物語りにおいて、「神は細部に宿る」を実感する
「神は細部に宿る」という言葉。
コンサルタントをやっていた時に、よく上司や先輩に言われました。
「あなたの資料は、早いし・正しい。でも、線がズレていたり、箱のサイズがあっていなかったりして、綺麗じゃない。神は細部に宿るんだ」
それを聞いて、私は思いました。
「そんなこと言っても、早く・正しい資料をつくれば、それでクライアントは理解できるんだから、問題ないじゃないか」
そんな考えで、結局細部を気にすることなく過ごしてきました。
「神は細部に宿る」
こんな過去もあり、あまり好きな言葉ではありませんでした。
そんな言葉を久しぶりに思い出しました。
以前のノートでも挙げていますが、最近1つのテーマが”物語り”です。
・データサイエンティストにとって、これから必要な最大の能力は「物語り」なのではないか。
・”朝のニュース”を見るようになって感じた気持ち悪さと、その正体
しかし、それが中々難しい。
ついつい、長く分かりづらい物語になったり、簡潔すぎて面白みのない物語になったり。
それを打開するヒントにならないかと、Amazon Unlimitedで読めたこの本も読んでいました。
みんなが書き手になる時代の あたらしい文章(古賀史健)
その中で、次のような興味深い一節がでてきます。
「大きなウソは許されるが、小さなウソは許されない」
・大きなウソ=フィクションとして描かれるもの(怪獣とか、タイムスリップとか)
・小さなウソ=その世界の中で、あると違和感になってしまうもの
例えば、タイムマシンを作って、戦国時代に行って武将を助けるといった物語を描くとします。
そもそも、タイムマシン=大きなウソなので、それをウソだと怒る人はいないでしょう。しかし、戦国時代に行ったはずなのに、なぜかそこでは存在しえない道具(例えば、大砲とか)を描いてしまうと、一気に見る人は冷めていってしまうものです。
逆に言うと、小さなウソをつかないようにすること(=細部にこだわることこそ)、大きなウソ(=物語)を成立させる、重要なファクターなのではないでしょうか。
この映画を思い出しました。
博士の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか
これが、フィクションだったと、言える世の中で良かったと思いますが、
この映画では、米国のある将軍が独断でソ連の基地を水爆攻撃するという、大きなウソを前提として話が進められます。
しかし、戦闘機での詳細な機器の描写や、兵士たちの作業チェックなどの、本当に細かい描写は、ウソがない。
それこそが、当時の社会情勢への批判とコメディという両軸を維持しつつ、素晴らしい作品に仕上がった理由だったのかもしれません。
「神は細部に宿る」
そう考えると、あまり好きでなかったはずのこの言葉も、重要な意味を持っているのだと、改めて考えさせられました。