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魏志倭人伝の邪馬台国へのルート|大分迂回の理由から想定される倭王権の実態と卑弥呼擁立の真相
はじめに
年末年始になると、つい邪馬台国のことを考えてしまいます。
私は九州説が有力だと考えていますが、畿内説も捨てきっていません。
また、邪馬台国の位置や範囲については、安本美典先生の説を頼りにしているので、福岡県朝倉市あたりを想定しています。
総合的に考えて、弥生時代における政治経済の中心地は朝倉地方以外に考えにくいので、それをベースとして魏志倭人伝を素直に読んだだけの話ですが、どうもこの説は「奇説」にあたるようで、私が検索した限りでは、ほかに見当たりませんでした。
邪馬台国の位置論争では旅程との整合性が重要です。
邪馬台国関係の情報を見て、今のところもっとも有力と思えるルートを地図にしてみました。
方角については、右に20度くらい傾けると、そこそこ間違っていないと思います。
正確な地図もGPSもない時代ですから、当時の人々の肌間隔を想像しながら眺めてください。
不弥国までは「よくある説」と同じです。
投馬国の領域は遠賀川流域と豊前国を合わせたあたりに設定し、その首都は行橋市か宇佐市あたりと、とりあえず定めました。
これもまあ、「ありそうな説」の一つかと思います。
問題はそのあとです。
大分あたりで上陸する説
投馬国のあと、日本海方面、瀬戸内海方面、四国方面、南九州方面のいずれかに向かう説があり、瀬戸内海方面が一般的に有力だと思います。
私は、魏使が九州を離れるのであれば、倭人伝の記述の流れからすると、九州から別の島への「渡海」を意味する表現がありそうなものだと思います。
しかも、
女王国の東に千余里を渡海すると、また国がある。みな倭種である。
と言うのですから、邪馬台国は九州のなかでしょう。
投馬国のあと、水行10日で大分あたりへ向かい、そのあと陸路を大分川沿いに由布院方面に抜け、そのあたりから筑後川の上流部の玖珠町へ、そして日田を経由して朝倉市へ。この大分から朝倉までの陸行が一月です。
おそらく、この記事を見てほとんどの人が違和感を持つ理由は、
「なんでそんな遠回りをするのか?」
だと思います。
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迂回するには理由がある
この地図では、奴国と邪馬台国は隣り合わせで、歩いても現代なら半日の距離に見えます。
魏使は奴国から陸路を南下する方がはるかに近道です。
だったら、なぜわざわざ関門海峡へ迂回したのか?
これについて私は独特の見解を持っています。
一言で言うと、魏使の来訪は政治宣伝を目的とするイベントだったということです。
「そんなわけないだろ」とは言わず、もう少し読み進めてください。
ただの外交交渉であれば、卑弥呼の使者を帯方郡あたりに派遣すれば済む話ですし、そもそも帯方郡の使者が伊都国に常駐していたと記録にあります。
それでも魏が正式に外交使節を倭国に送るのは、それ自体に重大な意味があるからです。
女王の勢力圏の各所で、土地の有力者が魏の使節を歓待し、どんちゃん騒ぎをして、その様子を一般庶民が遠くから眺めていれば、魏が女王政権を積極的に支援しようとしていることが広く伝わります。
女王政権と魏との同盟関係を国内外に印象付け、女王政権への信頼と連帯感を高めて、狗奴国との抗争を有利に進めるための政治戦略だったと考えられるのです。
女王政権にとっては、北部九州だけでなく、列島各地にいる有力者からの支持も重要だったでしょう。
倭国連合を構成する有力国は奴国と投馬国ですが、投馬国が豊前であれば、東へ迂回しないと投馬国を経由できません。
豊前周辺は瀬戸内海の入り口に位置し、ここでの政治イベントの評判は瀬戸内海を経由して東方へ広がりやすいです。
