夏の終わり、深い藍灰の空に向かって、人々がスマートフォンを翳している。同じ駅を使っているという、ただそれだけの人々が、まるで示し合わせたかのように。丸い薄黄蘗の月が、太陽の影で覆われ行く、その様を収めんとして。 刻々と太陽の影が増すごとに、薄黄蘗だった月は朱色を帯びていく。太陽は影までも灼熱の色なのだろうか。私はポケットに手を入れる。スマートフォンの感触を確かめて、ほんの少し躊躇する。言葉を、この今の気持ちを、あの人に、ただ伝えるだけなら何が悪いのか。「妻とは別れる、離婚届
重たい身体を引きずるようにして帰宅する深夜。 ベッドに倒れ込むも、どこか脳がヒリついて、結局スマホの画面を見続ける。またメイクが落とせない。ガサガサとしてくすんだ肌と、どんよりと濁って光のない目。自分はもう死んでるのかもしれない。 「仕事以外でひとと一定時間会話した?」 「先生を除いて?なら、いいえ、ですね」 「最後はいつ?」 「お正月に実家に帰った時、かな…」 「それはどうでしたか?」 「…どう、とは?」 「話をして、どうでしたか?」 「…」 「好きなひとはいないの?」
薄紫のたなびく。何だろう?あれは…山? 赤く染まる夕景? ふと足元を見る。大丈夫、足は付いている。 そうか、これは夢なのだ。 それにしても何だろう、この胸騒ぎは。 ぽよんぽよんと歩を進める度に大地が揺れる。 あの空気の沢山入った遊具のように。 ふかっとした大地に足元をとられながら、ただ私は歩いている。どこへ向かって? そういえば… 眠りに落ちる前、私は何をしていた? …そうだ、仕事の後、同僚と食事に行ったんだ。 クソ上司をこきおろしながら、そうそう、私たちはあの大きなスペ
なんでこんな高さのヒールなんて履いてきたんだろう。わたしは坂を下りながら自らの足元を見る。白い皮のチャンキーヒールのベルトサンダル。大学生の頃、よく履いてたけれど、なぜこの靴なのか。愛用していた靴は他にもある、更に言えば近年はスニーカーばかりだったというのに。 気を抜くと足首をやってしまいそうだ。地面が悪過ぎる。真っ黒な靄が掛かってよく見えないが、歪んで撓んでいることだけは、その妙な柔さを持つ不確かな感触で分かる。ここは黄泉比良坂。変わり果てた姿になってしまった最愛の伊奘冉
ここは縁切寺として有名だ。 妻子がありながらわたしを手離さない男、そしてその男から立ち去ることのできないわたしと。もう神頼みするしか無いのだ。いや、それは言い訳なのは分かっている。一陣の風が葉擦れの音と共にわたしを打ちつける。神の所為にしようとしているわたしへの戒めか。 玉砂利に足をとられながら小さな祠の前に立つ。新旧混ざった無数の絵馬で撓んだ縄に、わたしもひとつ絵馬を結ぶ。仲間ができたと、ガラガラと唸るような音をたてて無数の絵馬が嗤う。耳障りなその音から逃げるようにわた
『吾輩は猫である』の初版本の表紙を見たことがあるかい?オーブリー・ビアズリーを彷彿とさせるタッチのそれは悪魔のようにも見えるんだ。槍を手にしたその猫の周りにはね、人形がごろごろ落ちているんだけどね、否、人形ではなく人間なのかも知れないね?僕は面白くなって、飼い猫にも同じように人形を沢山買い与えてみたよ。 でも飼い猫は見向きもしないんだ。 だからその人形に木天蓼を擦り込んでやったのさ。そうしたらあいつ目の色を変えて喰らいついたんだ。ほら見てごらんよ、鏡を持ってこようか? 私は
最近帰りの遅い夫は、寝不足なのか隈が目立つ。深夜の帰宅、ベッドに崩れ落ちるようにして、既に寝ている私への配慮もない。それでも私は笑顔でおかえりと言い、黙って夫の頭を撫でるのだ。 コトコトと鍋の蓋がダンスするように蠢く。湯気を立てながら。今日は寒いからシチューが良い。夫の好きな料理のひとつだ。脛肉の塊をホロホロと箸で突いて食べるのが好きなのだ。圧力鍋を使わずに長時間煮込むこと、それが愛情。 電話が鳴る。今日も遅いとだけ告げて夫は仕事に戻って行った。周囲を配慮した小さな声で早
