は、個人の成長や成熟のプロセスに大きな影響を与えていること、またそれが社会では「甘えの氾濫」にもつながり、日本の学生運動とその終結の形にも現れていることがよく理解できます。この本が書かれた時代(初版)は、今から50年以上前。決して今読んでいても古いと感じませんし、実際は、この状態が50年たった今も脈々と続いていることに驚きを隠せません。現実的にはこの時代から日本ではメンタルヘルスに関する課題、そして若者の自殺率、不登校や引きこもりは増加しています。
次回へ続く
次回は、この母子一体化と父親不在(父性的な権威の欠如)が個人にどのような影響があるのかをより理解するために、母子一体化の呪縛がよく描かれている押見修造著の漫画「血の轍(わだち)」を深堀りしてゆきたいと思います。この漫画は本当に怖いと感じるほどの母子の繋がりと、子がそれからの脱却を試みるも破滅へと向かう様子まで、その全てが主人公の人生を通して克明に描かれている物語です。
参照:
・土居健郎(2007)「甘え」の構造(増補普及版)弘文堂
・押見修造 漫画『血の轍 (わだち)』小学館:ビッグコミックスペリオール (2017-2023) 1話〜153話
・Robert Moore and Doug Gillette(1991) King, Warrior, Magician, Lover: rediscovering the Archetypes of the Mature Masculine, HarperOne
・イド・自我・超自我とは?精神分析の最重要概念を具体例でわかりやすく解説
・日本における不登校の歴史【第2回】時事メディカル