大分付近も佐田岬を通じて四国へとつながる重要ポイントなので、ここでも四国方面への宣伝効果が高かったでしょう。
つまり、魏の外交使節は宣伝効果の高い地域をわざわざ経由する必要があったのです。
魏の使節が来たということは、そこに魏軍が派遣される可能性もあるということです。
大分から朝倉に至る陸行ルートの重要性
大分から山間部を抜けて邪馬台国に至る一月で、魏使は大変な苦労をしたでしょう。
現代の道路だと120キロくらいの距離ですが、弥生時代では上下左右に複雑に曲がりくねっていたでしょうから、実質2倍以上の距離だったかもしれません。
大名行列が強行軍で1日12時間の移動で40キロ、平均時速3.3キロだそうですが、整備された街道と弥生時代の山道では条件が違いますし、外国の使者に無理をさせるわけにもゆきません。
仮に時速2キロで8時間移動だとすると、1日16キロ。
距離が240キロなら15日ですが、風雨で休止したりすると20日以上に、難所があればさらに日数がかかったでしょうし、上り道ですし、途中で接待もされますから、陸行30日というのはありえなくもないかなと。
そんなルートが選ばれたのは、このルートが邪馬台国にとって戦略上重要だったからでしょう。
古代では「道」が整備されていないので、河川が高速道路です。
つまり、水路を活用しやすい場所が経済的に重要になります。
邪馬台国は、有明海に通じる筑後川の中流域に位置しつつ、御笠川水系を通じて玄界灘(大陸)にもつながりますが、それだけではありません。
筑後川をさらにさかのぼると由布院あたりですが、ここは大分川の上流域でもあります。
筑後川から大分川に乗り換えて下れば、容易に瀬戸内海に出ることができ、佐賀関から佐田岬へ渡れば水上交通の危険を避けつつ四国へ上陸でき、そのまま陸路でも淡路島の手前までたどり着けるのです。
女王國東渡海千餘里 復有國 皆倭種
の「渡海」の地点は豊後の佐賀関だと考えます。
つまり、邪馬台国は北部九州でもっとも交通に便利な場所に位置しており、その邪馬台国と瀬戸内海・四国をつなげるルートが、大分から朝倉に抜ける山間ルートなのです。
このルートは、狗奴国がいたであろう熊本方面に近いので、狗奴国勢力がちょっかいを出してくるのを防ぐ必要もあります。
ですので、この沿道の部族たちの気持ちを引き付けておくためにも、このルートでの魏使の通行には意味があったと思うのです。
余談ですが、旅程記事のなかで関門海峡についての記録がないのは、魏使は左に見えた陸地を「本州」の規模ではなく、「普通の島」くらいに思ったからではないでしょうか。
関門海峡の重要性は地図で説明されないとピンと来ないと思うのです。魏使は瀬戸内海を東方へは向かわず、九州の北岸をひたすら沿岸航海したと考えれば、関門海峡を無視したとしても不思議ではありません。
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倭国訪問は魏の事情にもよる
西暦57年に光武帝が倭王に金印を与えたときの倭王の地位は
漢委奴国王 → 漢に属する委奴国王(私は「倭の奴国王」とは読みません)
です。一方で卑弥呼の場合は
親魏倭王 → 魏と親しい倭王
卑弥呼の方は対等関係に少し近い表現です。
これは中華を統一できていない魏にとって、倭国などの周辺民族を優遇する必要性が高かったことを意味します。
遼東あたりにいた公孫氏という勢力が、呉と連携して魏に対する第二戦線を構築し、呉が遼東へ水上ルートで援軍を派遣しようとしたことがありました。
北方から敵が侵攻してきたら。しかも、北方遊牧民族と連携されたら、魏は滅亡の危険さえあります。
公孫氏は魏の司馬懿によって滅ぼされましたが、朝鮮半島に呉が橋頭保を築けば、魏は戦略的に重大な危機に直面しますし、実際に呉はその戦略を模索していたでしょう。
半島を魏の味方につけておくためには、その南に接している倭人たちを味方につけておく必要があります。
