坂の途中で
なんでこんな高さのヒールなんて履いてきたんだろう。わたしは坂を下りながら自らの足元を見る。白い皮のチャンキーヒールのベルトサンダル。大学生の頃、よく履いてたけれど、なぜこの靴なのか。愛用していた靴は他にもある、更に言えば近年はスニーカーばかりだったというのに。
気を抜くと足首をやってしまいそうだ。地面が悪過ぎる。真っ黒な靄が掛かってよく見えないが、歪んで撓んでいることだけは、その妙な柔さを持つ不確かな感触で分かる。ここは黄泉比良坂。変わり果てた姿になってしまった最愛の伊奘冉と黄泉醜女を伊弉諾が桃で追い払い振り切って逃げた、あの坂だ。
消炭のような闇の中、先は見えないが、何故か自らの身体だけはなんとなくぼんやりと見ることができる。腕や身体には特に変化はない。じゃあ顔は?自らの頬にそっと手をやるが、やや張りはないがつるんとした肌の感触はいつものままだ。私はまだ黄泉醜女にはなっていないようだ。安堵しながらも、ごく僅かに失望する。若い頃の靴を履いているのだから、お肌だって、と僅かに期待をしたようだ。死んでも欲は捨てきれないらしい。
ふいに斜め前方にぼんやりと灯りが見えた。近づくに連れて、それが千引の岩を灯していることが分かる。ちびき、と読むが、せんひきとも読める。この世とあの世の線引き。千人でも動かせない岩を私ひとりで動かせるのか?そう思った刹那、岩は音も立てずに消えてしまった。
「起きた起きた、マジでウケるんだけどぉ」
目の前に大きな口を開けて笑うマヨがいた。
「普通、カラオケで寝ないよな」
リュウジも同じように私を覗き込んで笑う。シンジとケイゴの調子外れの歌が聞こえる。あの頃、みんなで踊りながら歌ってたあの歌だ。私はふと足元に目をやる。白い皮のチャンキーヒールのベルトサンダルだ。私は混乱していた。
「酔っぱらってんじゃね?」
夢を見ていたのだろうか?
「大丈夫?」
ここはどこ?
私はクラクラしながら立ち上がる。「ちょっとトイレ」と口にしてドアに手を掛けようとし、私は全身が泡だった。もう一度、脚を見る。私の膝に傷がある。その傷は結婚後に、抱っこしていた娘を庇って、付いた傷だ。
歌う友を振り返ることもできず、ドアを引いて出て行くこともできず、私は全身が次々と泡立つのを感じながら、ここから動けない。振り返るのが正しいのか、振り返らないのが正しいのか。
そう、ここは黄泉比良坂。
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