【ないがしろ学級】病休が出ました
ついに、うちの学校で病休がでてしまいました。
それについては、その教員も病休を取り慣れているため、「またかー」というところでした。
問題はその教員の教科指導についてです。
特別支援学級担任をおろされる
「病休をとった教員と、教科が同じ」
という理由で、授業は僕が行うことになりました。
そうなると、知的学級の生徒たちは誰が見るの?となります。
「"ほかの先生たち"で見てもらうことになった」
ということです。
簡単に言うと、担任から外されてしまったということです。
もともと応援授業なんて組み込まれてすらいないうちの学校。
知的担任の僕は一日中学級の面倒を見ます。
その時間のうち、十数時間(他学年も)授業に出ないといけなくなるので、僕の負担は超アップ。
教材研究もあり。
身体がもつわけありません。
いい経験になる?
そんな心配をよそに、校長は僕に、事前の相談もなにもなく勝手に決定をし、挙句のはてには、
「これもいい経験になるから」
と言いました。
冷静に考えて、
「病休の先生と同じ教科だったから、大好きな知的学級の担任から離れて、知らないクラスで授業をする」経験が、「いい経験になる」はずがないのです。
学級の子たちは、就学相談などを受けて知的学級に入るまで、「先生の言っていることが理解できない」「友だちの気持ちが分からない」「今、何をすればいいか分からない」など、様々な苦難の中で生活してきており、自己肯定感はかなり低い。
そんな子たちが、「先生!ローマ字の仕組みに気づきました!」「かけ算九九マスターしました!」など、毎日の地道な勉強で自己肯定感が少しずつ増している状態。
そんな子たちを置いていけるわけがありません。
もっともっとできることを増やしてあげたい。
「君たちにも無限の可能性があるんだ」と伝えたい。
「担任になってくれたのが先生でよかったです。」と言いながらクリスマスカードをくれたり、勉強を教えてもらうために僕のデスクに椅子を持ってきて場所取りしようとする子たちを、置いていけるわけがない。
そこに全力を注げなくなるこの対応が、「いい経験になる」わけがないのです。
誰のための教育?
今回の件をとって考えてみると、うちの学校での教育は「通常学級の生徒のため」にあるものでした。
対応として知的学級の生徒のことを考えると、応援授業のないうちの学校では、僕が動くという判断は確実にNG
なぜなら「ほかの教員との関わりが薄い」から。
そうなると、副教科の先生だったり、副担任の先生が持ち回りで教科指導を行う方が、通常学級と知的学級の生徒にとっても、ある程度の日常は守れる。
「その教科の免許は持ってないから」では認められません。
僕も特別支援教育の免許を持っていないからです。
知的学級の特性や、普段知的学級が行っている活動について全く理解できていないのがよく分かります。
これは「教育機会の平等」とはかけ離れています。
全てのしわ寄せが、知的学級の生徒に降り掛かっているのです。
うちの学校では人権教育に力を入れていますが、
知的学級の生徒に関しては、人権も守ってもらえないようです。
学校がその気であるなら、僕自身も徹底抗戦することを決めました。
僕はその場で、「知的学級の担任は続けます。授業以外の時間は僕が見る」と校長に伝え、子どもたちにも事情を話したうえで、同じ約束を交わしました。
特別支援学級は「ないがしろ学級」
今回の病休からの担任外しの一連の対応、怒りを通り越してあきれてしまっています。
体調のことなので、それに関しては悪くは思いませんが、管理職の判断が特別支援に関しての意識が皆無。
毎日一緒に過ごし、苦手なことを少しずつ克服している知的学級の子たちの気持ちを考えると、申し訳ない気持ちになります。
子どもたちに話をしたとき、「学校の決定だからしょうがない」という空気りました。それほどまでに彼らは”被害者”であることがよくわかります。
僕だけは、知的学級を「ないがしろ学級」にしたくない。
してはいけないんだと思いつつ、毎日授業準備を夜遅くまでしています。
あまり遅くまで残らないように。だと?
それ以上に守りたいものが僕にはある。
何も知らない管理職は黙って見てろ。
この投稿を一つの決意にしたい
今回の件をきっかけに、僕はまた一回り成長できそうな気がします。
病休がいつ明けるかはわかりません。
病休が明けるその日まで僕は戦い続けると思います。
その中で、「誰のために学校教育があるべきなのか」
という点をしっかり考えながら、毎日を生きていこうと思っています。
この投稿を決意として。