足が痛い。どれだけ歩いたのだろうか。ジリジリと背を焦がす陽射し、太腿まで濡らす陽炎、うわんうわんと鳴るサイレン。 手が重い。もう限界かも知れない。私は長いこと握っていたそれに目をやる。もう片方の手で自らの指をこじ開けるようにして、ベタつくそれを剥がすようにして落とす。ガシャンと耳障りな音を立て、その鋒は私の目を強い光で射抜く。 同時につんざくような金切声が聞こえた。振り返ると、でっぷりと太った中年女が大きく口を開けている。虚空のようなその黒い穴から私はどうしても目が離せな
「寝ている間の記憶がないって当たり前のことじゃないの」と笑うわたしを、男は哀しそうな目で見つめる。わたしは急に不安になり、「夢が思い出せないという意味?」と聴くと、男は首を小さく横に振り、「眠っている間、僕は自分が何をしているか分からないんだ。本当に寝てるなら良い、でもそうじゃない可能性もあるだろう?」という。 「少なくとも昨日から今朝はこうしてわたしの隣で眠ってたよ」と返すと、「君は眠ってなかったの?僕をずっと見ていたわけじゃないだろう?」という。なんだか屁理屈のように感
女が水蜜桃をしゃうしゃうと、一心不乱に食べる音だけが響く。電気も点けず、膝を抱えるようにして、女は椅子の上にいて、水蜜桃を食べている。薄桃色の皮に前歯を立て、しゃくるようにしてその実を齧り、しゃうしゃうと咀嚼する。鼻先も唇も顎も桃を持つ手も、桃の汁でぬらぬらと濡れ、嚥下するたびに大きく波打つ喉を、月の光が煌々と照らしている。辺りに漂う甘い香りは、どこか腐臭を連想させる。 女は美しかった。痩せぎすの身体の割に艶のある滑らかな肌を持ち、大きな目と真っ黒な瞳が印象的な女だ。行儀が
ぐつぐつと土鍋ごと揺れる程に煮たっている水炊きを連想した。もうもうと湯気が上がり、ぶくぶくと透明な水泡が弾けては生まれ… 何故、ぐらぐらと煮立つ鍋を連想したのだろう。バカバカしい。わたしは頭を振っておかしな連想を払うと、浴槽に沈むそれを改めて見た。 水面にゆらゆらと揺れる黒い髪の間、カッと見開いた眼は虚空を凝視しており、光を失ってなお強くわたしを射抜く。そうか、この目玉の強さが、ぐらぐらと煮立つ鍋を連想させたのだ。 急に足元から怖気が走る。プップッと脹脛が粟立つ。喉の奥
終わりが透けてきた頃、男が私を登場させた小説を書いたという。「読まない方が良い」とわざわざ言い残し、原稿を置いて男は帰った。この男のそういうところが嫌なのだ。1枚目に『無題』とある。小説まで誘い受けかよ、とうんざりし、わたしは原稿を放っておいて、とりあえず近所の台湾料理を食べに家を出た。 ビールと「鹹蚋仔」。大ぶりのシジミを大蒜醤油で漬けたもの。指で直に摘み、口に運んで、殻の隙間から、軽く吸い込むようにしながら、舌と歯でシジミの身を絡めとる。心細くだらりとした小さな身の、し
ファントムペイン、聴いたことはあるだろう?切り落とされた筈の身体の一部が、ない筈の身体の一部が痛むんだ。シクシクと、ズキズキとね。失ったことに脳がついていけないんだ、もう無いのに、受け入れられないんだよ。 え?頭が痛い?アスピリンをやろうか。え?いらない?強情だな、君は。だから頭痛がするんだろうね。緊張性の偏頭痛だろう、君のお得意のさ。常に肩肘張って、肩を怒らせて、それじゃあ頭痛もするだろうさ。去勢不安が強いんだろう。自分を強く見せたいんだ、君は。 ん?ああ、そうだった、
二十歳の頃、わたしはある男に飼われていた。飼われていた、という表現は卑下し過ぎかもしれない。けれど、飼われていた、という表現がわたしの中ではしっくり来るのだ。実家で暮らしていたのに、男が仕事場にしていたマンションの一室にいる時だけは、わたしは確かに飼われていたのだ。 男はわたしの身体の全てを性感帯にした。元々敏感な箇所は更に鋭敏に、くすぐったい箇所は性感帯の種だからと開発され、気持ちいいのかよく分からない箇所は敏感な箇所と同時に責められることで快感との条件付けを強化された。
イルミネーションを見る度に、2年前のことを思い出す。ある男と桜木町で食事をした後、イルミネーションを見よう、と男はわたしを誘った。赤レンガに行けば明らかに終電を逃す。歩き出した男を追いかけるようにして歩調を合わせ、ドキドキしながら赤レンガへ向かった。 男はわたしが普段なら手を出さない種類のポテチのような男で、でもその頃はその少年ぽく粗野なところが妙に魅力的に見えた。赤レンガで普段は掛けない眼鏡を掛けて、キラキラした目で光を見上げるその横顔も。明らかに恋に落ちていた。恋は突然