卑弥呼の女王国は積極的に魏に接近してくれましたが、女王国の南方には狗奴国というライバルがおり、呉が狗奴国を支援したら困ったことになります。
呉は230年、兵1万を艦隊にのせて海の向こうの夷洲と亶洲の探索を行わせたという記録があります。
呉は南方から倭にアクセスするルートを知っていて、実際にルート開拓を試みたのではないでしょうか。
しかし、南方からのアクセスは現実には困難でした。
結果として、呉は朝鮮半島沿岸に拠点を作るしかなく、その成否は倭国の動向と密接に関わっていたのです。
これに関連するnoteの記事を見つけまして、わかりやすいのでありがたく紹介させていただきます。
完全武装の呉兵がわずか1000人でも九州に出現したら、倭国情勢は根本からくつがえり、ドミノ倒しのごとく半島にも波及し、魏は北方に重大な脅威を抱えることになるかもしれない。
そういう懸念があったとすれば、魏にとっても積極的に女王政権を支援して狗奴国を抑え込む必要に迫られていたと言うことです。
女王国が九州から瀬戸内海、畿内にまで及ぶような大勢力だったとしたら、狗奴国との争いに魏は気遣いしないでよかったでしょうし、張政をわざわざ畿内にまで派遣して告諭する必要もなかったでしょうし、はるか東方にあったことになる狗奴国が張政という中国人の話に耳を傾けるはずもありません。
狗奴国がそれほどに危険な国なら、邪馬台国は拠点を西方に移動して難を避ければいいだけのことで、畿内の邪馬台国が魏の軍事力をあてにするのはあまりに不自然です。
倭人伝の骨格を信じるなら、邪馬台国が畿内にあった可能性はかなり低いと感じます。
水行20日はむしろ速いペース?
土佐日記によると、京と土佐の間の水上移動距離は約350KMで、その旅程は約55日間だそうです。
平均一日7KM程度です。
これには船旅に適した天候を港で待つ日数も含まれます。
天候の良さそうな日の朝に船出し、夕方までに余裕を持って港に飛び込み、つぎの天候の良い日を待って出発します。
不弥国から宇佐あたりまでの水上移動距離を180KMだとすると水行25日くらいになりそうです。
つまり、倭人伝が言う水行20日というペースはけっこう早い、ということになります。
宇佐から大分市あたりまでの水上移動は100KMくらいですが、これだと水行14日くらいになり、魏使の水行10日の方が早いです。
当時の航海技術では、水行20日プラス10日程度では、そうそう遠くまでは行けなかったと思います。
卑弥呼は邪馬台国の女王ではなかった可能性も
魏志倭人伝では「邪馬台国」という言葉が一つしかでてきません。
一方で「女王国」という言葉は5か所で出てきます。
①「到伊都國、官曰爾支、副曰泄謨觚・柄渠觚、有千餘戸、世有王、皆統屬女王國、郡使往來常所駐」
②「自女王國以北、其戸數道里可略載、其餘旁國遠絶不可得詳」
③「自郡至女王國萬二千餘里」
④「自女王國以北、特置一大率、檢察諸國、諸國畏憚之、常治伊都國、於國中有如刺史、王遣使詣京都・帶方郡・諸韓國、及郡使倭國、皆臨津搜露、傳送文書・賜遺之物詣女王、不得差錯」
⑤「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
よく見ると「女王国」という言葉の使い方には、全体として不統一な部分があるのですが、「女王国」は女王に服属している国を含めた女王の勢力圏を意味していると思われます。
女王国=邪馬台国 という説が一般的らしいですが、だとしたらなぜ魏誌は「女王国」と「邪馬台国」を使い分けるのだろうか?と思います。
倭の世界を完全に支配していない女王を倭王と認めた以上、倭のなかで、女王に属する部分とそれ以外の部分を区別する必要があり、そのために用いる言葉として「女王国」ほど適切な言葉はありません。
だから、「女王国」=「邪馬台国」 という説にはどうにも納得がゆきません。
「卑弥呼は邪馬台国の女王」とよく言われますが、それもどうでしょう。
南至邪馬壹國 女王之所都
としか倭人伝は語っていないのです。
邪馬台国は卑弥呼が都としている場所だ
ということはわかりますが、卑弥呼が魏使を迎え入れる時期に、卑弥呼の居場所(都)がたまたま邪馬台国だっただけかもしれません。
総理官邸が東京にあるから東京都知事は総理大臣だ。
このような誤解をしている可能性がありえます。
つまり、卑弥呼は<邪馬台国に本部を置く倭国連合政権の王>ではあるが、邪馬台国のトップは別に存在した可能性もありえるのではないかと。
伊都国には神聖倭王家がいた
伊都国について「世有王、皆統屬女王國、郡使往來常所駐」
代々、王がいて、彼らは女王国に統属し、帯方郡の使いがいつも往来し常駐している
この記述は非常に興味深く重大です。
代々伊都国にいた王というのは、漢の光武帝から金印を受け取った倭王家の継承者だとしか考えにくいのです。
卑弥呼の時代でも伊都国は外交関係の窓口として機能していて、そこに金印を受け継ぐ倭王家がいるということは、伊都国が本来の倭国の首都だったということです。
彼らは正統な倭王家でありながら、代々、女王国に服属していました。
つまり、権威の象徴である神聖王家が伊都国に存在した一方で、実力で倭国連合をまとめる権力が別に存在したということです。
これは天皇家と幕府の関係のような二重権力構造に見えます。
邪馬台国は伊都王家の臣下の筆頭として周辺国を束ねており、実質的な倭国の支配者だったのですが、邪馬台国指導部にとっては、倭王が狗奴国などのライバル勢力と手を結ぶと困るので、政治に口出ししない無能な倭王を望んだでしょう。
巫女的な女性を伊都王家から選んで形式的な倭王とし、伊都国から引き離して邪馬台国で管理していた可能性もあります。
だとすると、伊都国にあった一大卒というのは、六波羅探題や京都所司代のようなもので、天皇家に相当する伊都王家が地方勢力と結びついたり、勝手に外国と通じたりしないように邪馬台国勢力が監視していたと推測します。
倭国大乱の実像は
伊都の委奴国王が倭王として後漢から金印をもらったのが西暦57年、そして107年には
倭面土國王師升等獻生口
という中国側の記事がありますが、出典によって若干字が異なるところ、あえて上記を選んだのは
「倭面土國」が「やまとこく」という音に近いことが、偶然ではないように思えるからです。
しかも、「師升等」は<師升たちが>という意味にも受け取れます。
もしそうであれば、この時点で倭における実質的なリーダーであった師升(邪馬台王)が、部下たちと連名で朝貢したと想像できます。
師升が、後漢から金印をもらった正当な倭王家であったのなら、師升という固有名が記録されたり、複数で共同して朝貢したという記事になるだろうか?
という疑問が沸いてきます。
足利義満のような実力者が登場し、中国との交易権を得るために新たに国王として認めてもらう必要が生じたので、自分の実力を証明するために倭の有力者を引き連れて朝貢する形式を取り、後漢側も仕方なくそれでよしとした。
そんな雰囲気をこの記事から感じます。
天皇家に相当する伊都王家が併存しているからこそ起きる現象ではないかと思います。
だとすると、邪馬台国は室町時代における足利将軍家のような立場であり、師升による朝貢のおよそ70年後に発生する倭国大乱というのは、応仁の乱のような邪馬台国政権における主導権争いであったとも想像されます。
最終的に、邪馬台国の主導権を握る者が現れたと思うのですが、その後の展開にはいくつかの選択肢があります。
(1)自分の姉を倭国王に祭り上げ、自分は邪馬台国の王になった。
(2)自分の姉を倭国王兼邪馬台王に祭り上げ、自分は集団指導体制の議長になった。
(3)伊都王家出身の巫女を倭王に祭り上げてその弟に補佐させ、自分は邪馬台国の王になった。
歴史の通則から考えると、おおよそこんな様子だったと思います。
ヤマトは矢部川流域で生まれた?
伊都王家は金印をもらうずっと前から倭国を代表する神聖王家だったでしょう。
倭国貿易振興会の会長のような立場であり、気象予報士でもあり、海の神の祭祀者でもありました。
命がけで海をわたる倭人たちにとって、航海の安全を祈願し、よきアドバイスをくれる伊都王はありがたい存在であり、卑弥呼の時代においても宗教的権威として機能していたのでしょう。
数百年の間に、九州はもちろん、列島全域で伊都王家(倭王家)の子孫が地方の王家に婿入りしたり、分家の王国を作ったりしていたでしょう。
それらの分家のなかから、筑後川流域の開発に成功した邪馬台国が勃興し、伊都王家は金印を手にしてからまもなく、倭国王としての実権をコロっと奪われてしまいました。
私は、邪馬台国は矢部川流域で生まれ、その後、筑後川流域へ進出し、有明海と玄界灘をつなげる水路を開拓したことで覇権を握ったと想像しています。
矢部川周辺には「やめ」「やま」に関係する地名が多く、「山門郡」もあったのですから、ここが邪馬台国の故郷と考えるとしっくりきます。
邪馬台国は北部九州で覇権を握ってから拠点を朝倉地方に移したと考えます。
筑後川流域を開拓すれば、有明海と玄界灘をつなげたくなるのは自然な成り行きで、その結節点を拠点にすることは避けがたいでしょう。
遷都のあと、「ヤマト」は地域名ではなく倭国政権を象徴する言葉に変化していったようです。
都市の固有名称だった「ローマ」が、やがて国家や文明を意味する言葉に変化したのと似たような現象ではないかなと。
狗奴国の王は伊都王家かまたは邪馬台王家の有力な分家だったから、代々、邪馬台国の指導層と覇権を争ったのでしょう。
邪馬台国は東遷していない
狗奴国がその後どうなったはかわかりませんが、卑弥呼の死後も朝倉地方が倭の政治経済の中心であり続け、地方の有力者たちは、邪馬台の権力者のご機嫌をとって利権を確保するため、頻繁に「邪馬台(ヤマト)」を行き来したでしょう。
やがて 倭王権=ヤマト という認識が倭人社会で定着してゆきました。
東遷説というのがありますが、北部九州の邪馬台王権がそっくり畿内に遷都したという話はどうもしっくりきません。
北部九州が発展する過程では、災害が起きるたびに瀬戸内海方面へ難民が流出して海賊化し、これへの対処として高地性集落が作られた可能性を考えています。
裏付け情報は一切ありませんが、3世紀の末期から4世紀の前半に致命的な大洪水などが筑後川流域で頻発し、中華帝国も混乱期に突入したこともあって、邪馬台国を中心とした秩序が崩壊し、大量の難民が生じて瀬戸内方面で海賊化したかと妄想します。
以下は神武東征説話を参考にした想像になります。
このとき、被害を免れていた日向の分家の一人が、豊富な食料を背景として難民と海賊を糾合し、畿内へ進出してくれるよう方々から声をかけられました。これが神武天皇となります。
日向を出発した神武天皇は豊前宇佐、筑前岡田で難民や人材を募集して軍勢を整え、広島や岡山あたりで海賊の首領や沿岸の王たちを呼び集めて瀬戸内海秩序の再構築を約束をし、彼らの支援を取り付けて畿内へ上陸したと想像します。
邪馬台政権の崩壊によって失われた秩序の回復を期待されて誕生した権力ですから、この新政権が「ヤマト」を名乗るのは自然な成り行きです。
九州の「ヤマト」の周辺にいた人々がまとまって奈良盆地に移住して開拓に従事すれば、そこが新たに「ヤマト」と呼ばれ、北部九州の地名が当てはめられることになるでしょう。
北部九州の邪馬台国時代の記憶は、邪馬台国政権の当事者ではなく、その周辺にいた人々のぼやけた記憶をもとに「高天原」の神話として伝承され、神武天皇は日向に降臨した天孫の末裔ということになりました。
しかし、神武天皇が畿内に進出してみると、奈良盆地にはすでに別の分家が割拠していましたとさ。
あとは神話のとおりということにしておきます。
混乱する北部九州がしばらく放置されているうちに、邪馬台国を主体とする倭王権は地方豪族の地位に転落し、日田のダンワラ古墳を作った人たちにつながったかもしれません。
妄想が過ぎましたので、このあたりでやめておきます。
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